熊本熊的日常

日常生活についての雑記

ロンドンを歩く

2008年10月12日 | Weblog

ロンドンでの生活も残りわずかとなってきたので、ロンドンでしかできないことをやろうと考えた。いろいろあるのだが、ロンドンでしかできない最も簡易なことは、ロンドンを歩くことだろう。今日は天気晴朗だったので、Public Footpathを使ってEltham Palaceまで歩いてみた。

朝10時半に住処を出る。Woolwich Roadを東に進む。進行方向に向かって右手には家並が続き左手には大型の商業施設が並ぶ。Charltonの駅前を過ぎると、視界のなかの緑の割合が俄然多くなる。間もなく右手に公園のような緑地が広がる。これは地元Charlton F.C.というプロサッカーチームの本拠地となるスタジアム周辺の緑地である。緑地のまま公園Maryon Parkにつながる。ここでWoolwich Roadから公園のなかの歩道でもあるPublic Footpathに入る。

ここから南へ3つの公園が連なっている。これらを縦断するのである。Maryon Parkとそれに続くMaryon Wilson Parkは森のように木々が茂り、起伏が激しい。Maryonは南へ向かって登りになっており、Maryon Wilsonとの境を峠にして、谷へ下る。谷の部分には小動物を飼育している区画があり、ケージのなかを豚や羊や鶏がうろうろしている。ここからは再び登りになり、Charlton Parkとの境を走る道路のあたりが峠となる。Charlton Parkは運動公園で、サッカー場が2面、クリケット場が1面、ラグビー場が1面ある。サッカー場では草サッカーの最中で、きちんとユニホームを着た選手たちがのそのそと走り回っている。

Charlton Parkを出て、住宅街を抜けShooters Hill Roadという大通りに出る。この通りを東に進み、Well Hall Roadへ右折する。この通りは両側を広い歩道が走り、立派な街路樹が並ぶ。交通量は多めだが、気持ちよく歩くことができる。やがて大きなラウンドアバウトに出る。廃業して久しい感じの映画館の建物の脇を過ぎたあたりから、家並は住宅から商店に変わる。やがて鉄道のガードが見え、そこをくぐるとEltham駅前のバス乗り場である。

ここはなんとなく見覚えがある。去年の今頃、運転免許の更新に行くとき、バスでこのあたりを通った。日本の運転免許は頻繁に更新があるが、日本の免許の翻訳により1988年に取得したイギリスの運転免許は私の70歳の誕生日まで有効なのであった。当然、免許証に写真はない。そんなに長い期間にわたって有効なものに写真をつける意味がないからである。それが、制度が変わってしまい、イギリスでも免許証に写真が付くようになってしまった。必然的に有効期間が10年間に短縮され、私の免許も2017年10月までしか使えなくなってしまった。ちなみに、旧免許証から新免許証への更新は無料である。日本のように訳の分からぬ手数料が搾取されることはない。

Well Hall RoadはEltham High Streetという賑やかな通りとの交差点を過ぎるとCourt Roadに名前を変える。ほどなくEltham Palaceの案内板が視界に入る。看板の指示に従って脇道に入るとEltham Palaceの門の前に出た。時間は12時30分。家からちょうど2時間である。

門を抜けると橋になっている。濠があり、そこを渡ると教会のような大きな建物とそこから左側に続く低層の建物が目に入る。ここはもともとマナーハウスだったのを、国王になる前のエドワード2世が1305年に購入したのだそうだ。エドワード4世の時代、1470年代に先ほど「教会のように大きな建物」と形容した建物が建てられた。16世紀に一旦用済みになり、荒廃するにまかされていたのを1930年代に大富豪であるStephen Courtauld夫妻によって再建された。つまり、今、私の目の前にあるのは1470年代に建てられた建物と、それを活かしつつ1930年代に建てられた富豪の私邸なのである。しかし、せっかく建てたこの屋敷を1944年に手放してしまう。第二次世界大戦で、ロンドンの外れのこの場所にすら爆弾が落ちてきたのである。1940年9月、所謂Battle of Britainで、この広大な敷地にも100発を超える焼夷弾が落ち、うち4発が教会のような建物に命中したのだそうだ。修復も終わらぬ1941年4月にも爆撃を受けた。こうした被害もさることながら、戦時で召使いが不足し、屋敷の維持ができなくなってしまったことが、屋敷を手放す最も大きな理由だったという。1944年にこの屋敷は英国陸軍に譲渡され、以降1992年までArmy Educational Unitが使用することになる。1995年にEnglish Heritageの管理下に移され、1999年から一般に公開されて今日に至っている。

屋敷の内部は主にCourtauld邸時代の姿に再現されているが、展示されている調度品類は殆どがレプリカで、本物はVictoria and Albert Museumなどに移管されている。富豪というのは迎える客も多いらしく、まるでプチホテルのような作りである。客間と夫妻の寝室には全てバスルームが付いている。夫婦がそれぞれに寝室を持っているのだが、夫人の部屋は亭主の部屋の4倍ほどの広さになっている。こういう気遣いは家庭の平和にとっては重要なことなのだろう。建物の躯体は石や煉瓦だが、内装にはふんだんに木材が使われており、その所為か、たいへん落ちついた雰囲気がある。Palaceといいながらも、私邸仕様なので、どこか地に足の着いた生活感のようなものが感じられる。

Eltham Palaceを後にして、夏目漱石の下宿していた家を見に行く。さすがに、ここから先は電車を利用する。Elthamから鉄道でLondon Bridgeまで行き、そこで地下鉄Northern Lineに乗り換えてClapham Commonで下車。駅の名前になっているClapham Commonという公園のなかを歩き、その北の端から北西に伸びるThe Chaseという通りに入る。通りの両側に大きなテラスハウスが並ぶ閑静な住宅街である。この通りの北西の端の近く、Hannington RoadとのT字路のあたりにその建物はあった。ベージュの煉瓦でできた3階建てのテラスハウスで、壁に青い金属製プレートが打ち付けてあり、そこに白い文字で「NATSUME SOSEKI 1867-1916 Japanese Novelist lived here 1901-1902」と書かれているのでそれとわかる。この3階の部屋で1901年から1902年にかけての1年4ヶ月を過ごしたのだそうだ。今も住宅として使われている建物で、住人がいるので中に入ることはできない。日本人なら漱石の名を知らない人はいないだろう。文豪であり紙幣にもその肖像が描かれた人物である。その人が日本政府からの派遣留学生として暮らしたというロンドンの家はあまりに普通の家だった。

地下鉄でLondon Bridgeへ出て、エキナカのスーパーで明日朝に使うミルクを買って、郊外へ向かう鉄道に乗りWestcombe Parkで下車。住処に着いたのは午後4時半だった。