夕暮れ、「鍬山」の提灯に灯が入った。
こういう景色をお見せしたかった(^^)
*
東京発七時の新幹線に乗り、朝十時に亀岡駅に着いてすぐに「羽衣山」に向かった。
町内の人が集まり、ちょうど人形が鉾の上に据えられたところだった。
↑衣装はまだ着ていない。
凛々しいこの人物は伯梁という漁師。
↓「古世」は昔のこのあたりの地名とか
三保の松原の天女伝説を題材にしている。
江戸中期の明和二年(1756)に記載がある伝統の曳山だったが昭和初期に老朽化して飾り山になった(現地の解説版より)。
現在の山は平成十四年に町の人々の熱意で再建されたもの。
四面をきらびやかに飾っている。
たくさんの懸粧品を備え付ける
こういう作業は毎年受け継いでいかなくてはならない。
人形が衣装をまとった↑むこうに天女の顔も見える。
青空にたちあがった立派な鉾。でも、今年は巡行がないので夕方には解体してしまうのだそうだ。
このタイミングでなければ出会えなかった鉾だった(^^)
**
亀岡の成り立ちに名前を由来する「鍬山」も組みはじめられていた↓
「昔々亀岡は盆地にある湖の底だった。大国主命=大黒様が鍬で山の端を破り保津川に水を流して亀岡の地が現れた」
大黒様は因幡の白兎を助けたので↑白兎がシンボル。
なるほど(^^)、では鳩は?理由は後に訪れた神社で判明した。
こちらも人形が「鍬山」に登るところだった↑
※冒頭の写真はこちら夕方に訪れた時のもの
***
難波山の人形は江戸時代から受け継がれてきたものだそうだ↓
一見普通の家の一室で着付けされている。
よく見ると立派な欄間
鉾は町内の人々の心意気で続いてきたのだと実感する。
↑しばらく後、完成したのを車内から撮影
****
夕方、「鍬山」をもう一度訪れた
過ごしやすい秋に行われる亀岡祭は祇園祭のミニ版。
昨年も今年も鉾の巡行は行われないので訪れる観光客はいない。
町内の方が竜の織物の由来を丁寧に説明してくださった。
四本爪の竜の織物は1811年に東インド会社が日本にもたらした、伊賀上野で同じ織がみつかっている。
*****
翌10/24、「八幡山」を訪れた。
※亀岡祭のHPにリンクします
「宝暦十三年(1763年、今から約230年前)九月新たに山を造営して八幡山号し奉る。」
という記録が、唯一残っている山鉾。
応挙の「群仙図」をモチーフにした前掛けは平成元年になってから新調された。
亀岡の金剛寺は応挙が子供時代を過ごした寺で、高名となってから両親の追慕に襖絵を寄贈している。
※通常非公開、こちらHPに襖絵の様子。この織物のモチーフもあります。
二百年以上使われてきた旧前懸の織物も虫干しに出されていて見ることができた↓
なんと、宝暦三年(1763)に「八幡山」が建造された当時のもの↑
瑞雲の間に小さく竜が描かれている。清朝時代の中国製だそうだ。
近寄って見ると裂け目が生じていて、なるほど引退させるしかなかったのだなと理解した。
↑同時に引退させたかった、同じく二百年以上を経た「鳳凰牡丹図」は修復を重ねて見送幕に復帰していた↑
実は「鳳凰牡丹図」は↑新調されていたのだが↑※写真右側の青い織
「新調したのんがキラキラしすぎとると思いまして」
今ははずしてある。
たしかに旧のものと比べると鮮やかだけれど、個人的にはじゅうぶん美しいと思った。
他にも祭の道具がたくさん伝えられている
年を経て代替わりしていくうちに、モノの由来や意味はだんだん分からなくなってゆく。
ただひとつはっきりしているのは、それぞれの時代に町の人々がお金を捻出して山鉾を飾り・護ってきたこと。
「長持の中から『八幡山ご造営のために倹約すべし』と書かれた文書がでてきたんです」
何代も前の父祖たちの言葉に出会った町の人々ははっとしたことだろう。
その文書が額に入れられ飾られていた。
伝統・文化の継承は
昔の通りにやっていればよいのではない。
モノは古くなるし、風俗習慣は移り変わる。
ただひとつ残るのは、
その時代時代に合わせて町の人々が誠意を尽くしてきたことだけである。
こういう景色をお見せしたかった(^^)
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東京発七時の新幹線に乗り、朝十時に亀岡駅に着いてすぐに「羽衣山」に向かった。
町内の人が集まり、ちょうど人形が鉾の上に据えられたところだった。
↑衣装はまだ着ていない。
凛々しいこの人物は伯梁という漁師。
↓「古世」は昔のこのあたりの地名とか
三保の松原の天女伝説を題材にしている。
江戸中期の明和二年(1756)に記載がある伝統の曳山だったが昭和初期に老朽化して飾り山になった(現地の解説版より)。
現在の山は平成十四年に町の人々の熱意で再建されたもの。
四面をきらびやかに飾っている。
たくさんの懸粧品を備え付ける
こういう作業は毎年受け継いでいかなくてはならない。
人形が衣装をまとった↑むこうに天女の顔も見える。
青空にたちあがった立派な鉾。でも、今年は巡行がないので夕方には解体してしまうのだそうだ。
このタイミングでなければ出会えなかった鉾だった(^^)
**
亀岡の成り立ちに名前を由来する「鍬山」も組みはじめられていた↓
「昔々亀岡は盆地にある湖の底だった。大国主命=大黒様が鍬で山の端を破り保津川に水を流して亀岡の地が現れた」
大黒様は因幡の白兎を助けたので↑白兎がシンボル。
なるほど(^^)、では鳩は?理由は後に訪れた神社で判明した。
こちらも人形が「鍬山」に登るところだった↑
※冒頭の写真はこちら夕方に訪れた時のもの
***
難波山の人形は江戸時代から受け継がれてきたものだそうだ↓
一見普通の家の一室で着付けされている。
よく見ると立派な欄間
鉾は町内の人々の心意気で続いてきたのだと実感する。
↑しばらく後、完成したのを車内から撮影
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夕方、「鍬山」をもう一度訪れた
過ごしやすい秋に行われる亀岡祭は祇園祭のミニ版。
昨年も今年も鉾の巡行は行われないので訪れる観光客はいない。
町内の方が竜の織物の由来を丁寧に説明してくださった。
四本爪の竜の織物は1811年に東インド会社が日本にもたらした、伊賀上野で同じ織がみつかっている。
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翌10/24、「八幡山」を訪れた。
※亀岡祭のHPにリンクします
「宝暦十三年(1763年、今から約230年前)九月新たに山を造営して八幡山号し奉る。」
という記録が、唯一残っている山鉾。
応挙の「群仙図」をモチーフにした前掛けは平成元年になってから新調された。
亀岡の金剛寺は応挙が子供時代を過ごした寺で、高名となってから両親の追慕に襖絵を寄贈している。
※通常非公開、こちらHPに襖絵の様子。この織物のモチーフもあります。
二百年以上使われてきた旧前懸の織物も虫干しに出されていて見ることができた↓
なんと、宝暦三年(1763)に「八幡山」が建造された当時のもの↑
瑞雲の間に小さく竜が描かれている。清朝時代の中国製だそうだ。
近寄って見ると裂け目が生じていて、なるほど引退させるしかなかったのだなと理解した。
↑同時に引退させたかった、同じく二百年以上を経た「鳳凰牡丹図」は修復を重ねて見送幕に復帰していた↑
実は「鳳凰牡丹図」は↑新調されていたのだが↑※写真右側の青い織
「新調したのんがキラキラしすぎとると思いまして」
今ははずしてある。
たしかに旧のものと比べると鮮やかだけれど、個人的にはじゅうぶん美しいと思った。
他にも祭の道具がたくさん伝えられている
年を経て代替わりしていくうちに、モノの由来や意味はだんだん分からなくなってゆく。
ただひとつはっきりしているのは、それぞれの時代に町の人々がお金を捻出して山鉾を飾り・護ってきたこと。
「長持の中から『八幡山ご造営のために倹約すべし』と書かれた文書がでてきたんです」
何代も前の父祖たちの言葉に出会った町の人々ははっとしたことだろう。
その文書が額に入れられ飾られていた。
伝統・文化の継承は
昔の通りにやっていればよいのではない。
モノは古くなるし、風俗習慣は移り変わる。
ただひとつ残るのは、
その時代時代に合わせて町の人々が誠意を尽くしてきたことだけである。