土曜日に平塚から帰る電車の中で、「パレード」のことが話題になった。会話の焦点はいくつかあるのだが、「心地よい人間関係」というのがそのひとつである。得がたいような心地よい人間関係があったとして、その当事者のなかに殺人犯がいたとして、その犯行が世間にばれていないとしたときに、その犯行には眼をつぶって関係を維持するか否か。殺人の理由は単なる通り魔的なものなのだが、犯行の対象が自分にはならないという確信があるとすれば、犯行を知っていても知らないふりをするのか。犯行を知ってしまって、それまでの関係が維持できるのか。あくまで幾重にも仮定を置いた話なので戯言の域を出ることは無いのだが、自分の中での最大の疑問は、そもそも「心地よい人間関係」というものがありうるのかということだ。
関係というのは相手のある話なので、自分だけでどうこうなるものではない。恒常的に心地よかったり不快だったりするものではないだろうし、自己の領域というものは一定しているものでもないだろうから、相手が誰であれ瞬間的に快適だったり苦痛だったりということの繰り返しでしかないようにも思う。結局、相性というものは幻想でしかないのではなかろうか。例えば、家族というのは自然に在るものではなく、各成員がある程度の努力を継続することによって維持される共同体だろう。近頃は結婚しない人が増えているようだが、社会が物理的に豊かになるなかで必然的に自己が肥大した結果として、他者との折り合いがつきにくくなっているという事情があるのではないかと思う。あるいは、物質的な豊かさに比例して感性が鈍くなっていたり、同じことだが、物事を受け容れる間口が狭くなっていたりということもあるだろう。例えば「婚活」という発想自体が不幸なことのように思う。
関係というのは相手のある話なので、自分だけでどうこうなるものではない。恒常的に心地よかったり不快だったりするものではないだろうし、自己の領域というものは一定しているものでもないだろうから、相手が誰であれ瞬間的に快適だったり苦痛だったりということの繰り返しでしかないようにも思う。結局、相性というものは幻想でしかないのではなかろうか。例えば、家族というのは自然に在るものではなく、各成員がある程度の努力を継続することによって維持される共同体だろう。近頃は結婚しない人が増えているようだが、社会が物理的に豊かになるなかで必然的に自己が肥大した結果として、他者との折り合いがつきにくくなっているという事情があるのではないかと思う。あるいは、物質的な豊かさに比例して感性が鈍くなっていたり、同じことだが、物事を受け容れる間口が狭くなっていたりということもあるだろう。例えば「婚活」という発想自体が不幸なことのように思う。