不要になった書籍やCD・DVDのなかでアマゾンのサイトで売却できるものは、定価の半値程度で処分している。常時20品目程度を在庫にしているが、昨年中盤あたりから毎月少しずつではあるが何かしら売れるようになった。それでも売れ筋がはっきりしていて、ほぼ確実に売れるのはCD・DVDである。書籍のほうは、時々、千円単位とか万円単位のものが売れることもあるのだが、たいがいは百円単位のものがぱらぱらと売れていく。とはいえ、あまり知られていない小説などは何ヶ月も在庫のままで、出してすぐに売れるのは住宅関係の特集を組んだ雑誌である。昨日、Penという雑誌を何冊か売りに出したのだが、そのなかの「こんな家に暮らしたい」という特集のものが今日早速売れた。過去には同じ雑誌の「リノベーションで理想の家づくり」というのもすぐに売れたし、Titleという雑誌の「ニッポン縦断! 建もの探訪。」というのも少し時間はかかったが売れた。
住宅関係の特集を組んだライフスタイル系の雑誌が売れるということは、住宅そのものに対する需要が強いということではないだろうか。マクロデータでは不動産市況は厳しい状況にあるようだが、それは不動産事業者本位のお仕着せの不動産がそっぽを向かれているということであって、不動産そのものに需要が無いということではないのだろう。
物が売れない、不景気だ、消費マインドが冷えている、など他人事のように経済の現況が語られることが多いのだが、要するに世の中全体として当事者意識が欠如しているから、経済の牽引役が現れない、という側面もあるのではないだろうか。例えばユニクロの業績が好調なのは、単なる小売ということではなしに、自ら商品を開発して需要を掘り起こそうとする姿勢が一貫しているからだろう。単に安いというだけで、あれほどの業績になるはずはない。対して、百貨店が毎月のように前年同月比で売上が縮小を続けているのは当然のことだろう。ユニクロにはユニクロでなければ手に入らない商品がいくらでもあるが、百貨店にはそういうものはない。どこでも手に入るものを、少しばかり小奇麗にした売り場に並べて、過剰な包装で売るというだけのことに、どれほどの付加価値があるというのだろう。いまだに特定の百貨店の包装紙に価値を見出すシーラカンスのような人々が生き残っているのは確かだが、それはもはや雑音の域を出ないだろう。スーパーやコンビニも不振が続くのは、おそらく百貨店と似たような事情によるのだろう。要するに、独自性が乏しいのである。
他にも売れないものはたくさんある。ビールが売れないのは単純に値段の割りに旨くないというだけのことだろうし、自動車やバイクが売れないのは、単に必要性に乏しいからに過ぎないだろう。
高度成長期には、横並びで世間の眼を意識しながら、消費活動に勤しむことが美徳であった。平均的な所得水準が上昇し、家庭が飽食状態となり、持ち物だの見た目だのでの自己主張が困難になると、消費活動に対するインセンティブが働かなくなるのは自然なことだ。それでも人は「我こそは」と思いたいのである。人だけではない、交尾の季節に動物たちの見た目が派手になり、気性が荒くなるのは、生きるという行為の本質が「我こそは」という姿勢にあるからだ。横並びという価値が崩壊すれば、人とは違った姿を模索することで自己を主張したくなるものだ。悲しい哉、価値観というのはそう急に変えることはできない。それでも生きていかねばならないとすれば、とりあえず立ち止まって様子を見るということになるのだろう。そうしたなかで横並びとは対極の独自性という方向を目指す動きが現れるということなのではあるまいか。
銀座のユニクロの並びにユザワヤが店を出した。ユニクロで買ったシャツなどを持ってユザワヤに立ち寄り、刺繍の道具だの装飾具だのを買って、自分で飾り付けて着るのだそうだ。最近、キンカ堂が倒産してしまったが、その再起を期待する声が少なくないとも聞く。もともと庶民は服を自分で作って着ていたものだ。金をかけず知恵を働かせて生きることの心地よさが見直されるようになってきた、と思うのは早急に過ぎるだろうか。
住宅関係の特集を組んだライフスタイル系の雑誌が売れるということは、住宅そのものに対する需要が強いということではないだろうか。マクロデータでは不動産市況は厳しい状況にあるようだが、それは不動産事業者本位のお仕着せの不動産がそっぽを向かれているということであって、不動産そのものに需要が無いということではないのだろう。
物が売れない、不景気だ、消費マインドが冷えている、など他人事のように経済の現況が語られることが多いのだが、要するに世の中全体として当事者意識が欠如しているから、経済の牽引役が現れない、という側面もあるのではないだろうか。例えばユニクロの業績が好調なのは、単なる小売ということではなしに、自ら商品を開発して需要を掘り起こそうとする姿勢が一貫しているからだろう。単に安いというだけで、あれほどの業績になるはずはない。対して、百貨店が毎月のように前年同月比で売上が縮小を続けているのは当然のことだろう。ユニクロにはユニクロでなければ手に入らない商品がいくらでもあるが、百貨店にはそういうものはない。どこでも手に入るものを、少しばかり小奇麗にした売り場に並べて、過剰な包装で売るというだけのことに、どれほどの付加価値があるというのだろう。いまだに特定の百貨店の包装紙に価値を見出すシーラカンスのような人々が生き残っているのは確かだが、それはもはや雑音の域を出ないだろう。スーパーやコンビニも不振が続くのは、おそらく百貨店と似たような事情によるのだろう。要するに、独自性が乏しいのである。
他にも売れないものはたくさんある。ビールが売れないのは単純に値段の割りに旨くないというだけのことだろうし、自動車やバイクが売れないのは、単に必要性に乏しいからに過ぎないだろう。
高度成長期には、横並びで世間の眼を意識しながら、消費活動に勤しむことが美徳であった。平均的な所得水準が上昇し、家庭が飽食状態となり、持ち物だの見た目だのでの自己主張が困難になると、消費活動に対するインセンティブが働かなくなるのは自然なことだ。それでも人は「我こそは」と思いたいのである。人だけではない、交尾の季節に動物たちの見た目が派手になり、気性が荒くなるのは、生きるという行為の本質が「我こそは」という姿勢にあるからだ。横並びという価値が崩壊すれば、人とは違った姿を模索することで自己を主張したくなるものだ。悲しい哉、価値観というのはそう急に変えることはできない。それでも生きていかねばならないとすれば、とりあえず立ち止まって様子を見るということになるのだろう。そうしたなかで横並びとは対極の独自性という方向を目指す動きが現れるということなのではあるまいか。
銀座のユニクロの並びにユザワヤが店を出した。ユニクロで買ったシャツなどを持ってユザワヤに立ち寄り、刺繍の道具だの装飾具だのを買って、自分で飾り付けて着るのだそうだ。最近、キンカ堂が倒産してしまったが、その再起を期待する声が少なくないとも聞く。もともと庶民は服を自分で作って着ていたものだ。金をかけず知恵を働かせて生きることの心地よさが見直されるようになってきた、と思うのは早急に過ぎるだろうか。