さて、今回の金融騒動に際しての欧米各国の政府当局の対応は迅速だ。しかし、どこか場当たり的で、内実が無いものばかりだと感じる。金融機関の信用不安がなぜ起ったのか、サブプライムローンという仕組みがなぜ破綻したのか、そういう議論が無く、対処療法的に金利を下げたり流動性の供給を行って当座の時間稼ぎをしているだけのように見えるのである。
確かに、終わってしまったことの原因を考えたところで意味は無いかもしれない。突き詰めれば、カネというものは信用である。ただの紙切れで財やサービスを購入できるのは、その紙切れに信用があるからだ。その信用とは、国家権力という幻想である。何が起ころうとも、国家は機能して国民生活を守るという幻想の上に世の中は回っている。だから、とりあえず、「みなさん、ご心配には及びません!」というアナウンスメントを発することに意義があるとも言える。なぜ心配いらないのか、という説明は不要である。説明して国民が容易に理解できるほどのものなら、そもそも破綻に至る前に対策が打たれているはずだ。わけがわからないから破綻に至るのである。つまり、今必要なのは発生した問題の原因究明ではなく、引き続き信用が機能し続けているという信頼感を醸成することなのである。
懸念されるのは、その国家権力という幻想が希薄化しつつあることだ。かつて冷戦構造と呼ばれる世界の枠組みが機能していた頃は、超大国どうしの対立があり、否応無く国家を意識せざるを得なかった。ところが、そうした枠組みが崩壊し、宗教という国民国家を超越したカテゴリーでの対立が発生するとか、グローバル化という名の下に人や物の無国籍化が進行するといった現象が広がると、相対的に国家の存在感が低下し、意識するとしないとにかかわらず不安心理が強くなるものである。その結果として、数値の多寡で明快に価値を表現できる投資や投機の世界に自己の存在証明を求めて人々が流れるのではないだろうか。そうだとするなら、国家がどれほどの資金を投じて破綻に瀕した金融機関を救済しようとも、その救済行為自体は金融市場や不動産市場の参加者には関係のないことだろう。市場の混乱は、もはやゲームを続けることができなくなった参加者が身ぐるみ剥がれて退場させられるまで続くのである。そうした市場の自律的な調整が完了して、ようやく次のゲームが始まるのである。今はまだ、その調整が始まったばかりのような気がする。