先月パリに遊びに来た時、フランス語なんか知らなくてもパリを歩くくらいならなんとかなるものだ、と思ってロンドンへ戻った。しかし、その認識はやはり誤りだ。当然と言えば当然だが、訪れる国の言葉について少しくらいは知識を持って出かけるのがその場所に対する礼儀でもあろう。とは言え、今更どうしょうもないので、通じない時は笑って強硬突破するしかない。
今日は宿泊したホテルから徒歩圏内にあるウジェーヌ・ドラクロワ美術館(Musee national Eugene Delacroix)である。ここはSt. Germain des Presという有名な教会の裏手にある。道標と看板がなければ絶対に辿り着けないような、住宅街の奥深くにある。展示されている作品は少ない。アトリエは別棟になっていて、天井が高い所為もあって、アパルトマンとは別世界のような光に満ちた雰囲気がある。中庭も落ちついていて居心地が良い。
St-Germain des-Presから地下鉄4号線でVavinに行く。ここから歩いてリュクサンブール宮殿のほうへ行ったところにザッキン美術館(Musee Zadkine)がある。ここも通りから奥まったところにあるので、道標と看板がなければわからないだろう。敷地のレイアウトや家屋の間取りは全く違うのだが、セント・アイヴィスのバーバラ・ヘップワース美術館を彷彿させる。
ここからBoulevard du Monparnasseをモンパルナス駅のほうへ歩き、駅を越えたところにある住宅街の一画にブールデル美術館(Musee Bourdelle)がある。ブールデルはロダンの弟子で、言われてみればなるほどと思う。彫塑像の工房跡ともなると、アトリエというより工場だ。個人美術館には違いないが、大勢の弟子やスタッフがそこで製作に携わっていたのだろう。創作の参考のしたと思われる日本の能面や鎧兜甲冑もある。それらがどのように彼の創作活動に影響したのか、しなかったのか。したとすれば、どのように作品に反映されているのか、興味深いところではある。ここの受付には、大きな白い猫がいる。自分がここの主だと思っているらしく、人が近づいても全く動じない。
昼時になり腹がすいたので、英語が通じそうな場所へ移動することにした。モンパルナスから地下鉄4号線でChateletへ行き、そこから歩いてポンピドー・センター(Centre Pompidou)へ向かう。地下鉄の駅から地上に出てRue de Rivoli をパリ市庁舎(Hotel de Ville)方面へ歩く。Rue du Renardとの交差点に差し掛かると右手にパリ市庁舎、左手にポンピドーが見える。市庁舎前の広場はイベント会場の設営の最中だ。このあたりにはマクドナルドが何カ所かあるのだが、どこも満員である。雨が降り出したので、急いでポンピドー・センターに入り、とりあえずカフェで腹ごしらえをする。
ポンピドーセンターは4階と5階が常設展示会場、最上階の6階がレストランになっている。中層階は図書館、低層階に映画館、特設展示会場などがあり、別棟としてブランクーシの常設特集展示場がある。
展示内容はさすがにパリの大型美術館と思わせる充実ぶりである。なかでもキュビズム以降のピカソ作品とマティスの豊富なコレクションには圧倒されてしまう。先月、ルーブルとオルセーを訪れた時、ところでマティスはどこにあるのだろうと疑問に思っていたのだが、今日その疑問が解けた。ルオーの作品も豊富である。数は多くないが、シャガールやモディリアーニもきっちり押さえてある。彼等の作品が「現代」に属するものなのだということを改めて知り、なんとなく新鮮な思いがした。
この春にテート・モダンに遠征していたPicabia、Man Ray、Duchampが本拠地に戻っている。テートで見たときには、それなりに衝撃を感じたのだが、こうして数多くの現代美術作品のなかで見ると、おとなしく感じられるのが面白い。ルネ・マグリットの作品をまとめて観るのは自分としては希有なことかもしれない。ここには「Les marches de l’ete」「Querelle des Universaux」「Le modele rouge」「Le double secret」「Le ciel meurtrier」の5作品が並んでいる。マグリットはシュールレアリズムの代表的な作家として、さまざまなシーンで取り上げられているので、つい、実物作品を見知っているような気になっているのだが、こうしてまとまった数をいっぺんに観るのは、1995年に出張でニューヨークに行った時に空き時間を利用してMOMAを訪れた時以来だと思う。ミロやモンドリアン、ポロック、ロスコーはあるべくしてあるという感じだ。数は多くないが、ジャコメッティも強烈な存在感を放っている。
Brassaiの作品を観て思ったのだが、乳首が立っていないヌードというのは、要するに写真家の腕が悪いということなのだろう。モデルに指一本触れずに、撮影するだけで潮まで吹かせてこそプロというものだろう。大事なのは、どこまで被写体に入り込み、被写体のあらゆる側面を見出すことができるかということだ。
写真と言えば、たまたまMiroslav Tichyの特集展が開催されていた。どの写真もピントがあっていない上に、盗撮のようなアングルのものばかりである。被写体は圧倒的に女性が多い。これは一体なんなのだろうと思う。ピントがあわないのは、使っているカメラが手製で、精密機械としての完成度が低い所為だ。盗撮のように見えるのは、まさに盗撮だからだ。つまり、彼の作品は、人間の、というか彼自身の欲望を具現化したものなのである。ピントがぼけているからなのか、写っている映像にエロティシズムが溢れている所為なのか、ついその写真に見入ってしまい、何が写っているのかを理解した瞬間に、呆れてしまう。そんなことを繰り返しながら、他の観客を見ると、しかつめらしい表情で、写真に見入っている。その姿が面白い。共産主義社会のなかで自分の生活の場を見出せず、精神を病んでしまった老人が辿り着いたのが、自家製カメラで自分の好みの女性を盗撮して回ることだったというのである。しかも、彼は1日100枚撮るというノルマを自らに課していたというのだ。しかし、どのようなことでも極めると芸術に昇華するということなのだろうか。今、現にこうして彼の「作品」が美術館に並んでいる。
ブランクーシのアトリエ、と題された別棟は楽しい。本館のほうにも勿論作品が展示されているが、彼が製作に使った道具類を見ると、単純に見える作品の背後で無数の試行錯誤が繰り返されたことが想像される。
雨が降ったりやんだりしていたので、乗り換えの数が増えるがポンピドーセンターのすぐ近くにあるRambuteau駅から地下鉄11号線に乗り、Arts et Metiersで3号線に乗り換え、Reaumur Sebastopolで4号線に乗り換えてGare du Nordへ行った。今日も前回と同じ19時13分発のロンドン行きである。
今日は宿泊したホテルから徒歩圏内にあるウジェーヌ・ドラクロワ美術館(Musee national Eugene Delacroix)である。ここはSt. Germain des Presという有名な教会の裏手にある。道標と看板がなければ絶対に辿り着けないような、住宅街の奥深くにある。展示されている作品は少ない。アトリエは別棟になっていて、天井が高い所為もあって、アパルトマンとは別世界のような光に満ちた雰囲気がある。中庭も落ちついていて居心地が良い。
St-Germain des-Presから地下鉄4号線でVavinに行く。ここから歩いてリュクサンブール宮殿のほうへ行ったところにザッキン美術館(Musee Zadkine)がある。ここも通りから奥まったところにあるので、道標と看板がなければわからないだろう。敷地のレイアウトや家屋の間取りは全く違うのだが、セント・アイヴィスのバーバラ・ヘップワース美術館を彷彿させる。
ここからBoulevard du Monparnasseをモンパルナス駅のほうへ歩き、駅を越えたところにある住宅街の一画にブールデル美術館(Musee Bourdelle)がある。ブールデルはロダンの弟子で、言われてみればなるほどと思う。彫塑像の工房跡ともなると、アトリエというより工場だ。個人美術館には違いないが、大勢の弟子やスタッフがそこで製作に携わっていたのだろう。創作の参考のしたと思われる日本の能面や鎧兜甲冑もある。それらがどのように彼の創作活動に影響したのか、しなかったのか。したとすれば、どのように作品に反映されているのか、興味深いところではある。ここの受付には、大きな白い猫がいる。自分がここの主だと思っているらしく、人が近づいても全く動じない。
昼時になり腹がすいたので、英語が通じそうな場所へ移動することにした。モンパルナスから地下鉄4号線でChateletへ行き、そこから歩いてポンピドー・センター(Centre Pompidou)へ向かう。地下鉄の駅から地上に出てRue de Rivoli をパリ市庁舎(Hotel de Ville)方面へ歩く。Rue du Renardとの交差点に差し掛かると右手にパリ市庁舎、左手にポンピドーが見える。市庁舎前の広場はイベント会場の設営の最中だ。このあたりにはマクドナルドが何カ所かあるのだが、どこも満員である。雨が降り出したので、急いでポンピドー・センターに入り、とりあえずカフェで腹ごしらえをする。
ポンピドーセンターは4階と5階が常設展示会場、最上階の6階がレストランになっている。中層階は図書館、低層階に映画館、特設展示会場などがあり、別棟としてブランクーシの常設特集展示場がある。
展示内容はさすがにパリの大型美術館と思わせる充実ぶりである。なかでもキュビズム以降のピカソ作品とマティスの豊富なコレクションには圧倒されてしまう。先月、ルーブルとオルセーを訪れた時、ところでマティスはどこにあるのだろうと疑問に思っていたのだが、今日その疑問が解けた。ルオーの作品も豊富である。数は多くないが、シャガールやモディリアーニもきっちり押さえてある。彼等の作品が「現代」に属するものなのだということを改めて知り、なんとなく新鮮な思いがした。
この春にテート・モダンに遠征していたPicabia、Man Ray、Duchampが本拠地に戻っている。テートで見たときには、それなりに衝撃を感じたのだが、こうして数多くの現代美術作品のなかで見ると、おとなしく感じられるのが面白い。ルネ・マグリットの作品をまとめて観るのは自分としては希有なことかもしれない。ここには「Les marches de l’ete」「Querelle des Universaux」「Le modele rouge」「Le double secret」「Le ciel meurtrier」の5作品が並んでいる。マグリットはシュールレアリズムの代表的な作家として、さまざまなシーンで取り上げられているので、つい、実物作品を見知っているような気になっているのだが、こうしてまとまった数をいっぺんに観るのは、1995年に出張でニューヨークに行った時に空き時間を利用してMOMAを訪れた時以来だと思う。ミロやモンドリアン、ポロック、ロスコーはあるべくしてあるという感じだ。数は多くないが、ジャコメッティも強烈な存在感を放っている。
Brassaiの作品を観て思ったのだが、乳首が立っていないヌードというのは、要するに写真家の腕が悪いということなのだろう。モデルに指一本触れずに、撮影するだけで潮まで吹かせてこそプロというものだろう。大事なのは、どこまで被写体に入り込み、被写体のあらゆる側面を見出すことができるかということだ。
写真と言えば、たまたまMiroslav Tichyの特集展が開催されていた。どの写真もピントがあっていない上に、盗撮のようなアングルのものばかりである。被写体は圧倒的に女性が多い。これは一体なんなのだろうと思う。ピントがあわないのは、使っているカメラが手製で、精密機械としての完成度が低い所為だ。盗撮のように見えるのは、まさに盗撮だからだ。つまり、彼の作品は、人間の、というか彼自身の欲望を具現化したものなのである。ピントがぼけているからなのか、写っている映像にエロティシズムが溢れている所為なのか、ついその写真に見入ってしまい、何が写っているのかを理解した瞬間に、呆れてしまう。そんなことを繰り返しながら、他の観客を見ると、しかつめらしい表情で、写真に見入っている。その姿が面白い。共産主義社会のなかで自分の生活の場を見出せず、精神を病んでしまった老人が辿り着いたのが、自家製カメラで自分の好みの女性を盗撮して回ることだったというのである。しかも、彼は1日100枚撮るというノルマを自らに課していたというのだ。しかし、どのようなことでも極めると芸術に昇華するということなのだろうか。今、現にこうして彼の「作品」が美術館に並んでいる。
ブランクーシのアトリエ、と題された別棟は楽しい。本館のほうにも勿論作品が展示されているが、彼が製作に使った道具類を見ると、単純に見える作品の背後で無数の試行錯誤が繰り返されたことが想像される。
雨が降ったりやんだりしていたので、乗り換えの数が増えるがポンピドーセンターのすぐ近くにあるRambuteau駅から地下鉄11号線に乗り、Arts et Metiersで3号線に乗り換え、Reaumur Sebastopolで4号線に乗り換えてGare du Nordへ行った。今日も前回と同じ19時13分発のロンドン行きである。