KCF的徒然草

KouChan's Factory管理人の心の叫びor反省文

荒川線命名40周年

2014-10-05 22:48:01 | Railway&RailwayModels
 台風迫る中、荒川線の日イベントに行ってきました。

王子から車庫前まで、7022号「あおおび」に乗りまして。こりゃ悪天候ながら幸先良いなぁ、と勝手に悦に浸ってたのですが。


ちなみに、専用のヘッドマークがついてましたね。


会場の車庫前では、ひさびさに登場の6086号と、花100号。


6086号は、特別仕様の壺、もとい系統版を付けていたり、いろいろな行き先を表示したり。


花100は、荒川線命名40周年の特別ラッピング仕様になっていた。


正面から。よくみると、バラのデザインも、100周年の時とはちょっと変わっている。


このまま走るのかなと思ってたが、おそらくこの場だけのよう・・・?まぁ、バルーンつけたままじゃ走れないだろうし。

大雨だからか、思ったほど人も多くなくて、傘が(撮影するのに)ジャマだなぁ、と思う以外はすんなり撮影できたわけで。小さいお子さんはカッパ姿が多かったな。

都電が最後に2路線(27,32系統)になってから、この2路線を統合して「荒川線」という名で早稲田~三ノ輪橋で通し運転を始めたのが40年前(昭和49年)だった。



この時はまだ車掌さんが乗り込むツーマンであり、6000型はじめ、旧来の都電がまだまだ走っていた。ちなみに、自分はまだ生まれていない。


グッズを買い、例のごとく工場も一通り見て回る。
今回検修庫に入っていたのは、「幸せの黄色い・・・」でおなじみ8810号。ピットの下に人がみえるが、これは親子見学企画の一環とのこと。



外へ出たら、雨とともにこんどは風が強くなってきたので、どっかで暖をとらなきゃと早々に会場から撤収。上野まで行ってつけ麺をいただいた。


そのあと、秋葉原で用事(買い物)を済ませ、帰る途中に、もう1つ寄りたいところがあった。

 それはこの、「ろうがんず杯」というプラモコンペで、俳優の石坂浩二氏が主宰という。


模型仲間のFさんが、このコンペに出展されたそうで、それを見に行きたいと思っていたから。
 会場のあるたまプラーザ駅で降りたが、時間もすっかり遅くなったためか、案内してくれる人がいない。あわてて会場を探し、やっとたどり着いた時には会場が入りきれないほどの人だかり。しかも、会場に入るには事前に整理券が必要だと、書かれていたが「定員に達しました」というホワイトボードのメッセージを見つけてしまい、こりゃダメだな、と、会場入口で踵を返してしまいまして。


ごめんなさ~い。あの作品は機会があったら見せてください。
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母校は変わっていた・・・?

2014-10-04 09:28:03 | まち歩き
 休みを見つけたある日、懐かしい駅を降りた。


 街の佇まいは、そのままだったが、入っているテナントがあちこち入れ替わっている。駅前のパン屋さんだけは昔のままだ。


この町は、大きな団地(公団住宅)がたくさんできたことで駅が設置され、発展していった、いわゆるニュータウンのはしりのようなところだったが、当時の団地(3~5階建)はすべてなくなり、逆に高層マンションが林立するようになった。


まずは、懐かしい小学校へ足を運んでみた。




 建物がきれいになり、通っていたころの面影は校庭以外なくなっていた。

 自分が通っていたころは、昭和40年代建築の校舎で、年々増築を繰り返して大きくなったものだった。その増築の過程で、校舎と校舎の間にプールがあるという、世にも珍しい学校だった。授業中、プール授業の声が響いたのだが、水泳の授業では日があまり当たらないので、かなり寒かった印象だ。

そのプールも、新校舎ではどうやら屋上にあるらしい。確認はできなかったが。


さきほど、面影がなくなったと書いたが、じつはこんな石碑が残っていた。


これはぼくが在学当時、学校創立20周年の時(昭和60年)に、小さい池とともに建立されたもので、場所も今とは違うところにあった。そういえばたしか、その地下にタイムカプセル埋めたんじゃなかったっけ?掘り出しちゃったのかな?・・・はたまた記憶違いか?もう30年近い昔のことだから。

続いて、中学校へ。



こちらは、改築されておらず、建物も昔のままだ。体育の授業か球技大会か、ソフトボールをしている中学生。体操着も変わったなぁ・・・。
 
最後に、その中間にある、昔住んでいた団地に、足を運んだ。




建物は色褪せ、通る人もほとんどいなくなったが、ほぼ原風景のままだった。



団地は全部で10棟あり、どの棟にも少なくともひとりは同級生がいたほどだ。


この光景も、2,3年のうちに大きく変わる、と聞かされていて、実際に新住宅建築の事業計画の看板がでていた。この風景も、もうすぐ見られなくなる。


知らない街を歩くのが好きで、旅をする目的もそこにあるのだが、たまには、思い出の街を歩くのもいいなと思った。ただし、風景が変わって落胆することのないように(ん?)
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流浪のKouChan

2014-10-01 21:57:24 | 日記・エッセイ・コラム
 会社員として生きている以上、社命による出張は避けられない。ときには、今回のような長期出張もこれまで何度か経験しているし、転勤も経験している。

 そんなことから、自分はどこへ行ってもそれなりに生きていけるんだという自負は、少なからず持っていた。衣食住、交通手段の確保、時には病院に行くことも。
 
 しかし、どうしても得られないものがひとつだけある。現地の人との付き合い、コミュニティを築くことだ。
具体的にいうとこんな感じ。

 出張で今までと違う職場に赴く。そこで働いている人とは仕事上での付き合いだから、それ以外ではなかなか交流が得られない。何気ない雑談や食事のとき、もともと彼らの中に知らず知らずに出来上がっているコミュニティの硬さ、強さの中に入っていけない。とうぜん話にもついていけない。そうこうするうち、時期が来て、その土地を離れなければならなくなる・・・。

 仕事で来ているのだからそういうこと(よけいなこと)を考える必要はないと思うかもしれない。しかし地域に根差した人たちのコミュニティの強さに、よそ者は簡単に圧倒されてしまう。どこに行っても、それを感じた。

 自分はどこへ行っても生きられる。ということは、裏を返せば、同じところに居つくことができない、ということでもある。用心棒の如く、誰かが困ったときにふらっとあらわれ、事件が解決すれば、その土地から去らねばならない。流浪の民のようでもある。


 とはいえ、自分も小学生~大学まで、ある団地で育ってきた。同級生が大勢いたし、上級生も下級生も一緒くたに遊んできたのだが、中学に進むにつれ、そういう友達とも疎遠になっていく。さらに高校生のころから、いじめ(といっても、モノを隠されたり鞄を汚されたりとか・・・そんな程度)を受けるようになり、一刻も早くここから抜け出したい、と思うようになってきた。

 だから大学は、そういう人たちと会わないような遠い場所を選んだ。さらに就職を機に、育ってきた団地を飛び出し、一人暮らしをはじめた。新しいコミュニティを作ろうと、その時からもがいていたのかもしれない。


 強固なコミュニティを見せつけられたとき、自分は今まで何をよりどころにしてきたのか、そういうよりどころを自分で捨てたはずではなかったのか。そんな思いが頭をよぎる。

そんな時なぜかふと、もう一度だけ、昔の学校や、住んでいた団地を見てみたいと、思うようになった。


この続きは次回・・・。
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