旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》富山高岡~瑞龍寺

2022-05-26 10:45:28 | 国内

平等院鳳凰堂がモデルのひとつだそうだ↑
「瑞竜院」は前田家二代目利長の院号である。
三代目に指名された異腹の弟・利常が感謝をこめて創設した曹洞宗の寺。

↑江戸初期に建設された形式がほとんどそのまま残されている稀有な例。
※公式HPにリンクします
なので、富山県唯一の国宝にしていされている。

↑仏殿の屋根は厚さ三ミリの鉛が貼ってあり重さは47トン=「新幹線一両が乗っているほど」なのだそうだ。
鉛は溶かせば鉄砲の弾250万発になる。
一国一城令によって高岡城が廃城になった後、堀をめぐらせたこの寺は万が一の時に城に代わる守りの要だった。

重い屋根を支える垂木

↑内部の梁も相当な太さ↑少したわんでいるのは「その方が真っ直ぐにみえるから」ということでもあった。
ギリシャのパルテノン神殿も曲線でできているという話を思い出した※2011年の旅にリンクします

金沢城にも使われている戸室山の石をがっちり組み合わせた土台↑
↑深さ2.5mの基礎がある↑

↑法堂(はっとう)に入る前に、向かって左裏手にある五つの廟を見学

※こちらについては2018年に訪れた時のブログに書きました


↑法堂正面に据えられた前田利長の巨大な位牌は2m10㎝もある↑

↑見事な鳳凰の欄間↑
「高岡」という地名は利長が名付けた。
それまで「関野」とよばれた場所に高岡城を建てる許可を家康から得て、
中国の詩経「鳳凰鳴矣于彼高岡(鳳凰鳴けり彼の高き岡に)」の一節から引用して。
鳳凰は徳のある君主が治める地に出現する鳥ということになっているのである。

↑向かって右にはトイレの神様=烏瑟沙摩明王
この像は瑞龍寺が建立されるよりずっと以前の室町時代あたりにつくられたと思われる。
※瑞龍寺HPにリンクします
回廊を歩いている時↑この像がつくられた時をイメージした極彩色レプリカがあった

↑足元にうずくまるモグラみたいな動物?は「糞尿をまき散らす悪さをしてお仕置きをうけている」のだそうな。

↑あ、後ろ手にしばられている↑

回廊に「びんずるさん」↑

↑百五十人の僧の食事をつくっていた竈

使う水を通していた木像の水道管

回廊から中庭にひらけた窓枠には↑結露で傷まなようにこんな穴を開けてあった↑

↑時を告げるのに叩く「魚板」(ぎょばん)「魚鼓」(ぎょこ・ぎょく)「飯梆」(はんぽう)」
サカナのように常に目を開いていよという意味と

口から球になった三つの煩悩を吐き出しているという。
貧(とん)⇒ 貪る心
嗔(じん)⇒ 怒る心
痴(ち) ⇒ 愚かな心
**
瑞龍寺の参道をにあるいていくと、前田利長の墓に至る。

↑向かって右の巨大な灯篭は本来一対で運ばれてきたのだが、誤って川に落ちてしまったのだそうだ↑

↑利長公の遺骸はこの二つの灯篭の間で荼毘にふされたと伝わっている↑
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《手造の旅》富山高岡、金沢山代~高岡街歩き

2022-05-23 07:58:58 | 国内
仏壇屋の天井にバルコニーがあった(後述)
**

10時過ぎに高岡駅をスタート。「高岡大仏」は奈良、鎌倉と共に「三大大仏」と称される。
※この大仏を数十メートル移動させた話、2016年はじめて訪れた時のブログに書きました

大仏様の真下にある木製のお顔↑二度目の火災で燃え残ったのではなく、三回目も木像でつくりはじめたがお顔だけで計画変更されたという話もきいた。顔の周囲に配置されている聖堂の小像は昭和三十年代に鋳造されたが重すぎるので光背に設置できなかったもの。
**
蔵造の街へ移動。黒く重厚な「雪割り瓦」の「菅野家」↓

明治三十三年(1900)に街を焼き尽くした大火の後、土蔵造りの家が立ち並ぶようになった。

金属製の防火扉雨戸が通っていたレール↑

↑そう説明されてレールの先を追っていくと…

↑使われなくなって錆びついた扉が今も残されていた。


↑こちら「筏井(いかだい)家」住宅も1900年の大火の三年後に建設された土蔵造り↑二階の分厚い扉デザインに注目↑


古民家を開け放ってお茶を飲んでいた方に声をかけると「入っていってよ」と言ってくださった。

↑ヤマハの古い脚踏みオルガン↑ここはなんと、動揺「夕日」の作者・室崎琴月の生家だった。
足の不自由な少年が音楽家への第一歩を踏み出したオルガンがこれだったのか。
※こちら木版画家さんのページに詳しく書かれてあります

「おれの叔父の家だったんだけど、もう古くて住めないんだよ。冬は隙間風で寒いし、夏は蚊が出るし(笑)」

こういうふうに直接会話できるのが国内《手造の旅》の楽しみ(^^)


↑名物のお菓子をみつけたらやっぱり食べてみたい(^^)

↑町家や老舗が立ち並ぶ江戸時代からの通りが途切れ↑「昭和通り」の名の通り昭和に貫通させた通りが交差している↑
↑角の小さな古民家は道路建設で取り壊された残り↑なるほど、言われてみればぶった切られたのがよくわかる↑

土蔵造りの豪商の家々が並ぶ一帯には銀行もやってくる↑古民家の道路側だけ洋風の入口にした建物もそのひとつ↑

ガイドさんに促されて中を覗いていると↑ちょうどご主人がもどってこられた。

↑ここはなんと仏壇屋さん(^^)↑自分が昔制作した仏壇の細工についても話してくださる。

促されて天井を見上げると…

ヨーロッパ風のバルコニーがぐるりと取り囲んでいるではないか。
↑赤い家紋はまぎれもなく三井のもの↑
「上役があそこから見ていたんです」
そう言われて、百年前にフロアで働いていた人々の姿が見えてくる気がした。

↑黄色いランプはあきらかにレプリカ↑だが、歴史を伝えようとしている。
「ガス灯です。あそこにガス管が通されていたんですよ」
調べてみると、高岡にはじめてガス管がとおされたのは1914年(大正3年)。
前出の「菅野家」七代目善右衛門が1910年(明治43年)に営業許可を得ている。
※高岡ガス(株)HPの歴史に経緯が載せられています
この三井の店舗も最初にガスを通した473戸のうちのひとつだったのだ。


御車山会館もちょっとだけ覗く。

飾られた山車が練り歩くのが見ものだが、こちらは(今晩の「伏木のけんか祭」とちがって)ぶつけるようなことはしない。
装飾された車輪に注目。
高岡と伏木はもともと別の街で、今も別々に大がかりなお祭りを・同じ五月に続けている。
***
昼食は「和香(にこか)」にて。

はじめて高岡を案内していただいた時から何度かお昼をいただいたが、今年?ミシュランの★がついた(^^)
※こちらに載せました

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山代温泉前泊

2022-05-21 05:08:04 | 国内
温泉街の中心にある「古総湯(こそゆ)」は百年前のこの絵地図をもとに建設された。

九谷焼のタイルと当時最先端のステンドグラスで飾られた大正モダンな湯を再現していあるのだそうだ。
5月22日の宿泊で訪れるのもよいかも。

↑こちらは今の「総湯」

↑宿泊した宿ではこんなショーも↑
戦国時代、能登に襲来した上杉謙信を退けたという「御陣乗太鼓(ごじんじょうだいこ)」ですね(^^)
これも1986-7年によく見ておりました。

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謎の巨石「岩船」、牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)

2022-05-16 07:07:07 | 国内
山道を五分ほど登ると竹藪の斜面に黒い巨石が鎮座していた。
8×11m×高さ4.7m、硬い花崗岩。加工途中の線が縦横にきざまれている。

斜面の上方にまわると平らに加工が完了した?面で↑上部に彫り込まれた穴が見えてくる。

↑一辺約1.6m深さ1.3mの穴が二つ開けられている↓

↑これはいったい何か?
「碑文」を立てた台座だったと、江戸時代の観光案内には書かれている。
※江戸時代の観光本で人々が登っているところが描かれている※奈良県のページにリンクします
リンクの文献にある「益田池」が9世紀に建設されたのは確か。それを記念した碑がここにあった?
だとしたらどれだけ巨大な碑だったのだろう。その碑は高取城の石垣建設に使われたので失われたというのだが…。

近年ではつくりかけの古墳石室説が主流。
途中で岩にヒビが入って放棄されそのままに?
その証拠に、二つの穴のうちひとつにはヒビによって水が溜まらないのだそうだ。

この後に見た牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)の石室がよく似た形をしていて、「あぁ、これをつくろうとして失敗したのかぁ」と思った。

江戸時代には竹藪はなくて、山の上から周囲が見晴らせたそうだ。ここは標高130mの尾根に近い場所。

そのまま山道を歩いてゆく。

今朝まで雨が降っていたから足元はよくないし、途中で木が倒れていたりする道。

林が切れて見えた小山は↑真弓鑵子塚古墳(まゆみかんすづかこふん)↑さっき見た沼山古墳とおなじような持ち送り式の石室があり、ミニチュアの炊飯器具が見つかったのだそうだ※2008年の明日香村教育委員会の資料にリンクします
「土地所有者の方が安全のためになかなか一般公開されないのです」とのこと。

すぐに開けて↑なにやら人工的な白い小山が見えてきた↑ここまで復元するのはやりすぎでは、と思ったが…

●牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)
江戸時代からあさがお(=牽牛子)塚と呼ばれていた場所。
2009-10年に本格調査がされ、もともとの丘の上に版築で対辺22mの八角形の墳墓をつくり表面は凝灰岩の敷石で覆っていたと判明。この復元は「やりすぎ」ではなく、当時の姿そのものにかなり近いらしい。
今年2022年の3月に完成して一般公開されたばかり(^^)

逆側にまわってみると、

↑石室の一部が見えるようになっている↓

内部は巨大な石をくりぬいた石室で↑二つの墓室があった↑

↑内部写真↑※明日香村教育委員会が作成している案内より
さっき見た「岩船」は、もしかしたらこういう構造を削りだそうとしていたのではないかしらん。

合葬されていた二人は誰なのか?
日本書紀に「斉明天皇と、妹の孝徳皇后(間人皇女)を小市岡上陵(おちのおかえのみささぎ)に合葬した。この日皇孫大田皇女も陵の前に葬った」という記述があり、これが書けるのは斉明天皇の息子で間人皇女の兄で大田皇女の父であった天智天皇しかいない。
ただし、この場所自体は文武天皇(天武天皇の孫・天智天皇は大叔父にあたる)が改葬したと推察される。

2010年の調査の際、すぐ近くで見つかった墓が大田皇女のものと推察されている。
※発見した西光さんの現場主義の話が朝日新聞のページにありました

↑この墓が見つかったことによって「日本書紀の記述と合致した!」となったわけだ。
※奈良県のページにリンクします
大田皇女のものではないかとされる墓も↓


↑そのものがこんなカタチで公開されている↑覆っていた石は一部をのぞいて破壊されてしまっているが。

二つの古墳は盗掘されていたが夾紵棺(きょうちょかん)の破片や七宝金具などが見つかっている。
さらに四十代ぐらいの女性の臼歯もあったそうな。
間人皇女もこの年代で亡くなっている。

**
この日最後に●岩屋山古墳に入った

「舌を巻くほど見事な仕上げと石を完璧に組み合わせてある点で日本中のどれ一つとして及ばない」
明治のはじめに四百以上の古墳を調査したウィリアム・ゴーランドが言った。
(イギリスからのお雇い外国人、「日本考古学の父」と尊称される。イギリスでもストーンヘンジを調査して年代を特定した)。

入口から13m続く羨道の両サイドはぴったり切りそろえられた大石が並ぶ。
これは雛型となる設計図があって、「ムネサカ一号墳」とぴったり同じ石の積み方なのだそうだ。

↑入り口部分の下の三石・上に二石の部分をはじめ、両古墳の図説を見せてもらうと同じ設計図に基づいて建設されたと納得する。
古墳建築には確立された技術を駆使した技師と職工集団があった証拠だ。

石室の高さは約3m。ウィリアム・ゴーランドを驚嘆させたピッタリした石組は千三百年経ってもびくともしていない。



入口の上にある↑この切れ込みは外から水が内部に入り込まないためのもの↑

これだけの石室に葬られたのは誰だろう?
一説には前出の牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)に改葬されたと推察されている孝明天皇を、最初に埋葬したのがここだという。

ここは土に埋もれていたわけではなく
隣家が長い間物置に使っていたのだそうだ。
つまり、埋葬品などはまったく不明。

↑石室の上にのぼってみると↓

方墳の半分はなくなって、家の敷地になっている↑
石室部分が破壊されなくてほんとうによかった。
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古墳の石室に入る~小谷古墳、沼山古墳

2022-05-14 17:38:40 | 国内
奈良橿原●小谷古墳の天井一枚石は石舞台古墳のものより大きいのだそうだ。

通常非公開の古墳内部、今年二月に●牧野(ばくや)古墳に入ってから※その日のブログにリンクします
古墳石室に入るチャンスを探していた。通常非公開の内部を見学できるツアーを見つけて「やまとびとツアー」に一人参加。案内役の方の知識と情熱はもちろん、参加の方々の古墳愛も相当なもの。いつもは山道を今日の倍は歩き(今日は4.5㎞)「穴に潜る」ことも珍しくないのだそうだ。ついていけるかしらん。

石室の石材は飛鳥石(石英閃緑岩)。
石棺は加古川流域(兵庫県)産の竜山石、遠くから運んできたのだ。
木製の棺がさらに二つあったと想像されている

巨石の間に↑しっくいが白く残っているのが見える↑

↑驚いたのは巨石を積んだ横線が一直線に揃えられていること↑
古墳時代末期に建造されて千三百年も経つのにまったくずれていない↑これだけ地震のある日本なのに、よほど基礎をしっかり造成したのだろう。
※今回ご案内いただいたガイドさんが解説しておられるページにリンクします
被葬者は実質不明。
江戸時代には孝明天皇(天智天皇の母)の墓と考えられていたこともあった。

二つめの通常内部非公開は●沼山古墳

こちらは持ち送り式のドーム天井。
この形式の方が積み石よりも古い時代からあるそうな。

花崗岩を六段から八段積み上げた天井は高さ4,25m。

先ほどの小谷古墳が2,7mだったからずいぶん高く感じる。
この古墳の特徴は「右片袖式」。
羨道を抜けて左側だけに「袖」がひろがっているカタチ
※大阪柏原市のホームページにこのあたりのことを解説してありました

↑被葬者から見て右側がふくらんだ石室↑三つの同じ大きさの石を積んである↑

かつて古墳のある山の下あたりはいちめん沼地だったことから●沼山古墳と名付けられた(江戸時代ごろ?)
ここからはミニチュアの炊飯器具が見つかり、朝鮮半島にも同じやりかたがあることから渡来人系の人物が埋葬されたと推察されるそうな。橿原考古学研究所付属博物館に展示されているとのこと。次に行ったら探してみたい。

この日はまだまだ訪れました(^^)
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