恋とはこのようなものだろうか。はじめは旅先での行き摺りの関係でしかなかったのだろう。それなのに男のほうは、なんとなく心に引っ掛かるものを感じ、女の様子を見に戻ってくる。しかし、女に会うという明確な意志があるわけではない。女の方も感じるものがあるようで、再会を素直に喜ぶ。互いにただならぬものを感じながら、さらに一歩踏み出すほどの決断はせず、無為に時間を遣り過ごす。
煮物を作るとき、一旦火からおろして冷ますと、味が深くしみる。人の心も、少し時間や距離を置くと、相手に対する気持ちがそれまでよりも強くなるものなのだろうか。強くなることもあるだろうし、忘れてしまうこともあるだろう。強くなるのなら、それが縁というものだ。
そこへ別の女が現れ、男はそちらも気になり始める。その新たな登場人物がふたりの関係に影を落とし、人の心の三体問題のような展開を予感させつつ物語は終わる。その展開が、情景描写の妙と相まって、なぜか人の心の美しさを感じさせるから不思議である。この作品の冒頭は有名だが、全編を通じて風景描写が美しい。
先日読んだ新潮文庫版「山の音」には「この作品は昭和29年4月筑摩書房より刊行された」と書いてあったが、新潮文庫版「雪国」の巻末にある年譜によれば、昭和24年9月とある。同年譜には「雪国」が昭和12年6月とあるので、いずれにしても「山の音」と「雪国」の間には戦争を挟んでかなりの時間が経過している。この間に文体が変化していることに驚いた。
煮物を作るとき、一旦火からおろして冷ますと、味が深くしみる。人の心も、少し時間や距離を置くと、相手に対する気持ちがそれまでよりも強くなるものなのだろうか。強くなることもあるだろうし、忘れてしまうこともあるだろう。強くなるのなら、それが縁というものだ。
そこへ別の女が現れ、男はそちらも気になり始める。その新たな登場人物がふたりの関係に影を落とし、人の心の三体問題のような展開を予感させつつ物語は終わる。その展開が、情景描写の妙と相まって、なぜか人の心の美しさを感じさせるから不思議である。この作品の冒頭は有名だが、全編を通じて風景描写が美しい。
先日読んだ新潮文庫版「山の音」には「この作品は昭和29年4月筑摩書房より刊行された」と書いてあったが、新潮文庫版「雪国」の巻末にある年譜によれば、昭和24年9月とある。同年譜には「雪国」が昭和12年6月とあるので、いずれにしても「山の音」と「雪国」の間には戦争を挟んでかなりの時間が経過している。この間に文体が変化していることに驚いた。