五代目古今亭志ん生の「びんぼう自慢」を読んだ。落語をあまり知らない人でも、日本の文化に多少の興味や関心のある人なら、この人の名前くらいは耳にしたことがあるだろう。それほど高名な落語家である。現在、高座で活躍している人のなかには、この本を読んで落語家を志したという人もいるくらいの名著なのである。
残念ながら、私はこの落語家の噺を生で聴く機会には恵まれていない。私が生まれる前年、巨人の優勝祝賀パーティーの席で脳出血で倒れ、翌年、私が生まれる直前に新宿末広亭で復活を果たしたものの、私が小学校に上がる前年10月9日のイイノホールでの「精選落語会」を最後に高座に上がることは無かったからである。ついでながら、長男の10代金原亭馬生にも間に合わず、次男の3代目古今亭志ん朝は私の親と同世代なのでテレビで観た記憶がある程度だ。いずれにしても三人とも故人で、とうとうこの親子の生の噺に触れることができなかった。
それで本のことだが、著者としてクレジットされているのは古今亭志ん生だが、実際に書いたのは小島貞二である。聴き語りなので、話し手にしてみれば、聞き手が目の前にいるわけなので、話をおもしろおかしくしようという気持ちも出てくるだろうし、聞いて書くほうにしても、本にする以上は売れるように書こうという気持ちがあるだろうから、多少の誇張や脚色は当然にあるだろう。
それにしても、「飲む打つ買う」の「飲む」への執着というのは、飲まない私には全く想像できないことである。彼の場合「打つ」も「飲む」に通じているもので、「買う」はあまりなかったのだそうだ。そういう人が60歳を過ぎて人気が上がり、今こうして「名人」として名前の残る落語家になっている。結局は、酒に溺れているように見えていながら、落語という自分自身の生活の軸足を外さなかったことで、人生の最終コーナーを回ったあたりから、その軸足を守り抜いた効果が出てきたということなのだろう。どんなときでも稽古を怠ったことがないのだそうだ。それと、落語は話芸なので、よほど噺の中の人物になりきることができないと、特に古典のように予めおおかたの筋と下げがわかっている噺などは、多くの観客を惹きつけることができない。それには、噺のなかの登場人物を演じるというのではなく、演じることを超えて自分に憑依させるほどの人生経験がないと、なかなか説得力のある噺にはならないということだろう。「飲む打つ買う」というのは欲望の根源のようなものなので、そういう部分に関連した経験を積んだことが落語に活きているのは確かである。
落語家というのは職業の名称ではなくて、人の生き方なのだということを、この本を読んで感じた。同時に、貧乏などしたくてもできない、それどころか貧乏が嫌でこの世界を目指すような人が、今の落語界の多数派なのではないかと感じることもある。勿論、時代が違うので志ん生のような落語家はもう出てこないのだろう。今の時代には今の時代なりの「落語家」がいてもよさそうなものだと思うのだが、なんとなくどの人も「落語家という商売をやってます」みたいな感じを受けてしまい、「落語家という人生を生きています」という人は皆無とはいわないにしても希少であるように思う。それにしても、名著だと思う。
残念ながら、私はこの落語家の噺を生で聴く機会には恵まれていない。私が生まれる前年、巨人の優勝祝賀パーティーの席で脳出血で倒れ、翌年、私が生まれる直前に新宿末広亭で復活を果たしたものの、私が小学校に上がる前年10月9日のイイノホールでの「精選落語会」を最後に高座に上がることは無かったからである。ついでながら、長男の10代金原亭馬生にも間に合わず、次男の3代目古今亭志ん朝は私の親と同世代なのでテレビで観た記憶がある程度だ。いずれにしても三人とも故人で、とうとうこの親子の生の噺に触れることができなかった。
それで本のことだが、著者としてクレジットされているのは古今亭志ん生だが、実際に書いたのは小島貞二である。聴き語りなので、話し手にしてみれば、聞き手が目の前にいるわけなので、話をおもしろおかしくしようという気持ちも出てくるだろうし、聞いて書くほうにしても、本にする以上は売れるように書こうという気持ちがあるだろうから、多少の誇張や脚色は当然にあるだろう。
それにしても、「飲む打つ買う」の「飲む」への執着というのは、飲まない私には全く想像できないことである。彼の場合「打つ」も「飲む」に通じているもので、「買う」はあまりなかったのだそうだ。そういう人が60歳を過ぎて人気が上がり、今こうして「名人」として名前の残る落語家になっている。結局は、酒に溺れているように見えていながら、落語という自分自身の生活の軸足を外さなかったことで、人生の最終コーナーを回ったあたりから、その軸足を守り抜いた効果が出てきたということなのだろう。どんなときでも稽古を怠ったことがないのだそうだ。それと、落語は話芸なので、よほど噺の中の人物になりきることができないと、特に古典のように予めおおかたの筋と下げがわかっている噺などは、多くの観客を惹きつけることができない。それには、噺のなかの登場人物を演じるというのではなく、演じることを超えて自分に憑依させるほどの人生経験がないと、なかなか説得力のある噺にはならないということだろう。「飲む打つ買う」というのは欲望の根源のようなものなので、そういう部分に関連した経験を積んだことが落語に活きているのは確かである。
落語家というのは職業の名称ではなくて、人の生き方なのだということを、この本を読んで感じた。同時に、貧乏などしたくてもできない、それどころか貧乏が嫌でこの世界を目指すような人が、今の落語界の多数派なのではないかと感じることもある。勿論、時代が違うので志ん生のような落語家はもう出てこないのだろう。今の時代には今の時代なりの「落語家」がいてもよさそうなものだと思うのだが、なんとなくどの人も「落語家という商売をやってます」みたいな感じを受けてしまい、「落語家という人生を生きています」という人は皆無とはいわないにしても希少であるように思う。それにしても、名著だと思う。