埼玉県蕨市といえば私のホームグランドのようなものだ。生まれたのが市内の某産婦人科で、3歳までは隣の川口市、3歳からはやはり隣の戸田市に住み、今も実家は戸田市である。今も昔も貧しい家なので、子供の頃は暑い日に涼を求めたり寒い日に暖をとりにヨーカドーをよく利用した。階段の踊り場にあったベンチでぼーっとしていたものである。ヨーカドーは蕨(現 ザ・プライス蕨店)と西川口(同 西川口店)が守備範囲内で、たまに川口(同 川口店)や浦和(今でもイトーヨーカドー)まで遠征することもあった。今は蕨駅東口に須原屋があるが、当時は戸田にも蕨にも大型書店が無く、本を買うときは蕨駅西口から中山道に向かって伸びる商店街のなかにある志誠堂をよく利用した。決して大きな書店ではないのだが、当時の自分の行動圏ではここでも十分「大型」であった。この志誠堂の裏にNTTがあるのだが、志誠堂とNTTの間の道を駅を背に歩くと蕨市民会館につきあたる。今日はここで開かれた「林家たい平・柳家喬太郎二人会」を聴きに出かけてきた。
喬太郎を生で聴くのはこれが初めてだったが、演目「ハンバーグができるまで」のサゲが素晴らしいと思った。新作を聴くのも何年か前に志の輔をパルコ劇場で聴いて以来であるような気がする。噺のサゲは当然ながら一言だ。その一言で、そこに至るまでに聴衆の頭のなかに出来上がった世界を崩してみたりひっくり返してみたりするのである。この噺には世話焼きの近所の商店街の人々が登場し、その人たちと主人公とのやりとりが時間配分的には多くを占めるが、それはあくまで風景描写だ。主旋律とも言えるのは主人公と何の前触れも無く訪ねてきた彼の元妻とのやりとりである。かつては夫婦であった男女の間に漂うぎこちない雰囲気が上手く表現されている。離婚に至った事情については何の示唆的会話もないのにその事情が何とはなしに透けて見えるような微妙なやり取りも絶妙だ。しかし、あくまでも噺の中心にあるのは主人公の視点であり、作者である喬太郎の視点でもある。この点、私は男性なので素直に感情移入できるのだが、女性はどうなのだろうかとも思う。そしてサゲだが、元妻が作ったハンバーグと付け合せのブロッコリーと人参のグラッセを前にした場面である。元妻が突然訪ねてきたのは、再婚の報告をするためであったことがわかり、主人公は落胆し元妻を追い返してしまう。その後、食卓に残された大嫌いで食べようとしたこともない人参を鼻をつまみながら無理に口に入れる。そしてサゲの一言になる。その一言で、別れてから5年間やもめ暮らしを続けていた主人公の心情も、離婚に至った事情の片鱗も、元妻が再婚するに至ったことも、その再婚を報告しに主人公を不意に訪ねてきた気持ちも、主人公にまつわる諸々の事情や感情がいっぺんに了解されるのである。そして、おそらく主人公はそれまで引き摺っていた元妻への未練が断ち切られ、新たな人生を歩み始めるのであろうという予感をさせるのである。
食というのは生活の基本であり、文化の基本である。ということは、そこに人の人生や生活にまつわるあらゆる物語を乗せる可能性を持った道具立てでもある。食べ物の好き嫌い、その嫌いを克服する試み、そうしたことにいくらでも人生の物語を付けることができる。言われてみれば当然なのだが、こうしてそういう噺を聴いてみると、逆に食の大切さということ考えるきっかけにもなる、かもしれない。レンジでチン、は確かに便利だし、それだけで食べることのできる半調理品の味もなかなかのものである。しかし、食事というのは単に旨い不味いというだけのものではない。生活のなかでの食の位置付けが、価値観としてある程度共有できない相手とは生活を共にすることはできないとさえ思う。
食について語り始めると際限がなくなるので、これ以上は書かないが、この噺を聴いただけでも蕨までやって来た甲斐があった。
たい平の「長短」は、おそらく噺家本人にとってはある種の挑戦であったと思う。文章に起こしてしまえば単純な噺で、かつてはマクラにも使われていたような噺だ。それを5代目小さんが現在の姿に膨らませたそうだ。単純な噺だけに噺家の力量が素直に出る難しい噺でもある。私は今日の「長短」はよかったと思う。短気な短七と気の長い長さんとのやりとりの妙を聞かせる噺だが、長さんのほうがやや極端過ぎたかもしれない。それでも長さんの愛嬌は十分に伝わってきたし、短七のせっかち加減は小気味よかった。会場には私の左隣の席の人をはじめとして欠伸を連発している人や居眠りをしている人もちらほらと見られたが、古典の場合は10人の客がいたとして10人全員を納得させることは所詮無理だと思う。人によって感性が違うのだし、それまでに送ってきた人生も違うのだから、誰もが面白かったり悲しかったりするような噺というのは作りようが無い。
蕨は自分のホームグランド、と言いながら、蕨市民会館に足を踏み入れるのは初めてだった。私が子供の頃には既にあった古い建物だが、規模がちょうどよく、舞台と客席の距離感が心地よいホールだ。
今日の演目
昇々 「たらちね」
喬太郎 「ハンバーグができるまで」
(中入り)
たい平 「長短」
開演 13:30
閉演 15:30
喬太郎を生で聴くのはこれが初めてだったが、演目「ハンバーグができるまで」のサゲが素晴らしいと思った。新作を聴くのも何年か前に志の輔をパルコ劇場で聴いて以来であるような気がする。噺のサゲは当然ながら一言だ。その一言で、そこに至るまでに聴衆の頭のなかに出来上がった世界を崩してみたりひっくり返してみたりするのである。この噺には世話焼きの近所の商店街の人々が登場し、その人たちと主人公とのやりとりが時間配分的には多くを占めるが、それはあくまで風景描写だ。主旋律とも言えるのは主人公と何の前触れも無く訪ねてきた彼の元妻とのやりとりである。かつては夫婦であった男女の間に漂うぎこちない雰囲気が上手く表現されている。離婚に至った事情については何の示唆的会話もないのにその事情が何とはなしに透けて見えるような微妙なやり取りも絶妙だ。しかし、あくまでも噺の中心にあるのは主人公の視点であり、作者である喬太郎の視点でもある。この点、私は男性なので素直に感情移入できるのだが、女性はどうなのだろうかとも思う。そしてサゲだが、元妻が作ったハンバーグと付け合せのブロッコリーと人参のグラッセを前にした場面である。元妻が突然訪ねてきたのは、再婚の報告をするためであったことがわかり、主人公は落胆し元妻を追い返してしまう。その後、食卓に残された大嫌いで食べようとしたこともない人参を鼻をつまみながら無理に口に入れる。そしてサゲの一言になる。その一言で、別れてから5年間やもめ暮らしを続けていた主人公の心情も、離婚に至った事情の片鱗も、元妻が再婚するに至ったことも、その再婚を報告しに主人公を不意に訪ねてきた気持ちも、主人公にまつわる諸々の事情や感情がいっぺんに了解されるのである。そして、おそらく主人公はそれまで引き摺っていた元妻への未練が断ち切られ、新たな人生を歩み始めるのであろうという予感をさせるのである。
食というのは生活の基本であり、文化の基本である。ということは、そこに人の人生や生活にまつわるあらゆる物語を乗せる可能性を持った道具立てでもある。食べ物の好き嫌い、その嫌いを克服する試み、そうしたことにいくらでも人生の物語を付けることができる。言われてみれば当然なのだが、こうしてそういう噺を聴いてみると、逆に食の大切さということ考えるきっかけにもなる、かもしれない。レンジでチン、は確かに便利だし、それだけで食べることのできる半調理品の味もなかなかのものである。しかし、食事というのは単に旨い不味いというだけのものではない。生活のなかでの食の位置付けが、価値観としてある程度共有できない相手とは生活を共にすることはできないとさえ思う。
食について語り始めると際限がなくなるので、これ以上は書かないが、この噺を聴いただけでも蕨までやって来た甲斐があった。
たい平の「長短」は、おそらく噺家本人にとってはある種の挑戦であったと思う。文章に起こしてしまえば単純な噺で、かつてはマクラにも使われていたような噺だ。それを5代目小さんが現在の姿に膨らませたそうだ。単純な噺だけに噺家の力量が素直に出る難しい噺でもある。私は今日の「長短」はよかったと思う。短気な短七と気の長い長さんとのやりとりの妙を聞かせる噺だが、長さんのほうがやや極端過ぎたかもしれない。それでも長さんの愛嬌は十分に伝わってきたし、短七のせっかち加減は小気味よかった。会場には私の左隣の席の人をはじめとして欠伸を連発している人や居眠りをしている人もちらほらと見られたが、古典の場合は10人の客がいたとして10人全員を納得させることは所詮無理だと思う。人によって感性が違うのだし、それまでに送ってきた人生も違うのだから、誰もが面白かったり悲しかったりするような噺というのは作りようが無い。
蕨は自分のホームグランド、と言いながら、蕨市民会館に足を踏み入れるのは初めてだった。私が子供の頃には既にあった古い建物だが、規模がちょうどよく、舞台と客席の距離感が心地よいホールだ。
今日の演目
昇々 「たらちね」
喬太郎 「ハンバーグができるまで」
(中入り)
たい平 「長短」
開演 13:30
閉演 15:30