ナショナル・ギャラリーへ行ってきた。ルーブルやオルセーを観て気になったことがいくつかあったので、ちょっと確かめるために出かけたのである。
何を確かめたかったということを語ると長くなるので、語らない。今日は一通り観て回ることができたので、これまでの印象や他の美術館との比較も念頭に置いた上で、良いとこ取り的独断偏見満載見学順路を考えてみた。
優先順位としては、本館よりも先にSainsbury Wingを推したい。ここに展示されているのは殆どが宗教画で、キリスト教に関心の低い人には退屈かもしれない。しかし、それでもよく見て欲しいのである。特に区画番号66のピエロ・デラ・フランチェスコ、区画56のヤン・ファン・エイクは、人類の一員として是非脳裏に刻み込んで欲しい作品である。時間と気持ちに余裕があれば、区画58のボッティチェリと区画62のジョヴァンニ・ベリーニを観て欲しい。
ピエロ・デラ・フランチェスカというとウルビーノ公夫妻の肖像がすぐに思い浮かぶと思うが、ここにあるのは肖像画ではない。力のある絵画というのは遠くから見ても、すぐにそれとわかるものである。画面がよく見えないけれど、視界に入った瞬間、身体が反応してそちらへ引き寄せられるのである。そういう絵は舐めるように観る。必ず、何かしら脳裏に残るものである。ピエロ・デラ・フランチェスカの「The Baptism of Christ」がまさにそのような作品なのである。「The Nativity」はポップな印象すら感じさせる構図で、描かれてから600年近く経つというのに、新鮮さが失われていない。「Saint Michael」も赤が印象的に使われている。作家の空間認識力と空間構成力の非凡さが発揮されている。
ヤン・ファン・エイクの「The Arnolfini Portrait」はあまりに有名な作品で、今更語ることもない。ヤン・ファン・エイクは現在の油彩画の技法の生みの親とされている。油彩画自体はそれ以前から存在していたが、現在の技法の原形を確立したとされている。また、この夫婦の肖像画に見られるように、リアリズムに基づく作品を生み出したことでも知られている。尤も、この夫婦の絵には様々な記号が盛り込まれており、そうしたことについてのリテラシーがないと面白くないかもしれない。テレビの美術番組や美術雑誌でしばしば取り上げられているので、そうした予備知識を持った上でこの作品を眺めると、この作品だけで軽く1時間くらいは楽しむことができるかもしれない。
その後、渡り廊下で本館へ移り、区画8の作品は漏れなく全て舐めるように観て欲しい。特にラファエロの「Saint Catherine of Alexandria」と「Pope Jullius II」は見逃してはならない。ラファエロは、作品によって出来不出来の差があるように思う。ここにある作品が全て好きなわけではないが、「アレクサンドリアの聖カタリナ」はルーブルにある「美しき女庭師」と同じくらい好きだ。「教皇ユリウスII世」は色使いが格好良い。緑の背景に赤のマントと帽子、白いプリーツの入った服という組み合わせのセンスが素晴らしいし、教皇の皮膚の感じとか、指輪の宝石の色も計算し尽くされた完成度の高さを感じさせる。
ラファエロに感動したら、後ろを振り返って欲しい。ブロンツィーノの「An allegory with Venus and Cupid」をじっと見つめ、想像力を逞しくして、股間を濡らして欲しい。絵に込められた寓意を考え始めると、股間は萎えてしまう。どうせ考えてもわからないのだから、濡れないにしても勃起はして欲しい。そのように観て欲しい。なんといっても描かれているのはヴィーナスなのだから。気持ちが高ぶったところで、その隣に目を移し、ミケランジェロで冷静になろう。
日頃禁欲的な生活を送っているので、絵画を見るとどうしても女性を描いた作品に目がいってしまう。先日は、裸婦像だけを集中して観て回ったほどである。しかし、人目を引かない人物画は存在意義がないといえよう。女性を描くなら、その作品を観る者の股間を濡らすくらいの力がないようではプロの絵描きとは言えまい。濡らさなくとも、勃起させるのはプロたる必須条件だろう。女性の絵という点で、ラファエロもブロンツィーノも文句がないが、アングルが描いた肖像画に言及しないわけにはいかない。残念ながらナショナル・ギャラリーには1点「Madame Moitessier」しかないのだが、ルーブルにある「リヴィエール嬢」は特筆ものだと思う。モデルは13歳なのだそうだが、少女の色香というものが的確に表現されている。例えば25歳の女性の色気を表現するというのは、それほど困難なことではないだろう。しかし、少女から女へと成長の真只中にある人物の、その芽生えの部分をそれとなく表現するというのは、描き手にそれ相応の女性経験の厚さが求められると思う。人は経験を超えて発想することはできないのだから。
フランドル絵画に興味があるなら、ここで一旦、区画16でレンブラントの初期の作品と区画23と24の同じくレンブラント、区画25のフェルメールは押さえておいて損はないだろう。
もう時間がない、というなら、フランドルは飛ばして、区画8の後は区画6と4をざっと眺めながら通り過ぎ、区画2でレオナルド・ダ・ヴィンチの「The Virgin and Child with Saint Ann and Saint John the Baptist」と「The Virgin of the rocks」を押さえて、そのまま出口へ抜けるとよいだろう。
以前にも書いた記憶があるのだが、ダ・ヴィンチの作品は完成度が高すぎて絵画というより何かの設計図のように見えてしまう。典型的にはルーブルにある「モナ・リザ」と「洗礼者聖ヨハネ」だが、ここの「岩窟の聖母」は同じタイトルのものがルーブルにある。ルーブルにあるものは未完成ながらスフマート技法で描かれており、いかにもダ・ヴィンチという感じなのだが、こちらの作品は弟子や何者かが後から描き加えたものがあり、わずかな違いが全体の雰囲気を変えてしまうことがよくわかる。
あと少し時間があるというなら、出口へ抜ける前に、区画30でベラスケスの「The toilet of Venus」をみて、隣の区画32でカラヴァッジオの「The supper at Emmaus」を勧めたい。
ベラスケスのヴィーナスは構図の面白さや美しさは勿論のこと、鏡を持ち込んだことによって、見る側と見られる側とが交錯する面白さもある。つまり、鏡にはヴィーナスの顔が映っている。ということは、ヴィーナスには我々見る側が見えている。ヴィーナスの腰から大腿部という最も視線をひきつける場所に接して鏡を置くことで、絵を見る我々と絵の中のヴィーナスとが確実に交感するようになっている。
「The supper at Emmaus」は光の流れがおもしろい。聖なる人とは光を発する人なのである。
印象派だのポスト印象派といった作品は、パリ以外ならどこで観ても似たようなものである。時間があってもなくても、優先順位は最下位でよいだろう。
余談だが、不思議に思ったのは、ルーブルにもオルセーにも作品を写真に収めている人が大勢いたのに、ナショナル・ギャラリーではそのような人は見かけないことだ。確かに、パリのほうには美術の教科書には必ず登場するような作品が多数展示されていて、それを見たという証拠を残したい気持ちがあるのだろう。しかし、作品の知名度や質においてロンドンのほうは見たという証拠を残すに値しないということはあるまい。おそらく、所謂「101匹目のサル」現象なのではないかと睨んでいる。誰かがカメラを構えると、それが同じような行為を誘発するのだろう。