熊本熊的日常

日常生活についての雑記

ルーシー・リー

2010年04月30日 | Weblog
国立新美術館で開催中の「ルーシー・リー展」を観てきた。今月頭に開催された東京アートフェスティバルで水戸忠交易がまとまった数の彼女の作品を出していた。その時初めて実物をしみじみと眺めてみた。佇まいが凛としていて美しいと思った。しかし、使える器ではないとも思った。おそらく使う目的で彼女の作品を買う人はいないのだろうが、あまりに華奢で、扱うのに神経をすり減らしてしまいそうだ。事実、「ルーシー・リー展」の展示品には縁が欠けているものがいくつかある。自分は鑑賞陶器には興味がない。生活の中で使われて、その使い手の気持ちをよくさせてナンボのもの、そういうものが物の価値というものだと思っている。それでも、本展は楽しく鑑賞することができた。

全体の構成は初期、形成期、円熟期の3部から成る。形成期と円熟期の間に映像コーナーがあり、BBCの番組「Omnibus」で彼女を取り上げた1982年2月14日放送のVTR約20分が繰り返し流されていた。その映像のなかで印象的だったのは、窯出しをするときの彼女の表情だった。20分間の映像の他のどの場面よりも心底楽しそうに輝いて見えた。彼女の言葉としてしばしば引用されるものに「窯を開ける時はいつも驚きの連続なのよ」というのがあるが、実際の映像を見ればその言葉の意味するところが了解されるような気になる。本展を観るとよくわかるのだが、作品に使われる釉薬は時代と共に変化するのに、造形は殆ど変化していない。極限まで引き伸ばしたような薄さ、独特の緊張感が漂う高台、そして全体の印象といったものは、まるでそうしたものへの信仰があるかのように晩年まで一貫している。それが仕事に対する姿勢の何事かを語っているようにも見え、そうした作品群を観た上で、この映像、特に窯出しのところをみると、仕事とか人生というものは斯くありたいと思わずにいられない。

彼女が生きた時代に、西洋で陶芸家として生計を立てるのは容易なことではなかっただろう。今でこそ陶芸は世界的に芸術としての認知を得ているが、数十年前までは日本以外の国や地域では、陶芸というのは芸術や美術というよりも手工業に近いものと見られ、その結果として陶芸作家も美術・芸術の世界では少し下に見られていた。彼女の年譜を見ると、ウィーン時代に何度か国際的な展覧会で金賞や銀賞を受賞しているにもかかわらず、英国に移住した時点では無名の存在だったそうだ。頼みにしていたバーナード・リーチからも評価されず、ようやく評価されるようになったのはハンス・コパーという仕事仲間を得た40歳代後半になってからだという。それでも、19歳で陶芸を習い始め、88歳のときに脳梗塞で倒れるまでの70年近い長きに亘って、情熱を持って取り組むことのできる仕事に恵まれていたというのは、人として幸せなことと言えると思う。人の一生など、どれほど長命であってもせいぜい100年程度のものだ。これを長いと見るか短いと見るかは勿論人それぞれだが、私には個人の人生など取るに足りないものだと思える。その儚い日々をつまらないことに齷齪して使ってしまうよりも、自分が納得できることに費やすほうがよほど精神衛生には良いだろう。

万葉集にこんな歌がある。

白珠は 人に知らえず 知らずともよし
我し知れらば 知らずともよし
(よみびとしらず)

高校時代の古文の教科書に出ていたものなので、多少違っているかもしれないが、だいたいの雰囲気はこのような感じだった。先生はこの歌を左遷されていじけて詠んだものだとおっしゃっていたように記憶しているのだが、それは違うだろう、と今は思う。

確かに「よみびとしらず」というのは本当に作者不詳であることもあるのだが、政治的に抹殺された立場の人もいるので、不本意な境遇にあった人である可能性は高いだろう。しかし、だからといって「いじける」というような心情であったとしてしまうのはいかがなものであろうか。

既に何度もこのブログのなかで引用している尾形乾山が遺した

うきことも うれしき折も すぎぬれば
ただあけくれの ゆめばかりなる

というのは、自分の人生を真面目に生きぬいた果てに行き着く結論なのだろう。

ねがわくは 花のしたにて 春死なむ
そのきさらぎの 望月の頃

という西行の心境にも通じるものがあるように思う。同じく西行の歌で

春ふかみ 枝もゆるがで 散る花は
風のとがには あらぬなるべし

というのも同じだろう。要するに、人は自然の一部でしかなく、その実体など無いと思うのである。その人生は夢のようなものであり、花のように儚いもので、花が散るのは散るべくして散るのであって、風の所為ではない。だからこそ、世間だの義理だのに煩わされることなく、自分の信じた世界を追い求めてみたいと思うのである。また、そういう自分を持ちたいと思うのである。

ルーシー・リーの作品をこれだけまとまって眺めてみると、そこに一貫した彼女自身の姿が見えるような気がする。もちろん、人間というものをかくかくしかじかのものなどと言語化して表現することはできないのだが、その器に込めた精神のようなものの雰囲気が伝わってくるように感じるのである。

6月下旬からは東京でハンス・コパー展が始まる。こちらも観ないわけにはいかないだろう。