旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

グアナファト到着

2018-11-21 22:53:58 | メキシコ
グアナファトの街を俯瞰するピピラの丘

メキシコ独立戦争の口火を切った1810年、ピピラはスペイン軍のたてこもる頑強な建物を突破した英雄。その巨大な像がある。

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メキシコシティへの直行便はB787。
この機体が開発されたおかげでやっと直行便を就航させることができたのだそうだ。
メキシコシティ国際空港は中南米一のハブ空港だが、標高は2230mに位置している。

機内設備はひととおり快適。エコノミークラスの前三列は「プラス席」として一区間180ドルプラスで使うことができる。今回これにしたが、座ってみると確かにその価値があると感じた。

機内食は「メキシコらしさ」はまったくなく、日本のケータリング会社が用意した定番もの。

メキシコシティが近付いてくると見渡す限り広がる市街地の中に湖のようなものがみえた。
アステカ帝国の首都は14世紀に湖を干拓して島の上につくったが、スペインはそれを完全に埋め立ててしまった。
そう理解していたが、周辺にはまだ昔の名残は見られるということか。

入国カードのみ配られる。税関申告書はなし。
飛行機は13時前に着陸した。
ごく簡単にスタンプをおされて入国。スーツケースターンテーブルのエリアへの入り口で「乗継案内」と日本語のカードを持った係員がいた。荷物は自動で乗り継ぐのでここではとらなくてよいそうだ。公共エリアへでる手前左にあるエスカレーターで出発階へ上がる。

混んでいる。中南米一のハブ空港というのだが手狭に感じる。一見近代的に見えるビルも古くて、放送が反響して聞きづらい。

15:30発なので一時間ほど自由時間。
両替所は小さなところが一軒だけ。
US100ドル=1860ペソ。ざっと換算すると1ペソは六円ちょっと。

免税店をチェック。メキシコならやっぱりテキーラ? キューバも近いからラム酒?


こんなお店も↓


↓これは見るからに日本…のニセモノ↓

飛行場で迷走なんかしたくないです。

14時半になってレオン行のゲートは75Bだと表示される。
そこで搭乗開始を待つ、待つ、待つ…のだが出発時刻の15:30になってもゲートに行き先表示さえ出ていない。
放送がないので直接訊ねる。
「ディレイ、17:25」と、さらりと言われた。
それにしてもゲート表示板にまったくディレイの表記が出ず、「ON TIME」のままになっている。
「AM130便 15:30ON TIME」の表示は、16時ごろにフライト表示ごと消えていた。
これがメキシコ流かしらん。

不安になるので何人もカウンターに行く。
日本人ビジネスマンらしき人をちらほら見かける。
メキシコへ進出している日本企業は七百十五社で、うち半分が売り上げ百億以上の大企業だと予習していた。
進出エリアはメキシコシティの北西部。つまり今日われわれが訪れるレオンのあるグアナファト州あたりである。
「お車関係ですか?」と話かけると、
「今朝ドイツから飛んで乗り継ぐ筈が、この空港が霧で乗る予定の便が飛ばずにずうっと待っているんですよ」
と、返ってきた。

16時半になり、聞き取りにくいスペイン語のアナウンスが流れる。フライト表示板には何も出ていないが、AM130便のゲートは75Cになったようだ。これ、となりのゲートではまったくない。聞き取れた人だけがゆるゆる一階下のバスゲートに移動しはじめる。
ゲートに表示された行き先はLEONでなくBAJIOだが、これで正しい↓

飛行機へのバスがやってきたのは17時半過ぎ。すでに陽はかたむきはじめていた↓


飛行機のタラップから赤い夕陽が大きく見えた↓


窓際の席に座り、夕暮れのメキシコシティを空中から見られるかと思ったのだが、いっこうに出発しない。
うとうとして目が覚めても、まだそのまま。機内アナウンスもなく一時間以上は待たされ、夕景は完全に終わって夜になった。

19時半になりようやく機体が滑走路へ移動しはじめる。
飛び立つと、街の灯りが平たく地上を覆っていた↓

メキシコシティは市域に二千万人以上が住む、世界最大の「街」であるそうだ。

レオンまでの飛行時間は実質四十分ない。
小さな村落の灯りが点在している↓


19:56、当初の予定より四時間半近く遅れてレオン空港に到着した。
ところが空港の表示をみると↓

え?グアナファト
それであっている。この空港はレオンにあるのでレオン空港と表示されるが、通称ではグアナファト空港。
そして、アルファベット略号は地域名の「バヒオ」からBJXである。

三つの表記がばらばらに出てくるので知っていないと混乱するだろう。

心配していたスーツケースは無事にすぐに出てきた。
到着ロビーで、ずっと待ってくださっていたセザールさん、お待たせしました

グアナファトまでは三十分少し

ホテルに行く前に、冒頭の写真の場所、グアナファトを見晴らすピピラの丘へ行くことにした。
丘に着いたのは午後九時。夕景ではなくなってしまったが、一見に値する夜景↓市の中心にある大聖堂が間近に見えた↓



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デュシャンの見つけた美

2018-11-12 14:18:20 | 国内
マルセル・デュシャンの展覧会はめずらしく写真撮影OKだった。
いきなり自転車の車輪がそのまま登場。

デュシャンの最も有名な作品というと、1917年に物議をかもした「泉」だろう↓自分自身がメンバーである美術グループ「アンデパンダン」の展覧会に、男性用小便器をそのまま置いて「泉」と題名をつけて出展しようとしたのだから問題にならないわけがない↓今回、そのレプリカも出展されていた↓

「レプリカ」というのも変な気がする。だってこれはどこにでも「すでにつくられた=レディメイド」のモノなのだから。

↓この台の上のモノ、なんだと思います?↓

ワイングラスを洗ったあとに乾かすための台↑
これを、「作品」として展示して見せた。

デュシャンは「美術品は一品もの」という概念に疑問をもったのだ。
「美術」という枠にとらわれて、まさに「枠にとらわれた」美を追う姿勢に反発したのだろう。
デュシャンのことばが書かれていた↓

この言葉に回答がある。
美術家などでなくても、たとえば工業デザイナーが真剣に効率を求めて作り出した造形は、自然に普遍的な美しさを持つことになるのだ。

この流れがアンディ・ウォホールの表現や、フィンランドのアアルトの花瓶といった工業デザインに、「進化」していったのだと言えないだろうか。

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デュシャンは1887年生まれ。ピカソより六歳年下。少年時代に描いた父親の像はまるでセザンヌのような色調↓

すでに当時の先端を行く画風をマスターしていた↓キュビズム手法

画家としての代表作と言える「階段を降りる人」もあった↓

二十四歳で画家として生きることを止めてしまったのは、まさに「枠にはまった」美を求めることに疑問を感じたからだろう。

そして、車輪や小便器やらに美を見つけていく。

つまり・・・この展覧会という場で、デュシャン自身の作品だけに美をみつけようとする視点そのものに疑問を感じなくてはならない。
そう思って会場を何度もいききしていたら、こんな視点に気付いた↓

キュレーターが意識してきりとったこの窓、ではない。
窓の一番下のところにちょこっとだけ見えている「消火器」である。
逆側にまわってみると↓

なぜかは分からないが「消火器」のいちばん上の部分が枠の上にちょっとだけはみ出ている。
そうして赤い消火器を見ていると、近くに展示されている「泉」と何が違うのかと思えてくるのだった。
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展示室の最後で利休の好んだ器と花活けがあった↓
1590年、小田原攻めに同行していた折の茶席で、近くにあった竹を切って即席の切り花入れにした時のものだと伝わっている↓

↑そこにあった「ただの竹」の美を、ほとんどそのまま切り花入れとして使ったというわけだ。

↓長次郎作と伝わる黒い茶碗、銘「むかし噺」↓

暗い茶室では目立たない地味な品だが、ろくろを使わないでつくった形は手に馴染むのだという

デュシャンと利休。
共通するのは、「芸術」や「常識」という枠にとらわれずに、自分の目で美を見出した人だということなのだろう。
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展覧会を出て、常設展示のカフェへの入口にまた便器ががあった↓

1917年はTOTO=東洋陶器が設立された年なのだそうだ。
国産初の陶器製便器が1915年に製作され、
デュシャンが「泉」を制作したが1917年にそれを売りはじめていたというのは、たしかにおもしろい偶然である。










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