熊本熊的日常

日常生活についての雑記

BYZANTIUM

2008年10月27日 | Weblog
昨日、Royal Academy of Artsで開催中のBYZANTIUM展を観てきた。ビザンツ帝国は、ローマ帝国が395年に東西に分裂した後の東側のことだ。ローマ帝国という共通のルーツを持ちながら、西ヨーロッパが政教分離と封建制を政治の基本としたのに対し、ビザンツ帝国は皇帝が神の代理人として聖俗双方を支配し、テマ制と呼ばれる官僚制による統治体制が敷かれた。ユスティニアヌス1世の時代に現在のイタリア、東欧、トルコ、パレスチナ、北アフリカの地中海沿岸地域を領有したが、最後は首都であったコンスタンティノープルが唯一の領土となるまでに勢力は衰退し、1453年にそのコンスタンティノープルがオスマン帝国によって滅ぼされてローマ帝国の歴史は終わるのである。

前書きが長くなったが、この展示を観ていて信仰とか信心というものについて考えたのである。キリスト教だのイスラム教だの仏教だのと、世の中には何百年という時を超えて教義が固定化され、大勢の信者を擁する宗教がある。本来、信仰あるいは信心というものは極めて個人的なものであるはずだ。それが何故、共通の教祖、教典、教義などを持った組織になりうるのだろうか?

ローマ帝国が東西に分裂して以降、西欧では皇帝や国王という俗界の統治者と教会とは互いに独立して存在してきた。ビザンツ帝国では、教会はコンスタンティノープル総主教という皇帝から形式的には独立した存在があったが、皇帝に神の代理人という地位が与えられており、実質的に教会は皇帝の支配下にあった。ビザンツ帝国におけるキリスト教は、統治の装置という側面もあったはずである。それ故に、貴金属や宝石で飾り立てた十字架であるとか、金糸や銀糸で編んだイコンであるとか、教会関連の華美な道具類は教会や支配層の権威付けとして重宝されたのだろう。個人の信念や信条に関するはずのことが、物理的な文物を欲し、個人の外部にある権威によって強制を受けるというのは理屈に合わないことである。

個人の在り方と宗教というものの在り方との間にある矛盾を克服するのは、個人の隷属と権威の絶対化の少なくとも片方であろう。マスとして人心を掌握するには、宗教の権威付けが不可欠である。その方法論の一部として、小道具が有効だということなのだろう。しかし、各宗教がそれぞれに絶対的権威を求めれば、結局はどのような形であれ、宗教間の対立を生む。それによって引き起こされる不安定な状況が人々の不安心理を刺激して、宗教のような精神的支柱への欲求が喚起されるという不安の循環があるように思う。

娘へのメール 先週のまとめ

2008年10月27日 | Weblog

元気ですか?

中間試験は手応えがあったようで、なによりです。試験の点数自体には意味はありませんが、何をどうすればどういう結果が出るのか、ということをしっかり学習するとよいと思います。あと、物事を考える上で、どうしても基礎となる知識は必要ですから、そのあたりのことも踏まえて日々の勉強に取り組むとよいでしょう。

高校の文化祭ともなると、演劇やコーラスに限らず、かなりのレベルになるのでしょうね。尤も、私の高校時代は、大学受験の準備のほうに一生懸命で、学校行事を熱心にやってる奴はあまりいなかったように思います。今から思えば、それはもったいないことだったと思います。少しぐらい受験勉強の時間を削ったところで、学力が極端に変化するわけではありません。それなら、高校時代にもっと好きなことをやってみればよかったかなと、多少の後悔の念は未だに拭えないでいます。

大学に入った時、付属校から進学してきた連中は受験勉強など必要なかったので、みなそれぞれに個性的な奴が多かったように思います。そういう連中を目の当たりにして、なんだかとてもうらやましく感じたものです。

でも難しいですよね。自分の好きなことを見つけるというのは。目の前に、取り敢えず片付けなければならないことが次々に現れて、ついついそういう人生にとって根幹に通じるものなのか、枝葉末節に過ぎないのか、わけがわからないうちに流されてしまうというのが多くの人の人生であるような気がします。しかし、それではつまらないですよね。

さて、先週は、世の中は大変なことになっていますが、個人的にはいつもとかわらぬ一週間でした。スーザン・ソンタグの評論集はまだ読み終えていませんが、中沢新一の「アースダイバー」を読みました。この本は学校や区の図書館にありますかね? 中沢新一というのは宗教学者です。その叔父が網野善彦という歴史学者で、どちらも日本を代表する人たちです。名前くらいは記憶にとどめておいたほうがいいいでしょう。「アースダイバー」は現在の東京に縄文時代の地図を重ねて、そこに暮らす人々の心理地図と実際の物理的な風景がいかに深く結びついているかということを語っています。

映画はYou Tubeで黒澤明監督の「乱」を観ました。日本映画というのは、予算の制約もあって、総じてテレビドラマに毛の生えた程度のものが多いのですが、なかには世界の映画人が注目する作品もあります。また、文化の違いのために海外では評価されないけれど、日本人としては観ておいたほうがよい作品というのもあります。黒澤作品は世界が注目するものです。今の時代からみれば、やはり古さというものがあります。その時代の流行のようなものもありますし、科学技術や社会風俗の変化のために、今となっては陳腐なものもあります。「乱」に限らず、黒澤作品はひとつひとつのカットの映像としての完成度の高さに特徴があると思います。あと、人間の自我とか欲といった普遍性のあるテーマを、わかりやすいストーリーに乗せているというのも海外から評価を受けやすい要因のひとつかもしれません。黒澤明のほかに日本人の映画監督で世界的に有名なのが小津安二郎です。ふたりとも、映像の細部にまでこだわることで有名で、そうしたひとつひとつの練りに練られ緻密に構成されたカットを積み重ねることで、作品に深さを与えるというスタイルです。

その「乱」ですが、これはシェイクスピアの「リア王」を日本の戦国時代を舞台にした時代劇で表現したものです。「リア王」は日本でも文庫本で読むことができます。それほど長い話ではないので、機会があれば是非読んでください。

では、また来週。風邪などひかぬよう、気をつけてください。