今日も「長谷川潾二郎展」を観てきた。今日は子供と一緒だ。週初に子供と今日会うことに決めていて、長谷川潾二郎展が面白ければ一緒に行こうと思い、昨日は下見で出かけてきたのである。それと今日はギャラリートークがあるので、それも聴いてみたかった。ただ、平塚市美術館は駅から少し歩くので、天気が悪ければ都内の別の候補地に出かけるつもりだった。幸い天気にも恵まれたのと、子供からの反対もなかったので、予定通り出かけてきた。
ギャラリートークは図録の監修者である土方明司氏。会場入り口から「猫と毛糸」から始まる。取り上げたのは画家の初期の作品をひとまとめにして、生い立ちに触れる。函館の生まれで、画家が生まれた頃の函館という町が、当時の日本のなかでどこよりも西洋化の進んだ地域であったことに触れながら、その影響についての示唆があった。この画家は生涯を通じて画のスタイルがあまり変化していないが、スタイルが確立した頃の作品例として「窓とかまきり」があり、そのモチーフが当時としてはハイカラな窓である理由が、そうした函館という町の様子と関連しているとのことだ。
「窓とかまきり」や「猫と毛糸」の後、長谷川はフランスへ留学する。フランス留学に関連して、当時の日本の画壇でのキャリア形成の典型というものの説明があり、長谷川がその典型からいかに外れているかということを彼の画をいくつか示しながら説明されていた。要するに、西洋絵画の世界に直接触れることで、画家はその影響を大きく受けるものなのだが、長谷川に関してはそれまでのスタイルが大きく変ることがないのである。長谷川は10代の頃こそ、その時代の絵画界の潮流に刺激を受けたと思しき変化が見られるものの、20代に入ると晩年に至るまで大きな変化がない。そのスタイルの確立期の代表作が「窓とかまきり」や「猫と毛糸」であり、集大成とも言えるのが「猫」であり、晩年の静物画であるということだ。
長谷川の作品に独特の不可思議さが感じられるのは、技巧面では消失点がないことに象徴され、思考面では画壇に出る以前に幻想小説家として活動していたことに象徴されるなにかがあるのではないかというような説明があった。確かに遠近法から離れることによる妙な感じというものはあるのだろうが、単にそういうことだけではなく、ひとつの作品のなかでいくつもの焦点が散らばっているような気もする。人間の眼は自分が意識している以上に広い範囲を捉えているが、「見ている」と認識しているのはそのなかの一点である。それが「自然な」視界なのである。写真の場合、焦点は一点に合わされているが、レンズに写っているもの或いは画像記録媒体に写っているものは等しく同じような精密さで記録されている。長谷川の画は意識の焦点のようなものが、観る側の意識の置き方と一線を画しているように思われるのである。そのずれが写実風でありながら現実離れをしているような感覚をもたらすような気がする。
ギャラリートークでは、長谷川作品を集めることの困難さや情報収集の難しさについても語られていた。様々な制約のなかで本展が開催されたわけだが、そうしたことにもかかわらず十分に楽しむことのできる展示内容だと思う。だからこそ、2日連続で足を運んだのであり、子供にも紹介したのである。
ギャラリートークのなかで紹介されていたのだが、この展覧会は5月30日放送予定のNHK「日曜美術館」で取り上げられるのだそうだ。私の巣鴨の住まいにはテレビが無いのだが、巣鴨から比較的近いところにお住まいの方で、「うちに観においで」という気持ちのある方がおられたら是非ご連絡を頂きたい。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/index.html
最後に、静物画について考えたことを記しておきたい。静物画はどれほど写実的なものであっても、画家によって印象が違う。それは筆の運びとか色の選択という明確に物理的な差異も多分にあるだろうが、見ている世界が違うのではないかと思うのである。我々は自分が知覚している世界と同じものをその場にいる他人も同じように知覚しているという前提で物事を考える。現実にそれで不都合はなく、個人間の知覚の差異にこだわっていてはかえって物事が混乱するだろう。しかし、目の前に薔薇の花があったとして、そこに何を見るかは人によって違うはずだ。例えばボタニカルアートの薔薇でも、それは本物のように見えるけれども一見して本物ではないとわかる。ましてや画家が静物画として描く薔薇は、その画家の薔薇であって薔薇一般ではない。長谷川潾二郎が描く薔薇は長谷川だけの薔薇であり、ゴッホが描く薔薇はゴッホだけのものである。認識の仕方に個人差があり、表現にも個人差があるのだから、同じになるはずがないのである。
これは静物に限ったことではないだろう。世の中のあらゆる事象が人によって違ったように認識され、理解され、表現されるのである。その差異の原因は生理的なものの個人差もあるだろうし、個人史の違いに基づく理解の違いもあるだろう。社会はそれを構成する人々の共通認識を前提に作られているが、その「共通」という前提が幻想なのである。世の中に争いごとが絶えない最大の理由が、ここにあるように思う。
薔薇を描いたいくつかの絵画があり、それを観る人は、これは好きだがあれは嫌いだ、などと単なる趣味や感性の問題で絵の違いを論じることが多いように思うのだが、同じものが同じに表現されていないという事実が、社会の調和というものが困難であることの何よりの証左であると言えるのではないだろうか。
ギャラリートークは図録の監修者である土方明司氏。会場入り口から「猫と毛糸」から始まる。取り上げたのは画家の初期の作品をひとまとめにして、生い立ちに触れる。函館の生まれで、画家が生まれた頃の函館という町が、当時の日本のなかでどこよりも西洋化の進んだ地域であったことに触れながら、その影響についての示唆があった。この画家は生涯を通じて画のスタイルがあまり変化していないが、スタイルが確立した頃の作品例として「窓とかまきり」があり、そのモチーフが当時としてはハイカラな窓である理由が、そうした函館という町の様子と関連しているとのことだ。
「窓とかまきり」や「猫と毛糸」の後、長谷川はフランスへ留学する。フランス留学に関連して、当時の日本の画壇でのキャリア形成の典型というものの説明があり、長谷川がその典型からいかに外れているかということを彼の画をいくつか示しながら説明されていた。要するに、西洋絵画の世界に直接触れることで、画家はその影響を大きく受けるものなのだが、長谷川に関してはそれまでのスタイルが大きく変ることがないのである。長谷川は10代の頃こそ、その時代の絵画界の潮流に刺激を受けたと思しき変化が見られるものの、20代に入ると晩年に至るまで大きな変化がない。そのスタイルの確立期の代表作が「窓とかまきり」や「猫と毛糸」であり、集大成とも言えるのが「猫」であり、晩年の静物画であるということだ。
長谷川の作品に独特の不可思議さが感じられるのは、技巧面では消失点がないことに象徴され、思考面では画壇に出る以前に幻想小説家として活動していたことに象徴されるなにかがあるのではないかというような説明があった。確かに遠近法から離れることによる妙な感じというものはあるのだろうが、単にそういうことだけではなく、ひとつの作品のなかでいくつもの焦点が散らばっているような気もする。人間の眼は自分が意識している以上に広い範囲を捉えているが、「見ている」と認識しているのはそのなかの一点である。それが「自然な」視界なのである。写真の場合、焦点は一点に合わされているが、レンズに写っているもの或いは画像記録媒体に写っているものは等しく同じような精密さで記録されている。長谷川の画は意識の焦点のようなものが、観る側の意識の置き方と一線を画しているように思われるのである。そのずれが写実風でありながら現実離れをしているような感覚をもたらすような気がする。
ギャラリートークでは、長谷川作品を集めることの困難さや情報収集の難しさについても語られていた。様々な制約のなかで本展が開催されたわけだが、そうしたことにもかかわらず十分に楽しむことのできる展示内容だと思う。だからこそ、2日連続で足を運んだのであり、子供にも紹介したのである。
ギャラリートークのなかで紹介されていたのだが、この展覧会は5月30日放送予定のNHK「日曜美術館」で取り上げられるのだそうだ。私の巣鴨の住まいにはテレビが無いのだが、巣鴨から比較的近いところにお住まいの方で、「うちに観においで」という気持ちのある方がおられたら是非ご連絡を頂きたい。
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/index.html
最後に、静物画について考えたことを記しておきたい。静物画はどれほど写実的なものであっても、画家によって印象が違う。それは筆の運びとか色の選択という明確に物理的な差異も多分にあるだろうが、見ている世界が違うのではないかと思うのである。我々は自分が知覚している世界と同じものをその場にいる他人も同じように知覚しているという前提で物事を考える。現実にそれで不都合はなく、個人間の知覚の差異にこだわっていてはかえって物事が混乱するだろう。しかし、目の前に薔薇の花があったとして、そこに何を見るかは人によって違うはずだ。例えばボタニカルアートの薔薇でも、それは本物のように見えるけれども一見して本物ではないとわかる。ましてや画家が静物画として描く薔薇は、その画家の薔薇であって薔薇一般ではない。長谷川潾二郎が描く薔薇は長谷川だけの薔薇であり、ゴッホが描く薔薇はゴッホだけのものである。認識の仕方に個人差があり、表現にも個人差があるのだから、同じになるはずがないのである。
これは静物に限ったことではないだろう。世の中のあらゆる事象が人によって違ったように認識され、理解され、表現されるのである。その差異の原因は生理的なものの個人差もあるだろうし、個人史の違いに基づく理解の違いもあるだろう。社会はそれを構成する人々の共通認識を前提に作られているが、その「共通」という前提が幻想なのである。世の中に争いごとが絶えない最大の理由が、ここにあるように思う。
薔薇を描いたいくつかの絵画があり、それを観る人は、これは好きだがあれは嫌いだ、などと単なる趣味や感性の問題で絵の違いを論じることが多いように思うのだが、同じものが同じに表現されていないという事実が、社会の調和というものが困難であることの何よりの証左であると言えるのではないだろうか。