熊本熊的日常

日常生活についての雑記

名人芸

2010年04月06日 | Weblog
「びんぼう自慢」を読んだら志ん生の落語が聴きたくなってしまった。落語は生に限ると思っているので、こういう時に故人のことに興味が湧くと不便な思いをする。仕方がないのでアマゾンで志ん生のCDボックスを注文して、それが昨日届いた。早速、何枚かを聴いてみたら、ますます生が聴きたくなってしまって困ったことになった。あの世に行けば聴けるかもしれないと思って、山手線にでも飛び込もうかと考えたが、終電に乗って帰ってきたのだから、今出かけて行ってももう電車は走っていない。走っているとしても、ナメクジみたいに走る保線作業用の工事車両くらいなものだ。

生に限る、というのは落語も音楽も演劇も一回性のものだと思うからだ。茶の一期一会という考えにも通じるものだ。落語の場合は話芸とはいいながら、話し手の身振りとか表情といった視覚的なものも芸のうちで、なによりも聴衆との関わりという言語化できない要素も噺の構成上不可欠なので、DVDやCDのような記録媒体に落すとそういう重要な要素が抜け落ちてしまうという。それでも、一時の慰みには十分で、例えば枝雀のDVDなどは暇さえあれば眺めているのだが、一向に飽きるということがない。

志ん生のCDは、当然に音声だけなのだが、それでも十分に凄い。聴いていてすぐに気付くのは、間が現在の噺家とは全然違うということだ。まるで複数の登場人物が舞台で演じているかのように聞こえるのである。おそらく、テレビが無い時代に生きた人は、寄席や独演会という生の場面が主たる仕事場であったため、芸は自分の息遣いを感じられる範囲内にいる人を相手にしたものになる。そこでは誤魔化しが利かないし、聴衆の評価が即時に伝わってくるのだから、演じ手の緊張感は今との比ではなかったのではなかろうか。テレビに先立ってラジオでの口演があるが、それにしても視覚的要素が伝わらないのだから、否が応にも話芸を巧みにしないことには商売にならなかっただろう。

勿論、落語は生で聴くに限る、という考えは変らないが、志ん生のCDを聴いて、音声だけでも堪能できる噺家もいるのだという認識を持つに至った。何事も決め付けてしまうというのは良いことではない。間口をゆったりと構えておくというのが楽しく生きる秘訣のひとつであるようだ。