おめでとうございますとは言えない年末の大災害の大きな波をかぶりつつ明けた2005年。新年早々「2005年を越えて」もないもんだと思いますが、戦後60年の還暦の年、今度こそは大きな曲がり角を曲がって、次の60年に向けた希望を見出したいと思っています。
元日の新聞(例年のことながら、あの別冊の多さには閉口させられます-読まずに捨てれば良いのですが、それができれば苦労はしない)に1945年生まれの吉永小百合さんの生涯と戦後日本の主な出来事を並べた年表が掲載されていました。私の生まれた1962年は、高度経済成長が既に始まっていましたが、「もはや戦後ではない」の1956年からたった6年、終戦から17年しか経っていなかったことに気づかされます。残りの43年でどれほど大きくこの国が変わったことか。
折り返し点は1975年(昭和50年)、13歳の中学1年生。もちろんその頃に折り返し点を過ぎたなどという意識はなく、また、この比喩も戦後を還暦にたとえた恣意的なものでしかないのも事実ですが、前半の30年と後半の30年を辿ってみると、この折り返し点から現在までを上手く走り抜けられなかった、あるいは、きちんとペース配分し直したり、自分なりの道をみつけて新たなゴールを目指さなかったがために、今の様々な社会問題が生み出され積み重ねられてきたのだと考えざるを得ません。
折り返しの時点で、既に高度成長は終わりを告げ、公害やオイルショック、ロッキード問題などの政治社会システムの腐敗、環境問題、教育・受験社会と子どもの心の荒廃などは、全て警告され、「低成長社会への転換」も提言されてきた。
それなのに、バブル経済などという天下の愚策によって本来人口減少社会へ向かうべきこの国の財政や経済に立ち直ることのできない打撃を与え、そのツケが社会保障の抑制政策などという逆方向の政策となって悪循環を生み、環境エネルギー問題が原発増設や核燃サイクルに姿を変え、政策転換ができない社会構造は水俣病やタバコ病裁判でも国民を犠牲にして経済や企業を助けることを続けてきた。
しかし、この戦後還暦の年を越えて、今度こそ変わっていかないと、変えていかないといけませんね。その芽はすでに十分に育っているし、日本中、世界中に広がっているのですから。
何はともあれ、本年もよろしくお願いいたします。
年賀状2005
元日の新聞(例年のことながら、あの別冊の多さには閉口させられます-読まずに捨てれば良いのですが、それができれば苦労はしない)に1945年生まれの吉永小百合さんの生涯と戦後日本の主な出来事を並べた年表が掲載されていました。私の生まれた1962年は、高度経済成長が既に始まっていましたが、「もはや戦後ではない」の1956年からたった6年、終戦から17年しか経っていなかったことに気づかされます。残りの43年でどれほど大きくこの国が変わったことか。
折り返し点は1975年(昭和50年)、13歳の中学1年生。もちろんその頃に折り返し点を過ぎたなどという意識はなく、また、この比喩も戦後を還暦にたとえた恣意的なものでしかないのも事実ですが、前半の30年と後半の30年を辿ってみると、この折り返し点から現在までを上手く走り抜けられなかった、あるいは、きちんとペース配分し直したり、自分なりの道をみつけて新たなゴールを目指さなかったがために、今の様々な社会問題が生み出され積み重ねられてきたのだと考えざるを得ません。
折り返しの時点で、既に高度成長は終わりを告げ、公害やオイルショック、ロッキード問題などの政治社会システムの腐敗、環境問題、教育・受験社会と子どもの心の荒廃などは、全て警告され、「低成長社会への転換」も提言されてきた。
それなのに、バブル経済などという天下の愚策によって本来人口減少社会へ向かうべきこの国の財政や経済に立ち直ることのできない打撃を与え、そのツケが社会保障の抑制政策などという逆方向の政策となって悪循環を生み、環境エネルギー問題が原発増設や核燃サイクルに姿を変え、政策転換ができない社会構造は水俣病やタバコ病裁判でも国民を犠牲にして経済や企業を助けることを続けてきた。
しかし、この戦後還暦の年を越えて、今度こそ変わっていかないと、変えていかないといけませんね。その芽はすでに十分に育っているし、日本中、世界中に広がっているのですから。
何はともあれ、本年もよろしくお願いいたします。
年賀状2005