前回の英国滞在のときは、日本のバブルがはじけた。今回は世界恐慌だ。どうも英国にいるとろくなことがない。
1988年6月から1990年7月までマンチェスターで暮らしていた。当時の日本経済はバブルの真只中にあり、スーパーの棚にあるものからレストランのようなサービスに至るまで、価格の高いものほどよく売れるという狂躁状態にあった。株も不動産も値上がりし、日経平均は1989年12月29日に38,915円87銭という史上最高値を記録した。それでも、巷には「次は50,000円」という声も多かった。
ところが、バブルの波に乗れない圧倒的大多数の国民の不満も高まり、それが政治を動かしたのかどうかは定かでないが、1990年3月27日に「不動産融資総量規制」という通達が当時の大蔵省銀行局長名で金融機関に対して発せられた。それまでは、「土地ころがし」という言葉が象徴するように、不動産相場が右肩上がりで上昇を続けたので、土地の売買でいくらでも利ざやを稼ぐことができた。それが、土地購入資金の新規流入が抑制されることで、需給バランスが変化し、土地は必ずしも値上がりするものではなくなってしまった。不動産市況は1991年頃をピークに下落に転じ、それがほぼ常態と化してしまったことは記憶に新しいだろう。
そもそものバブルのきっかけは1985年のプラザ合意による外国為替レートの強引な調整に伴う円高不況対策としての低金利政策だ。不況なのだから流動性を厚めに供給するのは当然の政策なのだが、やり過ぎてしまったということなのだろう。過剰流動性が投機資金となり、バブルと呼ばれる投機熱・投資熱・消費熱を煽ってしまった、と今から振り返れば他人事のように語ることができる。
話は前後するが、要するに、90年に英国から帰国してみると、世の中は坂道を転げ落ちるように凋落を続けたのである。パソコンや携帯電話の普及とそれらのコンテンツの発達を背景にしたITバブルで、その長期不況に終止符が打たれるかと思いきや、それも呆気なくはじけてしまい、所謂「平成不況」の最終局面にだめ押しを与える結果となった。
2001年4月26日、小泉内閣が成立する。構造改革を旗印に特殊法人の民営化を推進する一方、金融機関の不良債権処理にも注力すると、景気もようやく拡大に転じた。勿論、政策の効果と景気循環とが相俟ってのことである。小泉内閣が戦後屈指の長期政権となったのは、景気回復を演出したことによるところが大きいだろう。
その小泉内閣発足とともに始まったかに見える景気拡大も、おそらく既に後退に転じているだろう。それは景気循環も勿論あるだろうし、米国のサブプライム問題に端を発するマネーゲームの終戦処理によるところもあるだろう。いずれにしても、その暗転の時期が、またもや私の英国滞在の時期と重なったのである。
日本のバブル崩壊の影響は日本国内に限定されたものだったと言ってよいだろう。しかし、今度の金融不安は、そんな生易しいものではない。欧米だけでなく、これまで高度経済成長を続けてきた中国やインドの様子もおかしい。世界経済を有機体に例えるなら、さしずめ多臓器不全だろう。根本的な解決策があるわけではなく、個々の現象に対処をし続けながら自然治癒を期待するしか対応方法がない。そうした混乱のなかで、自分の生活をいかに守るかということに腐心しなければならない。若い人なら、寄らば大樹の蔭という選択肢もあるだろうが、私ほどの年齢になると、大樹に擦り寄っても跳ね返されてしまう。いつまでも他人に頼っているわけにはいかないということだ。かといって、今まで擦り寄ることしかしてこなかったので、何をどうしたらよいのか途方に暮れてしまう。しかし、途方に暮れている余裕もない。そんな事情もあって、とりあえず帰るべきところに帰ることにした。私個人の問題解決はまだこれからなのである。
1988年6月から1990年7月までマンチェスターで暮らしていた。当時の日本経済はバブルの真只中にあり、スーパーの棚にあるものからレストランのようなサービスに至るまで、価格の高いものほどよく売れるという狂躁状態にあった。株も不動産も値上がりし、日経平均は1989年12月29日に38,915円87銭という史上最高値を記録した。それでも、巷には「次は50,000円」という声も多かった。
ところが、バブルの波に乗れない圧倒的大多数の国民の不満も高まり、それが政治を動かしたのかどうかは定かでないが、1990年3月27日に「不動産融資総量規制」という通達が当時の大蔵省銀行局長名で金融機関に対して発せられた。それまでは、「土地ころがし」という言葉が象徴するように、不動産相場が右肩上がりで上昇を続けたので、土地の売買でいくらでも利ざやを稼ぐことができた。それが、土地購入資金の新規流入が抑制されることで、需給バランスが変化し、土地は必ずしも値上がりするものではなくなってしまった。不動産市況は1991年頃をピークに下落に転じ、それがほぼ常態と化してしまったことは記憶に新しいだろう。
そもそものバブルのきっかけは1985年のプラザ合意による外国為替レートの強引な調整に伴う円高不況対策としての低金利政策だ。不況なのだから流動性を厚めに供給するのは当然の政策なのだが、やり過ぎてしまったということなのだろう。過剰流動性が投機資金となり、バブルと呼ばれる投機熱・投資熱・消費熱を煽ってしまった、と今から振り返れば他人事のように語ることができる。
話は前後するが、要するに、90年に英国から帰国してみると、世の中は坂道を転げ落ちるように凋落を続けたのである。パソコンや携帯電話の普及とそれらのコンテンツの発達を背景にしたITバブルで、その長期不況に終止符が打たれるかと思いきや、それも呆気なくはじけてしまい、所謂「平成不況」の最終局面にだめ押しを与える結果となった。
2001年4月26日、小泉内閣が成立する。構造改革を旗印に特殊法人の民営化を推進する一方、金融機関の不良債権処理にも注力すると、景気もようやく拡大に転じた。勿論、政策の効果と景気循環とが相俟ってのことである。小泉内閣が戦後屈指の長期政権となったのは、景気回復を演出したことによるところが大きいだろう。
その小泉内閣発足とともに始まったかに見える景気拡大も、おそらく既に後退に転じているだろう。それは景気循環も勿論あるだろうし、米国のサブプライム問題に端を発するマネーゲームの終戦処理によるところもあるだろう。いずれにしても、その暗転の時期が、またもや私の英国滞在の時期と重なったのである。
日本のバブル崩壊の影響は日本国内に限定されたものだったと言ってよいだろう。しかし、今度の金融不安は、そんな生易しいものではない。欧米だけでなく、これまで高度経済成長を続けてきた中国やインドの様子もおかしい。世界経済を有機体に例えるなら、さしずめ多臓器不全だろう。根本的な解決策があるわけではなく、個々の現象に対処をし続けながら自然治癒を期待するしか対応方法がない。そうした混乱のなかで、自分の生活をいかに守るかということに腐心しなければならない。若い人なら、寄らば大樹の蔭という選択肢もあるだろうが、私ほどの年齢になると、大樹に擦り寄っても跳ね返されてしまう。いつまでも他人に頼っているわけにはいかないということだ。かといって、今まで擦り寄ることしかしてこなかったので、何をどうしたらよいのか途方に暮れてしまう。しかし、途方に暮れている余裕もない。そんな事情もあって、とりあえず帰るべきところに帰ることにした。私個人の問題解決はまだこれからなのである。