いかに些細なことでも意識的に新しいことを試みるというのは、それなりに緊張するものである。昨年9月から轆轤を挽くようになったのだが、これまでは赤土ばかりだった。私が通っている陶芸教室では来月から赤土の種類を変更することになっており、どちらにしてもいままで扱ってきた土とは別の土を扱うようになる。ちょうどよい機会なので、今日は並信楽を挽いてみた。
信楽は赤土に比べると肌理は粗いが、挽いたときの感触が顕著に違うということもない。結局、いつもと然したる違いもなく器を挽いた。ただ、挽く前段階としての練りだが、これはまだどのくらいの柔らかさに仕上げたらよいものか、感覚をつかみかねている。今日は土練りを2回に分け、最初は単に練るだけにして、2回目は水を加えて柔らかめにした。挽くには柔らかいほうが挽きやすいが、顕著な違いがあるわけではない。水分量よりも練り具合のほうが挽きやすさにより大きな影響を与えるような気がする。あと、練り終えて土塊をまとめるときに空洞を作らないように気をつけることは重要だ。空洞ができてしまうと轆轤を挽くときに中心がぶれてしまう。中心がぶれてしまえば、当然に形はまとまらない。土を柔らかくすると、空洞ができにくくなるので、そういう意味で挽きやすいというのはあると思う。
挽くのは引き続き茶碗に挑戦するのだが、土のほうは信楽とか5月から新しいものになるという赤土を適当に使ってみたいと思う。
新しいことといえば、空豆を初めて鞘ごと茹でてみた。偶然、ネット上で眼にした白洲正子の「京の味 ロンドンの味」のなかに空豆は鞘ごと茹でたほうがおいしいようだと書いてあり、これも偶然、空豆の持ち合わせがあったので試してみたのである。確かに鞘ごと茹でたほうが味に厚みがあるようだ。ただ、個人的には茹でるという調理法はあまり好きではない。なんとなく湯の中に旨味が逃げ出してしまうように感じられるのである。それではどうするかというと、蒸すのである。例えば、アスパラガスはどのような調理法や料理よりも単純に蒸すだけというのが一番旨いと思う。空豆も茹でるよりも蒸すほうがより旨いと思うのである。
蒸すことの発見はロンドンでの生活にある。このブログの2007年9月30日付から2009年1月10日付までがロンドンでの日々のことだが、彼の地に着いて最初の1ヶ月は勤め先が用意してくれたウィークリーマンションのようなところに居たので生活用品は必要十分に揃っていたのだが、その期間が過ぎて自分の暮らしというものが始まると無いものだらけである。尤も、無ければ無いなりの暮らしがある。電子レンジはその最たる例だ。それ以前に日本で暮らしていたときには当然のように電子レンジで加熱や調理をしていたが、それが無い状況に置かれれば、在るもので代用しなければならない。それが借りていた住居に備え付けのオーブンだった。しかし、オーブンではどうにもならないものもある。たまたま住んでいた場所の近くにあるSeeWooという中華食材店で見つけた蒸し器だった。蒸し器といっても鍋ではない。鍋のなかに置いて使う折畳み式の台である。これが重宝で、蒸すという調理法がこれほど万能だということは知らなかった。知らなかったことが不思議なほど万能だ。茹でるのと違って旨味が逃げ出す心配がなく、焼くのと違って余計な油を摂取することもない。食材本来の潜在力を味わうにはこれほど優れた調理法は無いのではないかと思う。そして何より簡単なのである。
なぜ、陶芸で新しい土を使う話が食い物の話になってしまうのかわからないが、取りとめがなくなってきたので、今日はこのへんで筆を置く。
信楽は赤土に比べると肌理は粗いが、挽いたときの感触が顕著に違うということもない。結局、いつもと然したる違いもなく器を挽いた。ただ、挽く前段階としての練りだが、これはまだどのくらいの柔らかさに仕上げたらよいものか、感覚をつかみかねている。今日は土練りを2回に分け、最初は単に練るだけにして、2回目は水を加えて柔らかめにした。挽くには柔らかいほうが挽きやすいが、顕著な違いがあるわけではない。水分量よりも練り具合のほうが挽きやすさにより大きな影響を与えるような気がする。あと、練り終えて土塊をまとめるときに空洞を作らないように気をつけることは重要だ。空洞ができてしまうと轆轤を挽くときに中心がぶれてしまう。中心がぶれてしまえば、当然に形はまとまらない。土を柔らかくすると、空洞ができにくくなるので、そういう意味で挽きやすいというのはあると思う。
挽くのは引き続き茶碗に挑戦するのだが、土のほうは信楽とか5月から新しいものになるという赤土を適当に使ってみたいと思う。
新しいことといえば、空豆を初めて鞘ごと茹でてみた。偶然、ネット上で眼にした白洲正子の「京の味 ロンドンの味」のなかに空豆は鞘ごと茹でたほうがおいしいようだと書いてあり、これも偶然、空豆の持ち合わせがあったので試してみたのである。確かに鞘ごと茹でたほうが味に厚みがあるようだ。ただ、個人的には茹でるという調理法はあまり好きではない。なんとなく湯の中に旨味が逃げ出してしまうように感じられるのである。それではどうするかというと、蒸すのである。例えば、アスパラガスはどのような調理法や料理よりも単純に蒸すだけというのが一番旨いと思う。空豆も茹でるよりも蒸すほうがより旨いと思うのである。
蒸すことの発見はロンドンでの生活にある。このブログの2007年9月30日付から2009年1月10日付までがロンドンでの日々のことだが、彼の地に着いて最初の1ヶ月は勤め先が用意してくれたウィークリーマンションのようなところに居たので生活用品は必要十分に揃っていたのだが、その期間が過ぎて自分の暮らしというものが始まると無いものだらけである。尤も、無ければ無いなりの暮らしがある。電子レンジはその最たる例だ。それ以前に日本で暮らしていたときには当然のように電子レンジで加熱や調理をしていたが、それが無い状況に置かれれば、在るもので代用しなければならない。それが借りていた住居に備え付けのオーブンだった。しかし、オーブンではどうにもならないものもある。たまたま住んでいた場所の近くにあるSeeWooという中華食材店で見つけた蒸し器だった。蒸し器といっても鍋ではない。鍋のなかに置いて使う折畳み式の台である。これが重宝で、蒸すという調理法がこれほど万能だということは知らなかった。知らなかったことが不思議なほど万能だ。茹でるのと違って旨味が逃げ出す心配がなく、焼くのと違って余計な油を摂取することもない。食材本来の潜在力を味わうにはこれほど優れた調理法は無いのではないかと思う。そして何より簡単なのである。
なぜ、陶芸で新しい土を使う話が食い物の話になってしまうのかわからないが、取りとめがなくなってきたので、今日はこのへんで筆を置く。