熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「り」のはなし

2010年04月11日 | Weblog
子供とのメールのやりとりのなかで、「ハート・ロッカー」をネタにした話から始まって、国連の役割とか、利害とか、民主政治ということについての話題になった。そうした流れの中で、先週末に私が以下のようなことを書き送った。

***以下引用***
国連に関する君の意見はしっかりとしていて頼もしいと思いました。確かに存在する以上は何がしかの意味はあるはずです。国益の調整の場、国際紛争の議論の場、というような、国家間の問題を国際社会の公開の場に晒して公平な議論を試みるという役割は確かにあるでしょう。ただ、私は世論というものを信用していません。しかし、テロの脅威に晒されているとは言いながらも、現実として世界の主要国が平和を享受しているのは、平和であることが各国の利害と一致しているからに他ならないと思います。人も国も「理」ではなく、「利」で動くものです。諸々の要件を考慮したときに、結果として平和であることが各国の国益にかなっているということなのです。さらにより現実的な問題として、…
(中略)
ところで、民意であるとか世論といったものに対して、どの程度の信頼を置くかは人それぞれだと思いますが、私はそうしたものを全く信用していません。日本でも欧米でも民主主義というものが文明の象徴であるかのような見方があり、イラクやアフガニスタンも民主政治を導入することで欧米の占領が完了するという段取りになっています。しかし、そもそも民主政治などというものがありえるのでしょうか。具体的な例として選挙制度を挙げることができます。日本では、地方議会議員、地方自治体の首長、国会議員は選挙によって選ばれます。また、最高裁の判事は国民審査を受けることになっています。選挙になれば、各候補者や政党が好き勝手なことを言って、自陣営への投票を促します。ところで、選挙民はどれほど各候補者や政党のことを理解しているでしょうか。あるいは、どれほど政治というものを理解しているでしょうか。おそらく圧倒的大多数の人は何も知らないと思います。最高裁の判事に至っては、ほとんどの国民がその存在を意識したことがないのではないでしょうか。にもかかわらず、選挙民は無知のまま、あるいは勝手な思い込みを抱いたまま、投票し、それによって政治家が選ばれ、最高裁の判事が審査を受けるのです。とりあえず、今のところは、不景気だのなんだの言われながらも淡々と国民生活は送られていますから、無知な選挙民によって選ばれた政治家の政治で間に合っているわけですが、これはとても恐ろしいことだと思います。
***以上引用***

これに対する子供の返信が以下のようなものであった。

***以下引用***
一昨日入学式がありました。同じグループの子とは離れてしまったのですが、割と仲の良い子や友達の友達が何人かいたので良かったです。

人も国も「利」で動くと言うのは私も普段から考えている事です。やはり自分に何らかの見返りが無いと動く気にはなれません。「利」というのはかなり広い意味を持つと思います。最も多く使われる意味合いは「利潤」だと思いますが、それだけではないでしょう。とても身近な例ですが、人と一緒に居るのにも目的の達成や共に居て楽しい等の利益が無ければ関わりを持とうとは思いません。むしろ、反りが合わない人と居るのは疲れますし、不愉快になる事も多いので必要最低限の関わりしか持ちたく有りません。世の中には人のために自分が犠牲になっても良いという考えの人も居るようですが私はそういう人も自分の利益のために動いているに過ぎないと思います。人のためなんて言っていても実際にそれが相手のためになっているかは相手や時間が出した結果しか分からないものですし、人のために多少は自分に損が回っても構わないという事は、人の役に立ったり、人からお礼を言われるのが嬉しいという利益を感じるからこその考え方だと思います。人の役に立つ事にそこまで喜びを覚えない私のような人は、損をしてまで人のために動こうとは思いません。その場では損になっても自分の評価が上がる見込みがあれば動きますが、それこそ自分の「利」のためだと言えるでしょう。利害の一致とまでいかなくても自分のために起こした行動が人のためになる事があるから世の中がまわるのだと思います。しかし、当然誰かの利益が誰かの損につながる事も多々有ります。「他人の不幸は蜜の味」という言葉がありますが、この言葉は誰かが不幸になった分の幸が自分にまわってくる事があるから蜜の味という解釈も出来ない事は無いと思います。

話がまとまらなくなって来たので「利」の話はここまでにしようと思います。

選挙の話ですが私もほとんどの人はマニュフェストの内容を正確に理解していなかったり、目を通していないと思います。ニュースでたびたび取り上げられる民主党の公約ですが、「子供手当」等の話しを聞く度予算の無駄を省くというのと矛盾している気がします。選挙民がもっと公約に目を通していればいくら自民党で不祥事が続いたからといえ民主党にこんなに票が集まる事も無かったのではと思います。
***以上引用***

別に教えたわけでもないのに、自分の経験に照らしながら物事を理解しようとする姿勢がある。書いてある内容はともかく、物事に向かう姿勢としては至極真っ当だと思う。ごく平均的な高校一年生だと思うのだが、それでもこの程度の意見は持っている。日本はそういう社会なのである。しかし、残念ながらこの社会は崩壊しつつある。この子たちが社会に出る頃、世の中がどのようになっているのかはわからないが、起死回生の大転換でも起こらない限り、年金制度も医療保険制度も破綻に瀕しているのだろうし、地方自治体のいくつかは財政再建団体に指定されたまま再建不能に陥るところが続出しているだろう。それは当然に地方自治体にとどまることではないだろう。

ところで、子供からのメールに対しては以下のような返信を送った。

***以下引用***
高校入学おめでとう。3年間はあっという間に過ぎてしまうので、その時々で自分が何をどうしたいのか考えながら生活をするとよいと思います。自分が高校生の時は大学受験のために3年間を費やしてしまったように思います。今から思えばもったいない時間の使い方だったと多少の後悔があります。受験勉強は、受験に必要な知識と思考力を身につけるという点では意味があるのかもしれませんが、試験のための勉強というのは受験に限らず総じて不毛なものだと思います。勿論、ある程度の水準の大学に進学することは、その後の生活を積み重ねる上で必要なことではありますから、受験勉強も無駄というわけではありません。ただ、学校の勉強と、若い感性がある時期にしかできない経験と、バランスよく時間を配分することも考えたほうがよかったと思っています。

「利」は確かに単なる目先の損得の話ではありません。経済的な利益だけが「利」ではなく、その人なりの価値観によって決まることです。世間では物事を全て金額に換算してしまう傾向が強いのですが、経済的価値は物事の一側面でしかありません。

「他人の不幸は…」ということを書いていましたが、幸福とか不幸というのは自分の中で感じるものであって、自分の外部に存在するものではありません。あたかも自分の外部に確たる姿として「幸福」というものを想定している人は、決してその「幸福」を手にすることができません。なぜなら、人の欲望は無限です。あることを実現すれば、決してそれに満足することなくその先にあるものを求めるものです。私が考える「幸福」とは自分が今ある状況を全て受け容れてしまう能力です。人は存在すること自体が奇跡的な確率によって実現しています。その奇跡を通じて今の自分が在るということを認識できれば、目先の都合も不都合も、たいしたことではないと感じられるものです。世間体だの点数だのと、他人が勝手に作り上げた価値観に支配されていたのでは、いつまでたっても他人に振り回されるだけです。自分の価値観を構築して、自分の土俵で物事を判断できるようにならない限り、人は自由にはなれませんし、幸福を感じることはできないと思います。自分の価値観を作り上げるには、たくさんのことを経験して学ばなければなりません。勉強というのは、そのためにするものだと思います。

さて、先週読了した本は小林秀雄の評論集「モオツァルト・無常という事」(新潮文庫)と阿刀田高のエッセイ「イソップを知っていますか」(新潮社)です。

小林秀雄の評論は高校生の現代国語の教科書には必ずといってよいほど…
(以下省略)
***以上引用***