旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

リスボンを公共交通機関で観光

2014-04-14 22:49:00 | ポルトガル
太平洋に面したホテルを朝出発し、十時にはリスボンに到着。見覚えあるポンバル侯爵の銅像が見えてきたバイシャ地区にあるホテルに荷物を置き、そのまま徒歩と公共交通機関での観光をはじめよう。
まずは、一日券6.5ユーロを購入。ガイドさんの裏ワザ?宝くじ売り場の建物にてまずは、大きなバスでは上がれないサン・ジョルジュ城へ。機械でピっ
この丘の上の雰囲気はマカオによく似ているテージョ川にかかる4月25日橋の向こうに、初日に上った「クリスト・レイ」の像が見える
眼下には起伏の多いリスボンの街。サンタ・ジュスタのエレベーターとその横に1755年の地震で壊れた姿で残されているサン・カルモ修道院の教会。


サン・ジョルジョ城の博物館には、ここから発見された長い歴史にちなむモノが展示されている。イスラム支配時代に見つかった、墓の副葬品イスラム教徒の墓というのは、身分に関係なく白い布に巻かれてなんの装飾もなく直接地面に葬るものだが、身分ある人・豊かな人はやはり何がしかの副葬品を入れる事もしていたのだそうだ。

城から歩いて、よく観光バスも訪れる展望台へリスボンの守護聖人のひとりサン・ビセンテが、自分の遺体を運んだ船と二羽のカラスを持っている
ここからトラムでバイシャ地区まで降りる
再び歩き出すと、お菓子屋のショーウィンドウにこんなものをみつけた復活祭が近いので、卵を丸ごといれてある。きけば、殻も剥かず丸ごとなんだそうな!たべるのたいへんでしょうに。

お次は地下鉄に乗って

レスタウラドゥーレス駅近くのモダンなお店で昼食この前菜セットはそれぞれとても手が込んだポルトガルらしい味わい。

フランスでいうシャトー・ブリアンを、訪れる多くの常連さんが注文していたので真似する。
じゃーん!

みんなで分けていただきましょう(^^)ツアーの一人一皿食事じゃ、こういう事は難しいのです。
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ポルトから電車でリスボンへ

2014-04-13 20:39:33 | ポルトガル
ポルトからリスボンまではバスでも半日あれば行ける移動距離だが、電車を利用することにした。市の中心部にあるサン・ベント駅ではなく、東に少し離れたカンパニャン駅
スーツケースはバスでフェルナンドさんが運んでいってくれる。今日は休日だから我々の到着に間に合うかな
新幹線というのではなく、いわば在来線特急
列車の座席番号が実に複雑!規則性が分かりかねます。たくさん駅にとまり乗降客も多いから、車掌さんがきてやっと安心した。

**
リスボンはオリエント駅へ到着この駅を間近に見たいと思ったのも、列車を利用する理由だスペインの建築家、サンチャゴ・デ・カラトラーバの作品 スペイン北部のビルバオの空港やバルセロナのモンジュイックの丘の電波塔など、この方の作品、結構好きです。

***シントラはカメラをバスに忘れてすんません<(_ _)>

ロカ岬は霧が出ていた宿泊は近くの大西洋に面したホテルを選んだ。
朝夕に大西洋を見て過ごすのも楽しそうじゃありませんか?
「ヨーロッパ最大です」とフロントの方が言ったプールがあるリゾートホテル

たくさんのサーファーが波の高い海へ出ていた。

****
晴れていなくてもダイニングは楽しめる

明日はいよいよリスボンへ
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ポルトとドゥエロ川

2014-04-12 06:42:59 | ポルトガル

エッフェルの弟子テオフィリス・セイリクがパリのエッフェル塔とほぼ同時期に建設したドン・ルイス一世橋↑たしかにそっくりの構造をもっている(^.^)↑ドゥエロ川の両岸が国名の由来となったポルト地区とカレ地区。

クリア・パレスを出て二時間ほどでポルトの街へ到着。まずは大聖堂でガイドさんと待ち合わせ1387年。この教会で、「エンリケ航海王子」の両親であるポルトガル王ジョアン一世とフィリパ・ドゥ・ランカスター(イギリスより)の結婚式が行われた。ドゥエロ川を見下ろすこの高台には、かつてローマ時代の神殿があったと考えられているポルトをイスラム教徒から解放したヴィマラ・ペレスの像が建てられている。彼はアストゥリアス王アルフォンソ三世の臣下だった人。この頃はまだポルトガルという国は成立してない。当時のポルト市街を囲っていた城壁の名残
大聖堂前のテラスで対岸にゴンドラが行き来しているのを見つけて「のってみいなぁ」と言う方があった。よし、じゃ、乗りに行きましょ。ちょうどこれから行くポルトワインの工場にも近いし(^^)。 橋を渡っていると、下に蚤の市テレグラフィコと呼ばれている一回五ユーロは安くないでも、景色は乗ってみるだけの価値がある対岸・ポルト側の丘の上に、クレリゴスの塔と旧市街が美しい。

こんな角度じゃ、なかなか見られませんよ。

ドゥエロ河畔に降りてくると、そこにはポルトワインの工場がたくさん並んでいる。中でも有名なSANDMANを見学イギリス人のサンドマン氏が設立した会社。ガイドさんは定番のこのスタイルで登場するマントはポルトガル(コインブラ大学の学生のスタイル)をあらわし、幅広帽子はスペインをあらわす。サンドマンはスペインのへレスでシェリー酒も製造していた。
**
反対側の河畔にエンリケ航海王子の像がある彼はこのポルトでポルトガル王とイギリスから来た母フィリッパ・ド・ランカスターの間に生まれた第五子(諸説あり)。
近くのフランチェスコ教会を見学。写真左の建物が教会。右側に後世にぴったりくっつけて建築された証券取引所がある

ここは新大陸からの黄金をつかって飾り立てられたバロック装飾のひとつの究極だろう。今は厳しく写真撮影禁止を守らせているが、だいぶん以前に撮影自由だった頃のものを載せます。

昼食は、パッケージツアーで長く使っているChez Lapinにて蛸のフリットと小豆のリゾット?日本人の口に合うと思う。


***
午後早くに旧市街中心部にあるホテルへチェックイン。
身軽になって再びポルトの街をウォーキングへ。この町は起伏があるのを気にしなければ歩くのが楽しい。坂を下りて、サン・ベント駅ここはアズレージョ装飾が美しいので有名

この場面はエンリケ航海王子が1415年にセウタ(今のモロッコの海岸部)を攻略した図。

少し歩いて、大聖堂横からドゥエロ河畔に降り、一時間のクルーズをしてみる天気が良いのでデッキに集まる地元の学校からの団体。

我々も風が気持ち良いデッキの席へ。
18時からの、今日の最後のクルーズ船に間に合ってよかった。

河畔から上の街へ戻るのに、バスから見かけたケーブルカーを利用してみた。これがチケット美しいドン・ルイス橋と城壁のコントラスト。向こうはカレ地区



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少し陽が傾いてきた
お昼けっこう食べたので、夜は軽くマジェスティック・カフェへ。ここ特製のカクテル、サングリアはいわゆるシャンペンベースになっている甘いけれど美味しいフレンチトーストホテルへの帰り道、同じ場所からのクレリゴスの塔。※この塔についての話はこちらからお読みください。
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トマール、ファティマ、コインブラ

2014-04-11 17:00:00 | ポルトガル
マルヴァオンの朝
出発前の二十分だけでも散歩する価値がある。


標高850mはあんなにお天気だったのに、川近くに降りてくるととたんに霧がかかってきた

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トマールの修道院にもこんな水道橋が続いていた。

ここは十字軍のエルサレムに起こったテンプル騎士団が、十二世紀に中心となる礼拝堂を建設した事にはじまる。この写真でその形がわかるでしょうか。

内部は中世的な八角形の空間になっている

後世に付け加えられたたくさんある中庭のひとつに、ヴァスコ・ダ・ガマの弟の墓があった弟は僧籍にあったのだ。

テンプル騎士団は1314年に最後の総長がパリで火刑に処されて壊滅したが、ポルトガル王だけはその流れを引き継ぐキリスト騎士団を創立して擁護した。
こちら後代に付け加えられた中庭の噴水はキリスト騎士団の紋章をかたどっている
マヌエル様式の代表とされるこの装飾窓がトマールの象徴

ここには大航海時代のいろんなシンボルが組み込まれている。船のネズミをとらえる猫がどこにいるのか探してみると…これです。

はじめてアジアへ到達したポルトガルが、アジアのシンボルとして描かせたのがこの花椿。

***
ファティマで昼食。マッシュルームのクレープ バカリャオ(タラ)とチーズのグラタン

1917年に聖母マリアの御出現があったのは、現在この礼拝堂が建てられている場所五月十三日にはじめての御出現があり、それから半年間・毎月同日に御出現。最後の十月十三日には何万人もの人々が見守る中、御出現があった…といわれているのである。写真で向こうに見える樹木のところで三人の羊飼いの子供たちが待っていた。
当時は林だったが、残されているのはこの木だけである。

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モンデゴ川を見下ろす丘の上にコインブラ大学の時計塔が見えるここにも水道橋がコインブラ大学の学生寮は伝統的に「リパブリック」と呼ばれている
薬科大学などが有名この門を入ると、高台の中庭。ここに大学を定着させたジョアン王そして、当時から宗教のモノだけでなくアカデミックに本を集めた図書館と礼拝堂坂から階段を下りてゆくと大聖堂の横

外への門はアラビア語の名前がそのまま使われている「アル・メディナ」とは街という意味
ロマネスクの美しい教会堂がいくつも

*****
今晩はこの邸宅ホテルに滞在1923年オープンの雰囲気ある建物。

周辺はちょっと散歩するのに良い。
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天空のマルヴァオン

2014-04-10 21:43:36 | ポルトガル
ポルトガルとスペインの国境近くに位置する標高850メートルほどの岩山の上にあるマルヴァオン交通が不便な場所だが、滞在するのに楽しいと確信して《手造の旅》の行程にいれた。

バスはここまでスーツケースはバンがとりにきてくれるので、我々は歩いてポサーダをめざす。小さい街だからすぐわかるだろう。城門をくぐって・・・どっち?(笑)

すぐそばにあったインフォメーションで訊ねて坂と階段を行く。ここのポサーダは一般の住宅を何軒もぶち抜いてつくられているので、目立たない入口だ

荷物を置いたらすぐにお城を目指す。坂道はさらに歩きにくくなってくるかかとの高い靴じゃとても無理。

青空を背景に廃城があらわれた。この青空に恵まれて感謝です城の入り口ここを曲がると入場券売り場。

入場料、1.50ユーロ。我々の国籍を訊ねて何か書いているので見てみると、これをつけているなんと、入場者の数を国籍別に記録していた!
「現在、きみたちがトップだよ(笑)」十五名でもトップ。
入口すぐ近くに地下へ降りる小さな階段があった「チステルン」は貯水槽の意味。灯りは点いておらず、フラッシュで撮影してこの光景がうかびあがったときには驚いた。


少し離れたところにもうひとつ入口があった。よくみまわしてみると、かなり巨大な水槽で、塞いだ上ではサッカーのようなゲームをやっていたと解説版。所々に井戸があり、そこから覗き下ろしてみると、自分たちの顔が映った

**さらに進むと城砦があっただろう場所がひらけて眼下にすばらしい景色がひろがる
中庭にぽつんとワンちゃんが繋がれていて我々が行くとごろんとお腹を見せた。

廃墟の城郭を歩く

この天気に感謝。

街に降りていく白い壁に映る街灯ぼろぼろのこの家は、そのうちきれいに修復されてしまうのだろう観光客のわがままとしては、この方が風情があると思う。

***
陽が陰ってゆく十九時半。ポサーダで夕食のテーブルを用意してもらった

メニューは小松がその時に選んでみんなで分ける。これはナスの包み焼き今回の旅でも一二を争う美味しさだった。エビ蒸しデザートにはマルヴァオンの名物だというヴィネガー風味のカスタード菓子

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朝はまた違う顔のダイニング明日の日記へ続く
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