熊本熊的日常

日常生活についての雑記

あこがれの君

2008年08月20日 | Weblog
オリンピックで中国の陸上選手が棄権したことが話題になっていた。その選手はアテネ大会で金メダルを獲得し、それをきっかけに中国ではスターのような存在になっていたという。年収が大卒新人の平均年収の2,000倍に相当するとかで、当然、今回の大会でも注目度が高かったのだが、脚の故障で試合への出場を断念せざるを得なかったのだそうだ。これに対し、ネット上で中国国内から激しい非難が寄せられ、政府が火消しに躍起になるというほどの騒ぎになったようだ。

オリンピックに出場するというのは、特別なことには違いない。国家代表として参加するのだから、そこに国民の期待が集まるのは当然だ。しかし、競技をするのは選手個人である。オリンピックに限らず、スポーツの観客というのは、実際に競技をする当事者に対し、過剰なまでに感情移入をする傾向が見られるように思う。自分の無能力を、その選手が肩代わりしてくれているかのように、その選手と自分とを一体化しているように見える。

人が何事か行動を起こすのは、その対象が手に届きそうだと認識するときであろう。自分が認識する自己の能力をはるかに超えたものが要求されるなら、行動を起こそうという気持ちすら起きないだろう。毎日の生活というのは、結局のところ、ほんのわずかの手の届くものと数多の諦めによって占められているものなのではなかろうか。一方で、人には自己顕示欲というものがある。その欲望を満足させるに足る能力がなければ、代償行為に走るのも当然の選択だと思う。生活にまつわる困難が大きいほど、諦めたものへの代償も大きなものが求められるのだろう。オリンピックという世界が注目する舞台で、自分と同じ国の選手が活躍する。代償行為の場として、これほどわかりやすいものがほかにあるだろうか。

それにしても、自分の関わり知らぬ多くの人々から勝手に自己同一視される選手にしてみれば、自分の一挙手一投足に他人の視線が絶えず絡み付くのは迷惑この上ないことだろう。他人事ではあるけれど、選手個人の身の上にマスの不当な暴力が及ばないことを祈らずにはいられない。