友人がブログのなかで中国映画「公園」について書いていた。そのなかで、食事のシーンの意味が強い、と述べている。私はこの映画を観たことはないが、食事の風景が語る深さというのは、文化によってかなり差が大きいかもしれない。
しかし、食事を共にするというのは、洋の東西を問わず、人間関係を構築する上で避けて通ることのできないことのようにも思う。須賀敦子のエッセイにこんなことが書いてある。
「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」
ミラノで結婚してまもないころ、これといった深い考えもなく夫と知人のうわさをしていた私にむかって、姑がいきなりこんなことをいった。
(「須賀敦子全集 第3巻」河出文庫版 531頁「塩一トンの読書」)
いっしょに塩を舐めるというのは、食事を共にするということだろう。人が一生の間に摂取する塩の量がどれほどなのか知らないが、もののたとえとして、人を理解するには食事を共にするというような濃密な時間がたくさん必要であるけれど、それでも容易に理解できるものではない、という意味なのだと思う。その食事というのも、おそらくレストランでの食事ではなく、自らの手で作ったものや相手が作ったものを一緒に味わうものだろう。
これまでの経験から、私は食に無頓着な人間とは馬が合わないことがわかっている。結婚していた頃から台所に立つ機会は少なくなかったが、こちらで生活するようになってからは毎日自炊しているので、料理に関してはいろいろ思うところが多い。はっきりしているのは、おいしいものを作ろうという意志がなければ旨いものは作れない。当然のようだが、惰性で作っているだけで、食べる人のことなどろくに考えもしない人というのは案外多いような気がする。
自分で料理をする人なのか否かというのは、実際に作るところを見なくても、レストランなどで一緒に食事をすればすぐにわかる。食事の作法ということではなく、食事を前にしたときの身体の反応が、自らも作る人とそうでない人とでは決定的に違うのである。なにがどう違うのか、ここでは書かないが、けっこう単純なことなのである。
これは私の妄想なのだが、食に対する姿勢は、その人の生き方のスタイルに深く関わっていると思う。心底楽しく食事を共にできる相手というのは、話をしていても通じるところがあって会話が愉快であるが、そういう人は実に少ない。自分の交友範囲のなかでも、数えるほどしかいない。日本に帰ったら、そういう人を探してみたいと思っている。死ぬまでにひとりでもそんな人に巡り会えたら、きっと幸運をつかんだと感じると思う。
しかし、食事を共にするというのは、洋の東西を問わず、人間関係を構築する上で避けて通ることのできないことのようにも思う。須賀敦子のエッセイにこんなことが書いてある。
「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」
ミラノで結婚してまもないころ、これといった深い考えもなく夫と知人のうわさをしていた私にむかって、姑がいきなりこんなことをいった。
(「須賀敦子全集 第3巻」河出文庫版 531頁「塩一トンの読書」)
いっしょに塩を舐めるというのは、食事を共にするということだろう。人が一生の間に摂取する塩の量がどれほどなのか知らないが、もののたとえとして、人を理解するには食事を共にするというような濃密な時間がたくさん必要であるけれど、それでも容易に理解できるものではない、という意味なのだと思う。その食事というのも、おそらくレストランでの食事ではなく、自らの手で作ったものや相手が作ったものを一緒に味わうものだろう。
これまでの経験から、私は食に無頓着な人間とは馬が合わないことがわかっている。結婚していた頃から台所に立つ機会は少なくなかったが、こちらで生活するようになってからは毎日自炊しているので、料理に関してはいろいろ思うところが多い。はっきりしているのは、おいしいものを作ろうという意志がなければ旨いものは作れない。当然のようだが、惰性で作っているだけで、食べる人のことなどろくに考えもしない人というのは案外多いような気がする。
自分で料理をする人なのか否かというのは、実際に作るところを見なくても、レストランなどで一緒に食事をすればすぐにわかる。食事の作法ということではなく、食事を前にしたときの身体の反応が、自らも作る人とそうでない人とでは決定的に違うのである。なにがどう違うのか、ここでは書かないが、けっこう単純なことなのである。
これは私の妄想なのだが、食に対する姿勢は、その人の生き方のスタイルに深く関わっていると思う。心底楽しく食事を共にできる相手というのは、話をしていても通じるところがあって会話が愉快であるが、そういう人は実に少ない。自分の交友範囲のなかでも、数えるほどしかいない。日本に帰ったら、そういう人を探してみたいと思っている。死ぬまでにひとりでもそんな人に巡り会えたら、きっと幸運をつかんだと感じると思う。