旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ダニーデンは「ニュー・エジンバラ」だった~世界一急な坂、オタゴ大学、ダニーデン駅、英国風の教会

2023-12-23 13:40:01 | ニュージーランド
カタカナの「ダニーデン」からDUNEDINという綴りはうかばない。
※由来を後述します
↑1906年開業のダニーデン駅のホーム看板
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最初に街の位置がわかるシグナル・ヒル展望台へ

↑対岸に複雑なカタチをしたオタゴ半島↑
半島によってできた入江の奥にダニーデンがある。
最初の入植は1840年代。
見晴台の公園は入植の百年後「次の世紀」を記念して、もとあった公園を拡張した。
1840年はイギリス人がマオリ族からニュージーランドを取得したとされる「ワイタンギ条約」が結ばれた年である。

巨大なモニュメントは1950年代に完成した↑ブロンズ像↓

あとから調べてみるとこの女性は「the thread of life」↑つまり、抱えている毛糸の玉は魂の緒だった。
※ギリシャ神話の「モイラ」=命を司る三姉妹の女神↑糸を紡いでいいるのはそのうちのクロート?

逆サイドに坐する男神は歴史をあらわしている↑製作者はこの二つの像で何を伝えたかったのだろう。

↑モニュメントの前に置かれた石は↑スコットランドのエディンバラ城のもの↑1841年に贈られた↑
スコットランド移民は、はじめはNEW-EDINBURGH(ニュー・エジンバラ)と名付けたが、のちに(エジンバラの古い名前である)Din Eidyn→DuneideannからとってDUNEDINと改名した。Dinは古いゲール語(ウェールズ語という解説もあった)で城塞の意味。
EDINは、5、6世紀の聖女Edanaはアイルランドの聖人パトリックの弟子だったとされる

モニュメントの裏側にスコットランドのシンボル↑アザミ

ニュージーランドのシンボルのシダ↑

↑オタゴ地域の紋章にも↑いちばん上にイングランドのバラ↑ 左右にスコットランドのアザミ ↑下にアイルランドをあらわすクローバー(Sham rock)(聖パトリックのシンボル)
現代に至るまでダニーデンはスコットランドとのつながりを大切にしている。
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世界一急な坂が、ダニーデンのボルドウィン・ストリート

住民はぜんぜん知らなかったが1987年にNZのキャスターがギネスブックに申請し、
サンフランシスコの坂を抜いて一位と認定された。
2019年にウェールズのスノードニア国立公園の道が世界一とされたが
2020年に厳密な測定の結果、一位に返り咲いた。
勾配はおよそ19度になる。

こんな道が出現した理由は、都市計画をした本人がここを訪れていないから。
イギリス本国で地図にまっすぐな道を引いて、それが実際にどんな坂道になるかは気にしていない。


↑坂から市の中心へ向かう途中の学校↑門が出征兵士の記念碑になっている↑
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↑オタゴ大学はニュージーランドで最も歴史ある大学↑
1869年三人の教授によってスタートした。
1861年にオタゴ半島で金が発見されたことがダニーデンが栄えた理由。
1872年に鉱山を専門にする学部も創設されている。

ひとつの街のような場所

川沿いの散歩道もキャンパス

↑マラマ・ホールは1919年にリバプール伯爵によって礎石が置かれ1923年に完成した。

Arthur William第二代リバプール伯は、初代のニュージーランド総督になった人物。
オタゴ大学の「演劇部」が主にこの建物を使っている。


↑時計塔は2019年から古い鐘が鳴らされるようになった。

そのうちのいちばん大きな鐘?がベルタワーに入らなかったのか地面に置かれていた
↑1863年エジンバラと刻まれている↑
大学のHPに鐘の歴史があったのでリンクします↓とても足りませんが以下に要約↓
1863年にエディンバラで鋳造され、翌年ダニーデンの見本市会場に置かれた鐘。
1871‐77年までその建物が大学になって、鐘は大学のシンボルになっていたのだが、
1877年に建物がコロニアル・バンクに売却された際、新しい所有者が時計と鐘は販売用の備品であるとして、大学側の所有権を拒否した。
1969年に証券取引所となった建物が取り壊された時、鐘は行方不明となっていた。
1997年に発見され、メリディアン・モールに展示されていたが、
2019年に大学の時計塔に設置されたのだった。


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突然見えてきた中華門は2008年にオープンした中華庭園の付属として、2011年に上海から贈られたもの。
ダニーデンの市長は2004年から2010年まで中国系NZ人のPeter Chinという人物だった。
中国名は陳荣和。
1941年生まれの彼の先祖は19世紀に移民してきた初期中華移民。
ファミリーはもともとテイクアウトのフィッシュ&チップスを売っていた。
名門オタゴ・ボーイズ・スクールからオタゴ大学へ進学し弁護士になり、
市議会議員から市長になったのは、NZ中華系移民を代表するサクセスストーリー。
在任中に中国との関係を密にして、中華庭園やこの中華門を町中に出現させたのは議論になった。

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ダニーデン駅が見えてきた

世界遺産に登録されただけのことはある↑白い石は今日歩いていたOAMARUオアマルの石灰岩だ※リンクします


今も駅舎として使われ、誰でも入ることができる。

↑第一次大戦の出征兵士がここから出発したことを記したプレート

内部は見事なタイル装飾

英国王室御用達のロイヤル・ドルトン社のタイルを75万枚使用しているのだそうな。
※NZ観光局の日本語HPにリンクします
20世紀初頭はアールヌーボーの時代↓

↑取っ手ひとつに時代が凝縮されている↑

ステンドグラスもあの時代らしいデザインだが、今見ても古臭くない。
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↓1863年創立のオタゴ・ボーイズ・ハイスクール↓
↓ここもオアマルの石灰岩を使ったイギリス本国そのままの建物↓

前出の元市長=中国系のピーター・チン氏もここの卒業生。
後輩が門の前に座ってる。

↑この学校入口にも第一次大戦出征兵士の像がある↑

アーチに書かれているのは学校のモットー?と思って調べてみると、
学校のモットーはラテン語で“Recti Cultus Pectora Roborant”
英語なら “The ‘right’ learning builds a heart of oak!”
日本語なら「正しい学びは《樫の心》をつくる」
※樫は固くて粘りがあり強い

門のアーチに書かれていたラテン語は、調べてみると
「Dulce et decorum est pro patria mori」。
訳すなら「愛国的な死は甘美で正しい」という少々怖ろしい言葉だった。
この言葉は紀元前一世紀・共和制ローマの詩人ホラティウスのもの。
※当時ローマは大国パルティアとの闘いに大敗していた
第一次大戦に従軍したイギリスの詩人ウィルフレッド・オーエンが、
二千年前の詩の一説を引用し有名になった。
オーエン自身が第一次大戦が一週間前に戦死している。
※オーエンは皮肉を込めて書いたとする解説もあった

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こちらも英国風のセント・ジョセフ大聖堂↓

↑1969年建造のカトリック教会

↓こちらノックス教会は1872年11月25日に完成した。

↑「ジョン・ノックスの死後ちょうど三百年の日だった」と、教会HPに誇らしげに書かれている。
ノックスは16世紀後半の宗教改革者。
メアリー・スチュワートとも会っている。
※2017年にエディンバラ徒歩観光で出会ったノックスの像を載せたブログにリンクします

ノックス教会を設計したRobert Lawsonが↓こちらファースト・チャーチも設計している↓

↑確かににている。※夕食後の散歩の時に撮影
ジョン・ノックスの創設した長老派教会はダニーデンの創成期にもっとも主流だったようだ。

17時過ぎ、ダニーデンの中心である「オクタゴン」近くのホテルにチェックイン。
南半球は初夏でまだまだ明るい。
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