熊本熊的日常

日常生活についての雑記

現実は現実か?

2008年08月01日 | Weblog
子供が夏休みに入った所為なのか、それまで週末毎のメールの行き来が平日にも及んでいる。

先日、あの世と現世の位置関係を水平軸で認識するか垂直軸で認識するかという話を振ったところから始まり、今日は、生無くして死は無く、死無くして生は無い、というようなことを書いてよこしてきた。両極端に見えることは、実はとても近いことでもあるのではないか、とも書いてあった。それはその通りだと思うと、返事をしておいた。

死の間際に、それまでの人生の記憶が走馬灯のように甦るというが、どう思うかと尋ねられた。よく聞く話だが、確かに変である。死ぬ間際の経験であるなら、それを誰かに伝えることなどできないはずである。しかし、私はそういうことはあっても不思議はないと思う。

人間は、世の中のものを全て認識しているわけではないだろう。自分の置かれた環境のなかで自分の生命の維持に必要な情報だけを取捨選択して認識し、自分のなかに独自の世界を構成して生きていると考えている。通常、人間という同じ種ならば、その生命維持に必要な情報も同じはずなので、人は誰もが自分と同じ世界を生きている、という前提のもとで物事を考え行動することに大きな支障はない。つまり、我々は、ある種のバーチャルリアリティを共有して生きているということだ。例えば、私が見ている視覚世界と他人の視覚世界は全く同じであるかどうか確かめようがない。しかし、同じであるという前提で話をしたり行動をしたりすることで大きな問題がない限り、同じという前提は正しい、としなければ生活は成り立たない。我々が知覚している世界は我々自身の脳のなかで創造された世界だと思うのである。

生命には、それを持続するという大目的があるので、その目的達成に対して障害が発生すると、それに対応する仕組みが機能するようにできている。病原菌が体内に侵入すれば、熱を発生させてその病原菌の死滅を図るとか、外傷が発生し出血すれば、血小板が生成されて止血を図る、というようなことである。それと同じように、死が間近に迫っていることを脳が認識すれば、それを阻止すべく、できうる限りのことを脳が試みるのだろう。そうした非常事態のなかで、記憶の混乱のようなことが発生し、例えば古い記憶が次々に呼び覚まされるというようなことが起こるのだろう。

よく我々は「現実」という言葉を口にする。しかし、自分が認識している「現実」は本当に「現実」なのだろうか? そもそも「現実」という確たる状況が存在するものなのだろうか?

大人どうしの薄っぺらな会話より、子供とこんなことを考えているほうがよほど楽しい。