熊本熊的日常

日常生活についての雑記

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2010年04月29日 | Weblog
街を歩けば携帯電話や情報端末を操作している人の姿が目立つ。街角や電車のなかでノートPCを開いている人もいる。情報通信機器やインフラの発達でいつでもどこでもネットにつながるようになった。便利なことである。こうした便利なものを駆使すれば世の中の生産性が向上して、新たな事業機会も生まれて、経済が益々活発になって結構なことである、と思うのだが現実はそういうものではないらしい。このところ2009年度の企業決算が相次いで発表され、増収増益という景気の良い話が踊っているのだが、それは単に前年度の数字が悪過ぎたというだけのことらしく、景気が良いという実感を持っている人がどれほどいるものなのか疑問である。少なくとも、日本の経済成長と共に成長し、バブルの崩壊の頃に青年期から中年期へと移り、その後の長期不況と共に加齢を重ねて老年期に入ろうとしている私のような者にとっては、今のこの状況に喜びと夢を感じることは難しい。

情報通信技術が発達して、いつでもどこでも仕事ができ、ひとりひとりの社員の生産性が向上すれば企業は需要動向をより的確に把握して、それに応じて的確に経営判断を下し、企業収益は向上を続けて、そこで働く社員の経済生活も豊かになる。この文章はどこか間違えているだろうか。なぜ、街のあちこちで携帯電話や情報端末を駆使している人がいるのに、世の中はなんとなくどんよりしているのだろう。そんなことを考えるのは私だけで、世間はもっと高揚しているのだろうか。

その昔、科学技術の発達は世界の歴史を変えた。「産業革命」と呼ばれる現象もあった。今も「情報革命」だのと言う人もあるかもしれないが、数値とか文字という媒体で表現される情報が増えたというだけのことで、それを使ってどうこうというほどのことはないのではなかろうか。「情報」とは活用されなければ単なる知識のゴミではないのか。少なくとも私の生活はその「革命」の恩恵も被害も無い。携帯電話は持っているが殆ど使わないし、テレビやラジオといった類のものは無い。家にある電気製品は白物と冷暖房とパソコンだけ。それで何の不自由ない。

科学技術が人の生活を顕著に変化させるのは、何時如何なる時でもというわけではなく、その時々の状況によって変化があるときもあれば無いときもあるということなのだろう。人は生活のなかに普遍的な法則を見出そうとする性向があるようだ。法則性とは予測可能性ということでもある。予見できることを増やすことで安心しようという魂胆だろう。しかし、現実には不確定要因が多すぎて幾重にも仮定を想定しないと成り立たない法則が多いのではないだろか。人類の歴史のなかで比較的容易に発見できるものは発見され尽され、発明できるものは発明され尽くしてしまったということではないのか。勿論、そんなことはなく、世界はわけのわからないことを無尽蔵に抱えていて、今こうしている間にも至る所で世の中の既成概念をひっくり返すような発明や発見の芽が生まれ、なかには育っているものもあるのだろう。

ところで、街のケータイだが、ああいうものを持ち歩き、弄り回していると、自分が世の中とつながっているという幻想を抱いて安心するという人もいるのかもしれない。つながっているから何なんだ、などと尋ねてはいけないことになっているのだろう。近頃は「スマートフォン」などといって、情報端末機能を強化した携帯電話もあるらしい。「スマート」が「smart」ということなら、「賢い」というような意味のはずだが、そうした賢い端末を所有することと所有者の知能との関係性を証明することは不可能だろうし、そういう端末と使うと賢くなる、というようなことも期待できまい。あんなものを使って何をするのだろうと素朴に疑問に思うのは私だけなのだろうか。

ふと、昔のウォークマンのCMを思い出した。