旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

謎の巨石「岩船」、牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)

2022-05-16 07:07:07 | 国内
山道を五分ほど登ると竹藪の斜面に黒い巨石が鎮座していた。
8×11m×高さ4.7m、硬い花崗岩。加工途中の線が縦横にきざまれている。

斜面の上方にまわると平らに加工が完了した?面で↑上部に彫り込まれた穴が見えてくる。

↑一辺約1.6m深さ1.3mの穴が二つ開けられている↓

↑これはいったい何か?
「碑文」を立てた台座だったと、江戸時代の観光案内には書かれている。
※江戸時代の観光本で人々が登っているところが描かれている※奈良県のページにリンクします
リンクの文献にある「益田池」が9世紀に建設されたのは確か。それを記念した碑がここにあった?
だとしたらどれだけ巨大な碑だったのだろう。その碑は高取城の石垣建設に使われたので失われたというのだが…。

近年ではつくりかけの古墳石室説が主流。
途中で岩にヒビが入って放棄されそのままに?
その証拠に、二つの穴のうちひとつにはヒビによって水が溜まらないのだそうだ。

この後に見た牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)の石室がよく似た形をしていて、「あぁ、これをつくろうとして失敗したのかぁ」と思った。

江戸時代には竹藪はなくて、山の上から周囲が見晴らせたそうだ。ここは標高130mの尾根に近い場所。

そのまま山道を歩いてゆく。

今朝まで雨が降っていたから足元はよくないし、途中で木が倒れていたりする道。

林が切れて見えた小山は↑真弓鑵子塚古墳(まゆみかんすづかこふん)↑さっき見た沼山古墳とおなじような持ち送り式の石室があり、ミニチュアの炊飯器具が見つかったのだそうだ※2008年の明日香村教育委員会の資料にリンクします
「土地所有者の方が安全のためになかなか一般公開されないのです」とのこと。

すぐに開けて↑なにやら人工的な白い小山が見えてきた↑ここまで復元するのはやりすぎでは、と思ったが…

●牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)
江戸時代からあさがお(=牽牛子)塚と呼ばれていた場所。
2009-10年に本格調査がされ、もともとの丘の上に版築で対辺22mの八角形の墳墓をつくり表面は凝灰岩の敷石で覆っていたと判明。この復元は「やりすぎ」ではなく、当時の姿そのものにかなり近いらしい。
今年2022年の3月に完成して一般公開されたばかり(^^)

逆側にまわってみると、

↑石室の一部が見えるようになっている↓

内部は巨大な石をくりぬいた石室で↑二つの墓室があった↑

↑内部写真↑※明日香村教育委員会が作成している案内より
さっき見た「岩船」は、もしかしたらこういう構造を削りだそうとしていたのではないかしらん。

合葬されていた二人は誰なのか?
日本書紀に「斉明天皇と、妹の孝徳皇后(間人皇女)を小市岡上陵(おちのおかえのみささぎ)に合葬した。この日皇孫大田皇女も陵の前に葬った」という記述があり、これが書けるのは斉明天皇の息子で間人皇女の兄で大田皇女の父であった天智天皇しかいない。
ただし、この場所自体は文武天皇(天武天皇の孫・天智天皇は大叔父にあたる)が改葬したと推察される。

2010年の調査の際、すぐ近くで見つかった墓が大田皇女のものと推察されている。
※発見した西光さんの現場主義の話が朝日新聞のページにありました

↑この墓が見つかったことによって「日本書紀の記述と合致した!」となったわけだ。
※奈良県のページにリンクします
大田皇女のものではないかとされる墓も↓


↑そのものがこんなカタチで公開されている↑覆っていた石は一部をのぞいて破壊されてしまっているが。

二つの古墳は盗掘されていたが夾紵棺(きょうちょかん)の破片や七宝金具などが見つかっている。
さらに四十代ぐらいの女性の臼歯もあったそうな。
間人皇女もこの年代で亡くなっている。

**
この日最後に●岩屋山古墳に入った

「舌を巻くほど見事な仕上げと石を完璧に組み合わせてある点で日本中のどれ一つとして及ばない」
明治のはじめに四百以上の古墳を調査したウィリアム・ゴーランドが言った。
(イギリスからのお雇い外国人、「日本考古学の父」と尊称される。イギリスでもストーンヘンジを調査して年代を特定した)。

入口から13m続く羨道の両サイドはぴったり切りそろえられた大石が並ぶ。
これは雛型となる設計図があって、「ムネサカ一号墳」とぴったり同じ石の積み方なのだそうだ。

↑入り口部分の下の三石・上に二石の部分をはじめ、両古墳の図説を見せてもらうと同じ設計図に基づいて建設されたと納得する。
古墳建築には確立された技術を駆使した技師と職工集団があった証拠だ。

石室の高さは約3m。ウィリアム・ゴーランドを驚嘆させたピッタリした石組は千三百年経ってもびくともしていない。



入口の上にある↑この切れ込みは外から水が内部に入り込まないためのもの↑

これだけの石室に葬られたのは誰だろう?
一説には前出の牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)に改葬されたと推察されている孝明天皇を、最初に埋葬したのがここだという。

ここは土に埋もれていたわけではなく
隣家が長い間物置に使っていたのだそうだ。
つまり、埋葬品などはまったく不明。

↑石室の上にのぼってみると↓

方墳の半分はなくなって、家の敷地になっている↑
石室部分が破壊されなくてほんとうによかった。
コメント
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