熊本熊的日常

日常生活についての雑記

義務教育は義務に値するか?

2008年08月11日 | Weblog
最近読んでいる本のなかに、偶然、欧州のブルジョア家庭の教育のことが触れられていた。日本でいう義務教育に相当する部分は家庭で行い、高等教育だけ学校教育に託すという考え方があるようだ。今は、よほど上流階級でもない限り、初等教育から学校が担うようになっているようだ。

確かに、自分の経験から考えると、少なくとも小学校に通うということは人として必要なことであったのだろうかと疑問に思う。尤も、私の場合は家庭での教育に関しては全く何も期待できないので、義務と権利があってもなくても、学校に通わざるを得なかったのだが。

人が人に何を「教える」ことができるのだろうか。知識という断片を伝えるのは意思疎通の一環であって「教育」ではないだろう。断片を詰め込んだところで、詰め込まれた人間が生きる上では何の意味もない。「考える」ことの豊かさを伝えることが、教育の唯一の目的ではないだろうか。いくら知識ばかりあっても、それだけでは生きることはできないのだから。

学校教育は不特定多数を対象にする以上、自ずと知識偏重型の「教育」にならざるをえないだろう。それは、入学試験を設けて教育の対象を絞り込んだところで同じことである。集団という煙幕に隠れて目先の快楽に溺れた卑劣な行為に興じる走る刹那的快楽を体験するには、学校というところは適しているかもしれない。それが大人の社会の延長線上にあることなら、社会の現実を知る格好の教材でもある。しかし、そんなことに時間と労力を費やすことは人格形成にどれほど重要なことなのだろうか。

家庭に子弟の教育を行う能力があるのなら、学校に通わせるのではなく、家庭内で教育をするのが合理的ではあると思う。所謂「義務教育」が果たして「義務」にするだけの内実を備えたものなのか、私は疑問に思う。