子供が小学校の低学年くらいまで、毎週末の夜、絵本の読み聴かせをしていた。自分が子供の頃は本などろくに読みもしなかったので、読み聴かせで自分も初めて手にする作品が多かった。説教臭いものも少なくないのだが、簡潔な物語の中に生きることの意味を読者と共に考えようとする奥深い作品が多いことに驚いたものである。
先日このブログに書いたサン=テグジュペリの「星の王子さま」はあまりに有名な作品だが、あの話は決して子供向けのものではない。文字が大きいとか、絵が添えてあるという形の差異はあるにせよ、物語の中身は大人向けも子供向けもないと思う。すぐれた「児童書」は普遍性を帯びている。
「木を植えた男」もフランスの話である。子供に読み聴かせをしていた頃は、それほど気に入った話というわけでもなかったのだが、自分が歳を取り、「木を植えた男」と同じような年齢に達してみると、そこにある生活の豊かさがまばゆく感じられるようになる。
中途半端な毎日を重ね、目先のことに追われてあくせくし、気がつけば歯牙にもかからぬ俗悪な存在に成り果てた己が姿に愕然としながら、なす術を知らない情けなさ。住宅ローンやら身内との関わりに、弥が上にも目先に走らざるを得ないと感じてしまう余裕のなさ。そうした閉塞感を、一時だけ忘れさせてくれるのは、自分も手を伸ばせば届くかもしれないと思えるような、木を植え続けるという単純な行為の所為かもしれない。
主人公はプロバンスの廃村に一人暮らし、羊を飼って生計を立てながら、毎日ドングリを植えて歩いている。羊飼いを止めて養蜂に転業してからも、同じようにドングリを植え続けている。やがて荒れ地だった彼の住処の周囲は何十キロにもわたって若い木々に覆われるようになったのである。再生された森は多くの生命を育み、後にそこに住み着いた開拓者たちに実り豊かな生活をもたらしたという。人々はその森が自然林だと思っている。それほど立派な森に育ったのである。
「滅私奉公」という言葉があるが、己を消し去ることによって、己の人生を豊かにする、そういう生き方に憧れを覚えるのは私だけだろうか? 須賀敦子が「どんぐりのたわごと」の第8号にこの話を「希望をうえて幸福をそだてた男」という題で紹介している。「木を植えた男」は柳田邦男の「大人が絵本に涙する時」のなかでも紹介されている。
先日このブログに書いたサン=テグジュペリの「星の王子さま」はあまりに有名な作品だが、あの話は決して子供向けのものではない。文字が大きいとか、絵が添えてあるという形の差異はあるにせよ、物語の中身は大人向けも子供向けもないと思う。すぐれた「児童書」は普遍性を帯びている。
「木を植えた男」もフランスの話である。子供に読み聴かせをしていた頃は、それほど気に入った話というわけでもなかったのだが、自分が歳を取り、「木を植えた男」と同じような年齢に達してみると、そこにある生活の豊かさがまばゆく感じられるようになる。
中途半端な毎日を重ね、目先のことに追われてあくせくし、気がつけば歯牙にもかからぬ俗悪な存在に成り果てた己が姿に愕然としながら、なす術を知らない情けなさ。住宅ローンやら身内との関わりに、弥が上にも目先に走らざるを得ないと感じてしまう余裕のなさ。そうした閉塞感を、一時だけ忘れさせてくれるのは、自分も手を伸ばせば届くかもしれないと思えるような、木を植え続けるという単純な行為の所為かもしれない。
主人公はプロバンスの廃村に一人暮らし、羊を飼って生計を立てながら、毎日ドングリを植えて歩いている。羊飼いを止めて養蜂に転業してからも、同じようにドングリを植え続けている。やがて荒れ地だった彼の住処の周囲は何十キロにもわたって若い木々に覆われるようになったのである。再生された森は多くの生命を育み、後にそこに住み着いた開拓者たちに実り豊かな生活をもたらしたという。人々はその森が自然林だと思っている。それほど立派な森に育ったのである。
「滅私奉公」という言葉があるが、己を消し去ることによって、己の人生を豊かにする、そういう生き方に憧れを覚えるのは私だけだろうか? 須賀敦子が「どんぐりのたわごと」の第8号にこの話を「希望をうえて幸福をそだてた男」という題で紹介している。「木を植えた男」は柳田邦男の「大人が絵本に涙する時」のなかでも紹介されている。