熊本熊的日常

日常生活についての雑記

想像もつかない

2010年04月05日 | Weblog
国立近代美術館工芸館のイベントで映画の上映会と作品鑑賞会に参加してきた。映画はポーラ伝統文化振興財団が企画制作した「十三代今右衛門 薄墨の美」という作品だ。今泉今右衛門家は有田の色絵磁器を製作しており、十三代は重要無形文化財に指定されている。映画は十三代による色絵磁器の製作過程を記録したものだ。

伝統工芸の世界では、先祖代々同じ家業を受け継いでいるという人々が少なくない。生まれたときから仕事が決まっているというのは、私のように何もない家に生まれた身からすれば羨ましいことのように感じられるのだが、当人にしてみれば様々な重圧があってたいへんなことなのだろうとは思う。しかし、その重圧にしても私のような凡人には想像もつかないことである。

伝統というのは、同じことを繰り返すのではない。基本を守りつつも、その時々の時代の変化のなかで、常になにかしら創造を続けていかなければ、単なる陳腐に成り下がってしまう。創造という行為ほど困難なことはない。ましてや、人は習慣に支配されやすい。自分自身の習慣を打破していくのは勿論必要なのだが、自分が背負った伝統に対する世間の習慣というものを変える挑戦も続けなければ、伝統を守ることにはならない。世間というのは無責任なので、伝統など理解もしないのに、情緒的に伝統の上っ面を守りたがる。伝統は社会や時代との位置関係であり、社会や時代が変化すれば当然に伝統の表現も変化しなければ忘れ去られてしまうということが、傍観者には理解できない。

今回のイベントは事前申し込み制なので、工芸に関してある程度は興味や関心のある人たちが参加しているはずである。イベントのなかで陶磁器作品を実際に手にとって鑑賞するという機会があるのだが、その光景を眺めていると、陶磁器の取り扱いをきちんとできる人は皆無に近く、美術館のスタッフがハラハラしているような様子である。世間というのはそういうものなのである。わかったようなことを言いながら、実はなにもわかっていないというのが過半を占め、そうした有象無象の作り出す雰囲気で動くのが世間というものだ。

だから世間は恐ろしいのである。今から振り返れば奇妙なほどに無謀なことにしか思えない太平洋戦争も、決して軍部が独走した結果ではあるまい。戦後、日米安保条約を巡って国中が騒然となった時期もあったが、騒いでいた人々のどれほどが政治や外交を理解していたのか疑問である。バブル経済にしても単なる狂騒だろう。騒動になって生活が脅かされれば、騒動の責任者をつくりあげて他人事のように非難する。その騒動を突き動かす潮流の一部となって自分も関わっていたことなど無かったことにして、都合の悪いことは他人に押し付けあう。それが世間というものだ。

そういうなかで連綿と続く伝統を守るというのは、どのような世界であれ、並大抵のことではないだろう。重要無形文化財とされる人々の技巧による作品は、本来なら金銭に換算できるようなものではない。それでも市場経済という世の中では敢えて金銭による価値が付けられざるを得ない。皿ひとつ、壷ひとつ、ものによっては億単位にもなるが、伝統の重みというものは、それでも不足な程なのかもしれない。