熊本熊的日常

日常生活についての雑記

ゲーム・オーバー

2008年10月13日 | Weblog
20年前に英国で暮らしていた頃、この国には四大銀行とよばれる銀行があった。National Westminster, Barclays, Midland, Lloydsである。今、この4行のなかで昔と同じ名前で存在しているのはBarclaysだけだ。National Westminsterは名前こそ昔のままだが経営はRoyal Bank of Scotland傘下にある。MidlandはHSBCに買収されLloydsはTSBと合併してLloyds-TSBとなった。今回の金融危機でいよいよ公的資金が経営不安に陥った銀行に投入されようとしている。とりあえず資金注入をして、現状の危機を乗り切ろうということらしい。また、FTによれば、英国政府がRoyal Bank of Scotlandの約60%の株式を確保、Lloyds-TSBとHBOSについては両行を合併させた上で、その合併後の銀行の43%を保有する計画だという。政府保有株は状況が改善した後に売却するそうだ。

さて、今回の金融騒動に際しての欧米各国の政府当局の対応は迅速だ。しかし、どこか場当たり的で、内実が無いものばかりだと感じる。金融機関の信用不安がなぜ起ったのか、サブプライムローンという仕組みがなぜ破綻したのか、そういう議論が無く、対処療法的に金利を下げたり流動性の供給を行って当座の時間稼ぎをしているだけのように見えるのである。

確かに、終わってしまったことの原因を考えたところで意味は無いかもしれない。突き詰めれば、カネというものは信用である。ただの紙切れで財やサービスを購入できるのは、その紙切れに信用があるからだ。その信用とは、国家権力という幻想である。何が起ころうとも、国家は機能して国民生活を守るという幻想の上に世の中は回っている。だから、とりあえず、「みなさん、ご心配には及びません!」というアナウンスメントを発することに意義があるとも言える。なぜ心配いらないのか、という説明は不要である。説明して国民が容易に理解できるほどのものなら、そもそも破綻に至る前に対策が打たれているはずだ。わけがわからないから破綻に至るのである。つまり、今必要なのは発生した問題の原因究明ではなく、引き続き信用が機能し続けているという信頼感を醸成することなのである。

懸念されるのは、その国家権力という幻想が希薄化しつつあることだ。かつて冷戦構造と呼ばれる世界の枠組みが機能していた頃は、超大国どうしの対立があり、否応無く国家を意識せざるを得なかった。ところが、そうした枠組みが崩壊し、宗教という国民国家を超越したカテゴリーでの対立が発生するとか、グローバル化という名の下に人や物の無国籍化が進行するといった現象が広がると、相対的に国家の存在感が低下し、意識するとしないとにかかわらず不安心理が強くなるものである。その結果として、数値の多寡で明快に価値を表現できる投資や投機の世界に自己の存在証明を求めて人々が流れるのではないだろうか。そうだとするなら、国家がどれほどの資金を投じて破綻に瀕した金融機関を救済しようとも、その救済行為自体は金融市場や不動産市場の参加者には関係のないことだろう。市場の混乱は、もはやゲームを続けることができなくなった参加者が身ぐるみ剥がれて退場させられるまで続くのである。そうした市場の自律的な調整が完了して、ようやく次のゲームが始まるのである。今はまだ、その調整が始まったばかりのような気がする。

娘へのメール 先週のまとめ

2008年10月13日 | Weblog

元気ですか?
今朝はうっすらと霧がかかりました。ロンドンはもう冬かと思いきや、昼頃から気温が上がり、少し歩いただけで汗ばむほどの陽気になりました。

先週は夏目漱石の短編集「倫敦塔・幻影の盾」(新潮文庫)を読みました。漱石は1900年から1902年まで日本政府からの派遣留学生としてロンドンで暮らしています。目的は英文学の研究だったそうです。当時、漱石はまだ小説家ではなく、第五高等学校(現在の熊本大学)の英語教授でした。もともと病気がちの人で、精神衰弱(今で言うノイローゼ)にもよく罹ったそうです。英文学専攻の学者でありながら、英文学に対する違和感を抱えるようになり、それがロンドン留学中になお一層ひどくなったそうです。それでもロンドンでの生活では多くの得難い経験をしていたようで、後の作品にそうした影響があるのは確かだと思います。「倫敦塔」は、漱石がロンドンにいた頃の体験そのものかもしれませんし、体験したことをもとに書いた創作かもしれません。発表されたのは帰国後しばらく経ってから、1905年のことでした。この短編集には「倫敦塔」とほぼ同時期に発表された短編が7編収められています。どれもその後の漱石の作品につながる重要なものばかりです。テーマは、一言で表現するなら、男女の愛ということになるでしょう。文章も古い日本語で読みにくいものですが、日本人として、いつか必ず読んでおいたほうがよい作家のひとりだと思います。たぶん、高校生くらいになったら、おもしろいと思えるようになるかもしれません。

今日は、漱石が留学中に住んでいた家を見に行ってきました。漱石はロンドン滞在中、わずか3年ほどの間に5回も下宿先を変えています。神経質な人であったようで、なかなか気に入った場所に巡り会えなかったのでしょう。最後に住んだ家には、ようやく落ちついたようで、1年4ヶ月間を過ごしたそうです。その最後の家を見てきました。現在も住宅として使われており、住人がいるので内部を見学することはできません。外から見ただけです。それでも漱石が住んでいた家という旨のプレートが建物の壁に打ち付けてあるので、それとわかります。ロンドン南部の閑静な住宅街のなかにあり、なんの変哲もないごくありふれた建物でした。

漱石が小説を書くようになったのは、1904年のことです。友人の高浜虚子が、漱石の神経衰弱の治療の一助にと小説を書くことを勧めたのだそうです。それで書いた作品が「我が輩は猫である」でした。この後に発表したのが「倫敦塔」で、それに「坊ちゃん」と続きます。漱石はロンドンから帰国後、第一高等学校(現在の東京大学)と東京帝国大学(現在の東京大学)と明治大学で英文学の講師をしていましたが、1907年にこれらの教職をすべて辞め、朝日新聞に入社、以降、新聞に連載小説を書く職業作家としての道を歩むようになります。

つまり、漱石が小説家になる転換点になったのがロンドンへの留学であったように思うのです。住んでいた家を見たからといって、何がどうということはありません。ただ、ほう、こういうところに住んでいたか、と思うだけのことです。それでも、私のロンドンでの生活も残り少なくなってきたこともあり、自分の好奇心に素直に従ってみました。

では、また来週。健康に気をつけてください。