熊本熊的日常

日常生活についての雑記

オリンピック

2008年08月15日 | Weblog
家にテレビもないし、それほど関心もないので、オリンピックのことがわからない。それでも、ネットを開くとメダルの数とか、勝った負けたという話題はたくさん並んでいる。レスリングで銅メダルだった選手が、判定に不服があって、よりによって表彰式で怒り心頭に発して「金じゃなければ意味がない」と言って自分のメダルを投げつけてしまったというニュースも目にした。開会式で国歌を唱った女の子が口パクだったとか、判定に抗議して罰金をくらった監督がいるとか、しょうもないことも目にする。

中国にしてみれば、国威発揚の行事なのだろう。写真でしか見ていないが、北京の町や空港の整備は、予想はされていただろうが、気合いの入ったものだ。聖火リレーを巡る一連の騒動は、国家とオリンピックとの関係について饒舌に語っている。

選手個人にしてみたら、自分の存在意義を賭けて競技をしている人もいるだろう。ただ、選手の多くは若者である。彼等のほんとうの人生はオリンピックの後に始まる。そこに出場するというだけでも偉業であることにちがいないが、その経験を、その後にどのように活かすかということのほうがもっと重要な個人的課題だろう。

オリンピックとは何なのだろう? 平和の祭典と言われながら、オリンピック開催中に参加国間で戦争が起こるし、オリンピックを観に来た人が殺されたりもする。これでは平和の祭典にならないだろう。当初の意図は平和の尊さを認識することだったかもしれないが、今はそんな企画意図があるとは思えない。

経済発展の足がかりとしての公共投資の場、という見方もある。しかし、オリンピックの施設建設にどれほどの波及効果があるのだろうか? 確かに、1964年の東京大会では、オリンピック開催に合わせて首都高速道路の整備や新幹線の開業があった。オリンピックを機にテレビの普及が加速したという現象も見られた。これらは、既に経済成長の流れがあり、その節目のひとつとしてオリンピックがあったということを語っているに過ぎない。むしろ、東京大会は、その前のローマ大会や72年のミュンヘン大会とともに、戦後復興の象徴的行事という色彩が強かったのではないだろうか。

結局、国を超えた行事というものは、どのような形であれ、政治イベントなのである。巨額の金が動き、利権を巡って人々が右往左往する。人類の欺瞞の象徴とでも言えようか。何はともあれ、無事に閉会式を迎えることを祈っている。