熊本熊的日常

日常生活についての雑記

未知との遭遇

2010年04月28日 | Weblog
昨日から雨が降り続いている。木工で先週加工してクランプでとめておいた材料をクランプから外して組み立てていた。同じサイズで揃えたはずなのに、作業が進むにつれて組みにくくなる。雨で湿度が高くなっているので、クランプから外した直後から材料が微妙に膨張を始めているのである。

以前にも書いたように、今、赤松の集成材でレターケースを作っている。今日は引き出しの加工と組み立てだ。引き出しの側板と先板を組んで事前に板に彫っておいた溝に底板をはめ込み、そこに前板を組むのである。側板と先板を組むところには、側板に幅5mm、深さ5mmの溝を切っておいて、先板の両端はこれに合うようにシャクリを入れておいた。最初に仮組をしたときには何事も無かったのだが、ひとつひとつの引き出しを組み立て始めると3つ目あたりから側板と先板との嵌め込みに難渋するようになってきた。膨張するといっても果てしなく膨らみ続けるわけではないので、全部で5つある引き出しの最後の2つが同じ程度に組みにくくなっていた。

集成材は一枚板に比べれば収縮膨張しにくい。それでも、わずかの時間で環境に合わせて動くのである。その動きは木の種類によっても違うし、同じ木でも組織の疎密によって一様ではない。大袈裟な言い方をすれば、同じものというのは2つと無いのである。

陶芸でも同じ土というものはないし、釉薬も使っているうちに微妙に変るものだし、窯の中の温度にしても毎回同じというわけにはいかない。木工や陶芸に限らず物事全て一回性のものの組み合わせなのである。だから、同じことを繰り返しているつもりでも全く同じことというものは無く、そこに不測の事態が生じて、それを無常だの不確実性だのと呼ぶのである。

だからといって、何が起こるかわからないということに焦点を当てて物事を捉えてしまうと、真っ暗闇の中を歩くようなもので、不安でどうしようもない。そこで方便として、科学や宗教というものが発達したのだと、私は思っている。昔「未知との遭遇」という映画があった。地球外に知能を持った生命体が存在するとして、果たして我々はどのようにして彼等と意思疎通を図ることができるものなのか素朴に疑問だが、自分の意にならぬものとの付き合いということだけを取り出せば、我々の生活は毎日が未知との遭遇である。

しかし、おそらく我々自身の自己防衛本能によって、我々は自分の生活が未知のものに溢れているとは考えない。あってもなくてもどうでもよいような理屈だの理論だのを振りかざして、合理性だの理性だのと得々と語って、たいしたつもりになっている。人は見たいものしか見えないという。自分に不都合なものは殆ど無意識のうちに無視をするようにできている。困ったことに、誰にとっても都合のよいものというものもなく、誰にとっても不都合というものもない。都合不都合といったところで、どうでもいいような理屈に裏付けられた浅薄なものでしかない。浅薄だから用意に他者の浅薄と対立する。そこで揉め事や厄介事が起こるのである。そうした厄介を丸く治めるのが政治というものだ。政治がどことなく猿芝居じみて見えるのは、我々の生活が畜生のそれとたいして変らないからだろう。少なくとも、遠い宇宙の彼方からやって来るような高度な知性を持った宇宙人には、そう見えると思う。