熊本熊的日常

日常生活についての雑記

娘へのメール 先週のまとめ

2008年08月31日 | Weblog

いよいよ2学期ですね。しっかり勉強してください。

立山はどのあたりに泊りましたか?
日本有数の高山地帯で、美しくも厳しい自然の姿を目の当たりにすることができたと思います。雷鳥を見ることはできましたか? 雷鳥の羽は雷よけのお守りになると言われています。お守りになるくらい、なかなか見ることができないということなのでしょう。険しい山というのは、人が立ち入ることが難しいので、いろいろな伝説、とりわけ埋蔵金伝説が流布されていることが多いように思います。立山の埋蔵金もそのひとつです。戦国時代の武将、佐々成政(さっさ なりまさ)が秀吉との戦いに際して富山城の金蔵から山の中へ金貨を移したとされています。結局、この戦いで成政は秀吉に降伏し、以後、秀吉に従うことになるのですが、埋蔵金はそのまま残されたということです。実際に、富山では時々古い小判類が出土しているようです。

山といえば、トレッキングの道具類を日本から持ってきたのですが、ロンドン周辺には山がないので、その道具類を使う機会がありません。可能ならば9月に東京へ行くときに持って帰ろうと思います。

9月20日は、先週のメールにも書いた通り11時に高田馬場で待ち合わせましょう。前回のように駅の外にするか、それとも駅の中にするかは、天候次第ということにするつもりです。天気予報次第で、公共交通機関で移動するか車で移動するか決めることにします。とりあえず、レストランは私の知り合いの店にしました。食事の後は、やはり天気や気分次第でいくつかの選択肢を考えておきます。

9月28日は、車で行きますが、待ち合わせ場所は20日に会った時に決めましょう。日曜なので千葉方面はディズニーランド周辺が混雑すると思いますから、少し方法を考えてみます。

さて、ポンピドーセンターですが、建物本体は直方体です。なぜあのように工事中のようになっているかというと、通常ならば建物の中に収められるはずの各種配管類を外に出してしまい、そうした配管類を支えるために足場のような構造物が必要なので、あのような外観なのです。この背景にある考え方は、「美術館は美術品を展示するという目的のために使おうよ」ということです。実際、内部は広大で、かなり大型の展示物でも無理無く設置することができます。外に出してある配管類も色で機能がわかるようにしてあります。黄色い配管は電気系統、青い配管は上下水道、赤い構造物はエレベーターや通路など人が使うもの、白い配管は空調関連というような具合です。奇抜なように見えても、きちんとした設計思想があるということです。

ポンピドーセンターを設計したのはレンゾ・ピアノというイタリア人の建築家とリチャード・ロジャースというイギリスの建築家です。ポンピドーセンターはふたりの共同設計ですが、それぞれに日本での仕事もあります。関西国際空港のターミナルビルはレンゾ・ピアノの設計ですし、新橋にある日本テレビの本社ビルはリチャード・ロジャースが基本構想を担当しています。日テレビルも建物を支える四隅の柱が外部に露出していますよね。これは日本の建築基準法の枠組みのなかで、できるかぎり建物の内部を広くしようとした結果なのだそうです。テレビ局ですからビルの中にスタジオがいくつもあるわけで、当然、スタジオは広いほうが使い勝手が良いわけです。

パリの街を歩くには、やはりフランス語ができないと不自由します。前回はルーブル、オルセー、オランジェリーという3つの世界的に有名な美術館を訪れただけなので、言葉の面の不自由はあまり感じませんでしたが、今回は市内に点在する個人美術館を訪ね歩いたので、否応なくあまり観光客の来ない場所にも足を踏み入れることになります。美術館の受付ですら英語が通じないところも少なくなく、そいうところは笑って強硬突破するしかありません。今回は、1日目にモンマルトル地区を中心に歩き、その後、バルザックが暮らした家を訪れ、最後にケ・ブランリー美術館という民俗博物館で締めました。2日目はモンパルナス地区を中心に歩き、先週書いたように、午後はポンピドーセンターです。

ロンドンと違ってパリの街は通りに沿って5階建てくらいの建物が隙間無く並び、その奥に中庭とか小さな家がある、という構造になっています。また、ロンドンと違って戦災に遭っていないので、ナポレオン3世の時代に構想された都市計画が現在の都市景観にも色濃く反映されています。それで街の風景がどこか不自然なまでに整然としているのだと思います。第二次世界大戦で欧州の都市が軒並み戦火で廃墟と化したなかで、パリはほぼ無傷で残りました。それにはいくつかの理由がありますが、大きくはふたつでしょう。

第一に、フランスが第二次大戦開戦早々にドイツに降伏してしまったこと。第二次世界大戦は1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻したことに対し、9月3日に英仏が対独宣戦布告を行ったことで始まりました。しかし独仏間で戦闘が始まったのは1940年5月に入ってからです。しかも、その約1ヶ月後、6月10日にフランス軍の活動は停止、14日にドイツ軍がパリを占領、21日にフランスはドイツに降伏します。

第二は、フランスを実質的に統治していたドイツ軍のパリ統治責任者が、ヒトラーの命令に背いて、パリを破壊することなく連合軍に降伏したことです。フランスの降伏後、フランスはドイツの傀儡政権による自治が行われ、パリはドイツのパリ防衛軍により実質的な統治を受けます。やがて戦況が変化し、米英を中心とする連合軍がフランスを解放し始めます。パリ防衛軍司令官のディートリッヒ・フォン・コルティッツ中将にはヒトラーからパリを徹底的に破壊するようにとの命令が下り、パリ市内の主要な建物や施設にはドイツ軍の工兵部隊によって爆薬が仕掛けられました。しかし、コルティッツ中将は爆破命令を下すことなく、1944年8月25日に連合軍に降伏しました。彼が何故、ヒトラーの命令に背いたと思いますか? こればかりは本人にしかわからないことです。いずれにせよ、彼がパリを爆破せずに降伏したことで、今日のパリがあるのです。

このあたりの事情は「パリは燃えているか?」という本と映画が参考になるかもしれませんが、本(ハヤカワ文庫)は絶版ですし、映画は1966年公開なので、見ることができるかどうかもわかりません。勿論、私もどちらも見たことはありません。ただ、映画はキャスティングを見る限りでは、なかなか良い役者が揃っているので面白そうです。

少し長くなってしまいました。季節の変わり目は体調を崩しやすいので、健康に気をつてください。

では、また来週。


「愛人 ラマン」

2008年08月31日 | Weblog
マルグリット・デュラスの自伝的小説と言われている。フランスではベストセラーとなり映画にもなった。しかし、商業的に成功したのは、人々が単に書かれていることの表層に惹かれたというだけのことだろう。

家族という関係はグロテスクだと思う。「愛人」は、主人公の性愛体験を通して主人公の家族を描いている。家族のありかたなどというステレオタイプはそもそも存在しないだろう。世間一般の幻想として、家族は互いに良き理解者であり支援者であるというものがあるように思う。しかし、家族間の殺人事件というのは育児放棄や介護放棄まで含めれば、決して少なくないだろうし、ましてや、殺し合いにまで至らない程度の骨肉の争いというのは、世の中の個人間の紛争としてはかなり高い割合を占めているのではなかろうか。

家族という関係性がそうした個人間の対立に至るのは、「私」の領域の認識に個人差があることに一因があるように思う。「自己」と「他者」の境界というのは時と場合によって変化する。多くの場合、「私」の領域は広めに、「他者」の領域は小さめに認識されているだろう。家族という物理的にも精神的にも近い領域の内部での人間関係において、そうした各自の「私」が互いに越境して葛藤を生むというのは容易に想像がつくことである。

争い事というのは、余裕のある者の間では起らないものだ。問題を抱えた者が、その解決策を他者に依存しようとするときに発生する。この作品のなかでは主人公の兄に過度な自己肥大が見られる。また、夫に先立たれ経済的に貧窮した母親にも、子供たちとの関係に齟齬が見られる。恐らく、経済的困難という状況が引き金となって、家族各自の不平不満が制御不能に陥り、各自がそれぞれに代償行動に走った結果が、この作品のなかの世界といえよう。

そのなかで、主人公は15歳にして被差別民族との性愛に走り、長男は非行に、母親は情緒不安定に走ったということなのである。そこに愛は無いのだろうか? 「愛」とは何か、ということも議論の種になるだろうが、私は単に「自己」を支える精神的状況を指す概念だと思う。自分が今ここにいることを正当化する自分にとっての証拠とでも呼べるようなものだろう。人が関係性のなかで生きている以上、最も強力な自己正当化の根拠は他者による支持である。だから、人には他人からの愛、あるいはその幻影としての他人に対する愛、が必要なのである。ただ、他人にも「自己」がある以上、そうした同盟関係が容易に成立する相手というのは簡単に見つかるものではない。そこに家族という身近な存在が意味を持つのである。愛というのはきれいごとではない。自己の存在を賭けた死活問題なのである。自分に関わる「愛」はどこまでも美しく、自分とは関係の無い「愛」が醜いのは当然だ。さて、この主人公の家族のありかたは異常だろうか?