熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「Hotel Diaries」

2008年10月18日 | Weblog
これは動画作品だが映画とは違う。写真の延長のようなものと言ってしまうのも少し違和感がある。John Smithの作品で、彼が実際に宿泊したホテルの室内を写した一連のビデオクリップ集である。構成は以下の通り。

Frozen War (Ireland, 8 Oct 2001)
Museum Piece (Berlin, Germany, 2004)
Throwing Stones (Switzerland, 2004)
B & B (Bristol, England, 2005)
Pyramids/Skunk (Rotterdam, Netherlands, 2006/7)
Dirty Picture (Palestine, 2007)
Six Years Later (Ireland, 2007)

今日はこのなかから3番目のThrowing Stonesと最後の2作品を除く5作品が上映された(PyramidsとSkunkは別扱い)。

それぞれ10分程度の作品で、特に何か劇的なことが起るわけではない。真夜中に自分の宿泊している部屋の様子を淡々とハンディビデオでナレーションをつけながら撮影しているだけだ。映像そのものはおもしろくない。しかし、観終わって「ん?」と思うのである。

ホテルというのは西洋の価値観による「快適さ」を顧客に提供する宿泊施設である。そのホテルが世界のどこにあろうとも、部屋の内部というのはほぼ同じようなつくりになっている。テレビのスイッチを入れればCNNが映る。ルームサービスの食事のメニューも場所に関係なくほぼ同じようなものである。

ホテルの存在そのものも、感覚的にはその立地している場の文化とは隔絶された特殊なもののように見える。9月20日にパキスタンのイスラマバードでマリオットが自爆テロに遭ったが、テロリストが狙ったのは、米系チェーンで西洋人が多く利用するという理由に拠るのだろう。彼等にとってマリオットは米国そのものという認識だったということだ。2004年製作(日本での公開は2006年)の映画「ホテル・ルワンダ」では舞台となっている欧州系ホテルに治外法権があるかのような存在感を与えている。

こうしてみると、ホテルというのは特殊な空間である。だからどうということもないのだが、日常風景のなかに、そういう特殊な空間というものがあるのだと、ふと不思議な気分になった。

いってこい

2008年10月17日 | Weblog
今日、近所のガソリンスタンドのガソリンの値段が1年前と同じ水準まで下がった。今週だけでリッターあたり5ペンス下がったことになる。競争原理が機能しているので、値段が上がる時は、近隣の同業者の動きを睨みながら少しずつ上げるが、下がる時は一気にシェア上昇を狙うためか大胆なマークダウンを実施する傾向があるように感じた。特に、金融不安が表面化したここ2週間ほどの間の動きが大きかった。結局、ガソリンの値段は今年の7月頃がピークだったということになるのだろう。

ガソリンに限らず、小売業の値下げの動きが目立つようになった。先日、割引券が送られてきた話をここに書いたが(10月14日「クーポン万歳」)行きつけのスーパーのハウスブランド品は軒並み値下がりしている。あのカレーペーストは9ペンスになっていた。

もちろん、すべての物価が下がっているわけではないが、金融不安に端を発する景気の調整は、人の健康に例えるなら血流障害あるいは心臓疾患と言える。血流が滞った状態が長期化すれば、やがてその部位は壊死する。壊死した組織は即ち不良債権である。壊死した部分が拡大すれば、やがて生命は危機に瀕する。原油価格の下落や小売価格の調整は、滞った血流を正常化するための自然の反応といえよう。もうすぐクリスマス、そして年末年始という一年間のうちで最も消費が活発になる時期を迎える。産業によってはこの時期の需要が年間の収益の大きな割合を占めるところも少なくないだろう。それが不発に終わったときの影響の連鎖は計り知れないものがある。

日本ではここへきて証券会社の個人客の動きが活発化しているそうだ。伝統的なバリュエーションで見れば現状の株価は割安だという判断が働いているのだろう。確かに、これだけ株価が下がれば株価収益率や株価資産倍率といった指標は平時には考えられないような値を示していることだろう。しかし、その「割安」な指標のもとになっている業績予想はどれほど現状の危機を織り込んだものだろうか。この1ヶ月ほどの間に経済情勢は大きく変化している。その変化以前の状態を前提に作られた業績予想と、それに基づくバリュエーションにどれほどの意味があるのだろうか。

一連の世界規模での金利引き下げや潜在的破綻金融機関に対する公的資金の投入で、一旦は小康を得たかのように見えるだろう。しかし、これまで値上がりを続けて、売買益を生み出していた商品相場や不動産相場が下落に転じている。それは世の中の資産価値が低下しているということであり、その資産を運用することで収益を得る事業形態の産業は、機能不全に陥る、あるいは既に陥っている。

日本はサブプライム問題の影響から最も遠いところにあると言われている。それでも9月だけで上場企業が7社倒産し、10月は約半分を過ぎたところで上場企業5社が倒産、生命保険会社が1社破綻している。バブル崩壊以降、上場企業の倒産など珍しくもなくなってしまったので、あまり大きく取りざたされることが無いようだが、本来、上場企業は倒産確率が極めて低いはずだったのである。厳しい上場審査があり、上場後は情報開示を行って、経営に対する市場からの監視を受け、経営の健全性が厳しく問われるのが上場企業である、はずだった。それがこれだけ頻繁に破綻するということが何を意味しているか、誰でもわかると思っていたが、そうでもないらしい。

ガソリンの値段が1年間でいってこいになったからと言って、素直に喜ぶことはできない。

肖像画が語る

2008年10月16日 | Weblog

昨日、勤め帰りにNational Galleryに寄って企画展「Renaissance Faces: Van Eyck to Titian」を観てきた。National Galleryは原則として入場無料なのだが、企画展のなかには有料のものもある。今回は一般当日券10ポンドである。しかし、毎週水曜日は同館のLate night museumで夜9時まで開場している。しかも、午後6時から6時半の間に入場すると企画展の入場料は半額になる。そういうわけで、企画展は水曜の勤め帰りに観ることにしている。

ルネサンスというのは13世紀から15世紀にかけてイタリアで起こり、欧州全体に波及した芸術上・思想上の革新運動を指す。この背景には、11世紀から13世紀にかけての十字軍があり、十字軍に軍備や物資を供給することでヴェネツィアやジェノヴァをはじめとするイタリアの商工業者が富を蓄積することになったという事情がある。また、東方からの文物が欧州に伝えられ、結果的に東西交易が盛んになったことも、その仲介を担ったイタリアの商工業者に利益をもたらした。

その昔、肖像画に描かれるのは宗教や神話の世界の人物と時の権力者にほぼ限られていた。まず画材が高価であり、画家へ支払う報酬が高額であったという理由がある。肖像画というものが単なる人物の写実ではなく、そこに制作意図やメッセージが込められてもいた。そうした肖像画の対象として、裕福になったイタリアの市民たちが登場するようになったのが、ルネサンスの時代である。単に市民階級が経済力を持つようになったということだけではなく、社会の価値観も宗教の世界に重きを置いたものから生身の人間に重きが置かれるようになったということだろう。

この展覧会に出品されているのは15世紀から16世紀にかけて活躍した画家や彫刻家の作品なので、世の中の価値観が大きく転換した後のものといえる。それ以前の時代ならば肖像画になど決して描かれることがなかったであろう人々の肖像が、当時のおそらく最先端の技法によって描かれている。

例えば、普段は常設のほうにあるJan van Eyckの「Giovanni(?) Arnolfini and his wife」は伝統的な絵画が持つ饒舌さをそのままに、表現としても画期的なものだったのではないだろうか。この作品をモチーフにした現代美術もしばしば見かけるが、それほど新鮮な作品なのである。

やはり普段は常設にあるQuinten Massysの作品と推定されている「An Old Woman」も、おそらくルネサンスという価値観の大転換が無ければ生まれなかった作品だろう。それ以前の絵画においては、描かれるものは美しくなければならないという決まり事があったはずだ。その掟を覆し、世の中の現実を写実してみせたことに深い意味があるのだろう。

きりがないので最後にもうひとつ印象に残った作品を挙げておく。これも本展以前は常設展示されていたもので、Giovanni Battista Moroniの「Portrait of a Man」である。正直なところ、本展で目にする以前はまったく気にも留めていなかった作品だ。1570年頃の作品だが、それ以前の時代ではありえないものである。描かれているのは仕立屋なのだから。つまり、この時代になって絵画の世界に市井の人々が登場するのである。もちろん、風景の一部として名も無い人々が描かれることはあったが、肖像画に登場するというのはなかったことだろう。しかもおざなりの肖像ではない。鑑賞者との対話が成立するかのような存在感は、細部の緻密な描写だけでなく計算し尽くされた構図の効果でもある。画家が全身全霊を込めてこの作品に取り組んだことが容易に想像される作品なのである。

「市民社会の勃興」と言葉で表現すれば、「ふうん、そうか」とやり過ごしてしまうのだが、具体的にそれがどのようなことであったのか、ここに挙げた3点のうちのひとつを見るだけで、息を飲むほどの衝撃を伴いつつ理解できるのである。


国有化の翌日

2008年10月15日 | Weblog
勤務先が公的資金の注入を受けることになった。世間では「国有化」と呼んでいる人もいる。当然のことながら、ただで公の資金を頂くわけにはいかない。今日は大規模な人員削減が発表された。合理化計画は昨日の今日でまとめることができるはずはない。数ヶ月前から準備が進んでいて、この国有化かあるいは別の何らかの時期に合わせて実施する計画だったのだろう。7月16日付けのブログ「背水の陣」に人員整理の予兆について書いた。そのなかで実施時期を11月か12月と予想していたので、当たらずといえども遠からず、といったところだろう。

今回も前回2月とほぼ同じ約2割の人員削減である。一年の間に2回も2割規模の人員削減が実施されるというのは、これまでの社会人生活のなかで経験したことがない。それほど現在の経済状況が危機的なものであるということだろう。尤も、今回の金融危機については10月10日付けのブログ「今回は世界恐慌」に書いた通りの認識なので、驚きは感じない。しかし、認識していても、それに対する行動を起こさなければ認識していたことにはならない。常日頃から生活の糧を得る手だてを複数用意しておかなければならないとは思っているのだが、手をこまねいたまま今日に至っている。

とりあえず、戻るべきところに戻ること。今はそれが最優先課題である。既に帰国のための航空券を購入し、引越業者の予約も済んだ。今日は2週間ほど前に申し込んだ落語のチケットの抽選結果のメールも届いた。これで1月24日の夜の予定は埋まった。とにかく、できるときにできることを存分にすることにしている。といっても実にささやかなことだ。嫌なことはしない。自分が素直に楽しいと感じることだけをする。これが残りの人生の基本原則である。

クーポン万歳

2008年10月14日 | Weblog
普段利用しているスーパーからまた割引券が届いた。以前にも書いた記憶があるのだが、これまでは20ポンド以上の買い物に対していくら、というように自分の買い物の範囲を逸脱したものだったので、その恩恵にあずかったことがなかった。今回は、商品カテゴリー事に4ポンドとか5ポンド以上の買い物に対して1ポンドということなので、こちらでの生活1年にしてようやくスーパーの優待割引券というものを使う機会を得ることになった。

まずは青果5ポンド以上に対して1ポンド割引というクーポンを利用する。今回は玉葱1キログラム、パプリカ3個、ズッキーニ3本(500グラム)、マッシュルーム1パック(200グラム)、アボカド4個、トマト700グラム以上8ポンド7ペンスが、7ポンド7ペンスとなった。

次にシリアル4ポンド以上に対して1ポンンド割引というクーポンである。毎朝シリアルを食べている。いつも食べているのはスーパーのハウスブランドのミューズリーの一番安いやつである。1キログラム51ペンスだ。これを4ポンド分買うという手もあるのだが、それだと8キログラムになり重い。そこで、この機会にささやかな贅沢をすることにした。同じハウスブランドの上級スペックのミューズリー(1.5キログラム入で2ポンド89ペンス)とナショナルブランドのミューズリー(750グラム入1ポンド19ペンス)を買う。これで4ポンド8ペンスが3ポンド8ペンスになった。

今日は買い置きのカレーペーストを利用してシーフードカレーライスを作った。上記の野菜のなかから玉葱2個、パプリカ1個、ズッキーニ1本、マッシュルーム1パックを使い、これに魚介類の詰め合わせ(ムール貝、イカ、小海老)250グラムを加えたものが具のすべてである。これに若干の大蒜とオレガノを加えた。カレーペーストは同じスーパーのハウスブランドの一番安いやつである。440グラムで11ペンスという破格の価格だ。しかし、これで十分美味しくできるのである。これだけの量で少なくとも3日分の夕食になる。

まだ手元には以下のクーポンが残っているが、これらは使うあてがない。
50 pence off when you spend 3 pounds on bread, cakes & bakery products
1 pound off when you spend 5 pounds on milk, cream & yogurts
1 pound off when you spend 5 pounds on ice cream & frozen desserts

ゲーム・オーバー

2008年10月13日 | Weblog
20年前に英国で暮らしていた頃、この国には四大銀行とよばれる銀行があった。National Westminster, Barclays, Midland, Lloydsである。今、この4行のなかで昔と同じ名前で存在しているのはBarclaysだけだ。National Westminsterは名前こそ昔のままだが経営はRoyal Bank of Scotland傘下にある。MidlandはHSBCに買収されLloydsはTSBと合併してLloyds-TSBとなった。今回の金融危機でいよいよ公的資金が経営不安に陥った銀行に投入されようとしている。とりあえず資金注入をして、現状の危機を乗り切ろうということらしい。また、FTによれば、英国政府がRoyal Bank of Scotlandの約60%の株式を確保、Lloyds-TSBとHBOSについては両行を合併させた上で、その合併後の銀行の43%を保有する計画だという。政府保有株は状況が改善した後に売却するそうだ。

さて、今回の金融騒動に際しての欧米各国の政府当局の対応は迅速だ。しかし、どこか場当たり的で、内実が無いものばかりだと感じる。金融機関の信用不安がなぜ起ったのか、サブプライムローンという仕組みがなぜ破綻したのか、そういう議論が無く、対処療法的に金利を下げたり流動性の供給を行って当座の時間稼ぎをしているだけのように見えるのである。

確かに、終わってしまったことの原因を考えたところで意味は無いかもしれない。突き詰めれば、カネというものは信用である。ただの紙切れで財やサービスを購入できるのは、その紙切れに信用があるからだ。その信用とは、国家権力という幻想である。何が起ころうとも、国家は機能して国民生活を守るという幻想の上に世の中は回っている。だから、とりあえず、「みなさん、ご心配には及びません!」というアナウンスメントを発することに意義があるとも言える。なぜ心配いらないのか、という説明は不要である。説明して国民が容易に理解できるほどのものなら、そもそも破綻に至る前に対策が打たれているはずだ。わけがわからないから破綻に至るのである。つまり、今必要なのは発生した問題の原因究明ではなく、引き続き信用が機能し続けているという信頼感を醸成することなのである。

懸念されるのは、その国家権力という幻想が希薄化しつつあることだ。かつて冷戦構造と呼ばれる世界の枠組みが機能していた頃は、超大国どうしの対立があり、否応無く国家を意識せざるを得なかった。ところが、そうした枠組みが崩壊し、宗教という国民国家を超越したカテゴリーでの対立が発生するとか、グローバル化という名の下に人や物の無国籍化が進行するといった現象が広がると、相対的に国家の存在感が低下し、意識するとしないとにかかわらず不安心理が強くなるものである。その結果として、数値の多寡で明快に価値を表現できる投資や投機の世界に自己の存在証明を求めて人々が流れるのではないだろうか。そうだとするなら、国家がどれほどの資金を投じて破綻に瀕した金融機関を救済しようとも、その救済行為自体は金融市場や不動産市場の参加者には関係のないことだろう。市場の混乱は、もはやゲームを続けることができなくなった参加者が身ぐるみ剥がれて退場させられるまで続くのである。そうした市場の自律的な調整が完了して、ようやく次のゲームが始まるのである。今はまだ、その調整が始まったばかりのような気がする。

娘へのメール 先週のまとめ

2008年10月13日 | Weblog

元気ですか?
今朝はうっすらと霧がかかりました。ロンドンはもう冬かと思いきや、昼頃から気温が上がり、少し歩いただけで汗ばむほどの陽気になりました。

先週は夏目漱石の短編集「倫敦塔・幻影の盾」(新潮文庫)を読みました。漱石は1900年から1902年まで日本政府からの派遣留学生としてロンドンで暮らしています。目的は英文学の研究だったそうです。当時、漱石はまだ小説家ではなく、第五高等学校(現在の熊本大学)の英語教授でした。もともと病気がちの人で、精神衰弱(今で言うノイローゼ)にもよく罹ったそうです。英文学専攻の学者でありながら、英文学に対する違和感を抱えるようになり、それがロンドン留学中になお一層ひどくなったそうです。それでもロンドンでの生活では多くの得難い経験をしていたようで、後の作品にそうした影響があるのは確かだと思います。「倫敦塔」は、漱石がロンドンにいた頃の体験そのものかもしれませんし、体験したことをもとに書いた創作かもしれません。発表されたのは帰国後しばらく経ってから、1905年のことでした。この短編集には「倫敦塔」とほぼ同時期に発表された短編が7編収められています。どれもその後の漱石の作品につながる重要なものばかりです。テーマは、一言で表現するなら、男女の愛ということになるでしょう。文章も古い日本語で読みにくいものですが、日本人として、いつか必ず読んでおいたほうがよい作家のひとりだと思います。たぶん、高校生くらいになったら、おもしろいと思えるようになるかもしれません。

今日は、漱石が留学中に住んでいた家を見に行ってきました。漱石はロンドン滞在中、わずか3年ほどの間に5回も下宿先を変えています。神経質な人であったようで、なかなか気に入った場所に巡り会えなかったのでしょう。最後に住んだ家には、ようやく落ちついたようで、1年4ヶ月間を過ごしたそうです。その最後の家を見てきました。現在も住宅として使われており、住人がいるので内部を見学することはできません。外から見ただけです。それでも漱石が住んでいた家という旨のプレートが建物の壁に打ち付けてあるので、それとわかります。ロンドン南部の閑静な住宅街のなかにあり、なんの変哲もないごくありふれた建物でした。

漱石が小説を書くようになったのは、1904年のことです。友人の高浜虚子が、漱石の神経衰弱の治療の一助にと小説を書くことを勧めたのだそうです。それで書いた作品が「我が輩は猫である」でした。この後に発表したのが「倫敦塔」で、それに「坊ちゃん」と続きます。漱石はロンドンから帰国後、第一高等学校(現在の東京大学)と東京帝国大学(現在の東京大学)と明治大学で英文学の講師をしていましたが、1907年にこれらの教職をすべて辞め、朝日新聞に入社、以降、新聞に連載小説を書く職業作家としての道を歩むようになります。

つまり、漱石が小説家になる転換点になったのがロンドンへの留学であったように思うのです。住んでいた家を見たからといって、何がどうということはありません。ただ、ほう、こういうところに住んでいたか、と思うだけのことです。それでも、私のロンドンでの生活も残り少なくなってきたこともあり、自分の好奇心に素直に従ってみました。

では、また来週。健康に気をつけてください。


ロンドンを歩く

2008年10月12日 | Weblog

ロンドンでの生活も残りわずかとなってきたので、ロンドンでしかできないことをやろうと考えた。いろいろあるのだが、ロンドンでしかできない最も簡易なことは、ロンドンを歩くことだろう。今日は天気晴朗だったので、Public Footpathを使ってEltham Palaceまで歩いてみた。

朝10時半に住処を出る。Woolwich Roadを東に進む。進行方向に向かって右手には家並が続き左手には大型の商業施設が並ぶ。Charltonの駅前を過ぎると、視界のなかの緑の割合が俄然多くなる。間もなく右手に公園のような緑地が広がる。これは地元Charlton F.C.というプロサッカーチームの本拠地となるスタジアム周辺の緑地である。緑地のまま公園Maryon Parkにつながる。ここでWoolwich Roadから公園のなかの歩道でもあるPublic Footpathに入る。

ここから南へ3つの公園が連なっている。これらを縦断するのである。Maryon Parkとそれに続くMaryon Wilson Parkは森のように木々が茂り、起伏が激しい。Maryonは南へ向かって登りになっており、Maryon Wilsonとの境を峠にして、谷へ下る。谷の部分には小動物を飼育している区画があり、ケージのなかを豚や羊や鶏がうろうろしている。ここからは再び登りになり、Charlton Parkとの境を走る道路のあたりが峠となる。Charlton Parkは運動公園で、サッカー場が2面、クリケット場が1面、ラグビー場が1面ある。サッカー場では草サッカーの最中で、きちんとユニホームを着た選手たちがのそのそと走り回っている。

Charlton Parkを出て、住宅街を抜けShooters Hill Roadという大通りに出る。この通りを東に進み、Well Hall Roadへ右折する。この通りは両側を広い歩道が走り、立派な街路樹が並ぶ。交通量は多めだが、気持ちよく歩くことができる。やがて大きなラウンドアバウトに出る。廃業して久しい感じの映画館の建物の脇を過ぎたあたりから、家並は住宅から商店に変わる。やがて鉄道のガードが見え、そこをくぐるとEltham駅前のバス乗り場である。

ここはなんとなく見覚えがある。去年の今頃、運転免許の更新に行くとき、バスでこのあたりを通った。日本の運転免許は頻繁に更新があるが、日本の免許の翻訳により1988年に取得したイギリスの運転免許は私の70歳の誕生日まで有効なのであった。当然、免許証に写真はない。そんなに長い期間にわたって有効なものに写真をつける意味がないからである。それが、制度が変わってしまい、イギリスでも免許証に写真が付くようになってしまった。必然的に有効期間が10年間に短縮され、私の免許も2017年10月までしか使えなくなってしまった。ちなみに、旧免許証から新免許証への更新は無料である。日本のように訳の分からぬ手数料が搾取されることはない。

Well Hall RoadはEltham High Streetという賑やかな通りとの交差点を過ぎるとCourt Roadに名前を変える。ほどなくEltham Palaceの案内板が視界に入る。看板の指示に従って脇道に入るとEltham Palaceの門の前に出た。時間は12時30分。家からちょうど2時間である。

門を抜けると橋になっている。濠があり、そこを渡ると教会のような大きな建物とそこから左側に続く低層の建物が目に入る。ここはもともとマナーハウスだったのを、国王になる前のエドワード2世が1305年に購入したのだそうだ。エドワード4世の時代、1470年代に先ほど「教会のように大きな建物」と形容した建物が建てられた。16世紀に一旦用済みになり、荒廃するにまかされていたのを1930年代に大富豪であるStephen Courtauld夫妻によって再建された。つまり、今、私の目の前にあるのは1470年代に建てられた建物と、それを活かしつつ1930年代に建てられた富豪の私邸なのである。しかし、せっかく建てたこの屋敷を1944年に手放してしまう。第二次世界大戦で、ロンドンの外れのこの場所にすら爆弾が落ちてきたのである。1940年9月、所謂Battle of Britainで、この広大な敷地にも100発を超える焼夷弾が落ち、うち4発が教会のような建物に命中したのだそうだ。修復も終わらぬ1941年4月にも爆撃を受けた。こうした被害もさることながら、戦時で召使いが不足し、屋敷の維持ができなくなってしまったことが、屋敷を手放す最も大きな理由だったという。1944年にこの屋敷は英国陸軍に譲渡され、以降1992年までArmy Educational Unitが使用することになる。1995年にEnglish Heritageの管理下に移され、1999年から一般に公開されて今日に至っている。

屋敷の内部は主にCourtauld邸時代の姿に再現されているが、展示されている調度品類は殆どがレプリカで、本物はVictoria and Albert Museumなどに移管されている。富豪というのは迎える客も多いらしく、まるでプチホテルのような作りである。客間と夫妻の寝室には全てバスルームが付いている。夫婦がそれぞれに寝室を持っているのだが、夫人の部屋は亭主の部屋の4倍ほどの広さになっている。こういう気遣いは家庭の平和にとっては重要なことなのだろう。建物の躯体は石や煉瓦だが、内装にはふんだんに木材が使われており、その所為か、たいへん落ちついた雰囲気がある。Palaceといいながらも、私邸仕様なので、どこか地に足の着いた生活感のようなものが感じられる。

Eltham Palaceを後にして、夏目漱石の下宿していた家を見に行く。さすがに、ここから先は電車を利用する。Elthamから鉄道でLondon Bridgeまで行き、そこで地下鉄Northern Lineに乗り換えてClapham Commonで下車。駅の名前になっているClapham Commonという公園のなかを歩き、その北の端から北西に伸びるThe Chaseという通りに入る。通りの両側に大きなテラスハウスが並ぶ閑静な住宅街である。この通りの北西の端の近く、Hannington RoadとのT字路のあたりにその建物はあった。ベージュの煉瓦でできた3階建てのテラスハウスで、壁に青い金属製プレートが打ち付けてあり、そこに白い文字で「NATSUME SOSEKI 1867-1916 Japanese Novelist lived here 1901-1902」と書かれているのでそれとわかる。この3階の部屋で1901年から1902年にかけての1年4ヶ月を過ごしたのだそうだ。今も住宅として使われている建物で、住人がいるので中に入ることはできない。日本人なら漱石の名を知らない人はいないだろう。文豪であり紙幣にもその肖像が描かれた人物である。その人が日本政府からの派遣留学生として暮らしたというロンドンの家はあまりに普通の家だった。

地下鉄でLondon Bridgeへ出て、エキナカのスーパーで明日朝に使うミルクを買って、郊外へ向かう鉄道に乗りWestcombe Parkで下車。住処に着いたのは午後4時半だった。


「倫敦塔・幻影の盾」

2008年10月11日 | Weblog
何十年かぶりに漱石を読んだ。新潮文庫版の短編集である。表題作のほか「カーライル博物館」「琴のそら音」「一夜」「薤露行」「趣味の遺伝」が収載されている。これらの作品のなかで、「倫敦塔」と「カーライル博物館」はロンドン滞在中の出来事を描写したものであろうし、「幻影の盾」や「薤露行」はイギリスの伝説系文学に材を得たものらしい。しかし、いずれの作品も帰国後の1905年から1906年にかけて発表されたものである。当時はまだ文学者が本業であり、小説や創作を書くのは余技としてである。職業作家になるのは1907年からだ。これらの作品は、小説家夏目漱石誕生の助走期間中のものと考えることもできるのかもしれない。

漱石がロンドンに留学していたのは彼が30代の前半であった1900年から1902年にかけてのことだ。若い頃から神経衰弱だの肺結核だのと病気ばかりしていたようだ。ロンドン滞在中も現地での生活に馴染むことができず、神経衰弱が悪化しているようで、下宿を転々とかえている。しかし、それでも最後に住んだClaphamにある家には1年4ヶ月も暮らしており、落ちついたというのか、諦めがついたというのか、そのいずれかなのであろう。ロンドンでの生活が漱石の創作活動に大きな影響を与えていることは紛れも無いことである、と言われている。

さて、作品についてだが、文章のリズムが心地よいことを改めて認識した。内容も陳腐なところがない。科学技術がどれほど発達したところで人間の内面というものはそれほど大きくは変わらないということなのだろう。「倫敦塔」と「カーライル博物館」以外は恋心をモチーフにしている。短編ではあっても小説で、文語調の表現なので、それなりに文学風ではあるが、エッセンスの部分は昔のテレビ番組「パンチdeデート」のようなものである。初対面で相手の外見以外に何の情報も持っていないのに、その印象だけで好きになったり嫌いになったりする心理の神秘を描いている。といっても、神秘を解き明かそうというのではない。神秘は容易に解明できないからこそ神秘なのである。明治時代の文章なので、多少は読みにくいところもあるが、そうした人の心の不思議なありようを、軽妙な会話と歯切れの良い状況説明によって描きだしている。

漱石が生きた時代の恋愛とはどのようなものだったのだろうか。所謂前期三部作(「三四郎」「それから」「門」)にしても後期三部作(「彼岸過迄」「行人」「こころ」)にしても、今とそれほどかわらぬ恋愛、あるいはその苦しみを描いているように見える。これらの作品の下敷きになっているのが「趣味の遺伝」であったりするのではないだろうか。「趣味の遺伝」はたわい無い話なのだが、これに恋成らぬ恋とか禁断の恋の要素を散りばめ、それによって主人公の悩みが深くなると、これら三部作に行き着くのではないか。そんなことが気になり始めたら、漱石をもういちど読みたくなってきた。

今度は世界恐慌

2008年10月10日 | Weblog
前回の英国滞在のときは、日本のバブルがはじけた。今回は世界恐慌だ。どうも英国にいるとろくなことがない。

1988年6月から1990年7月までマンチェスターで暮らしていた。当時の日本経済はバブルの真只中にあり、スーパーの棚にあるものからレストランのようなサービスに至るまで、価格の高いものほどよく売れるという狂躁状態にあった。株も不動産も値上がりし、日経平均は1989年12月29日に38,915円87銭という史上最高値を記録した。それでも、巷には「次は50,000円」という声も多かった。

ところが、バブルの波に乗れない圧倒的大多数の国民の不満も高まり、それが政治を動かしたのかどうかは定かでないが、1990年3月27日に「不動産融資総量規制」という通達が当時の大蔵省銀行局長名で金融機関に対して発せられた。それまでは、「土地ころがし」という言葉が象徴するように、不動産相場が右肩上がりで上昇を続けたので、土地の売買でいくらでも利ざやを稼ぐことができた。それが、土地購入資金の新規流入が抑制されることで、需給バランスが変化し、土地は必ずしも値上がりするものではなくなってしまった。不動産市況は1991年頃をピークに下落に転じ、それがほぼ常態と化してしまったことは記憶に新しいだろう。

そもそものバブルのきっかけは1985年のプラザ合意による外国為替レートの強引な調整に伴う円高不況対策としての低金利政策だ。不況なのだから流動性を厚めに供給するのは当然の政策なのだが、やり過ぎてしまったということなのだろう。過剰流動性が投機資金となり、バブルと呼ばれる投機熱・投資熱・消費熱を煽ってしまった、と今から振り返れば他人事のように語ることができる。

話は前後するが、要するに、90年に英国から帰国してみると、世の中は坂道を転げ落ちるように凋落を続けたのである。パソコンや携帯電話の普及とそれらのコンテンツの発達を背景にしたITバブルで、その長期不況に終止符が打たれるかと思いきや、それも呆気なくはじけてしまい、所謂「平成不況」の最終局面にだめ押しを与える結果となった。

2001年4月26日、小泉内閣が成立する。構造改革を旗印に特殊法人の民営化を推進する一方、金融機関の不良債権処理にも注力すると、景気もようやく拡大に転じた。勿論、政策の効果と景気循環とが相俟ってのことである。小泉内閣が戦後屈指の長期政権となったのは、景気回復を演出したことによるところが大きいだろう。

その小泉内閣発足とともに始まったかに見える景気拡大も、おそらく既に後退に転じているだろう。それは景気循環も勿論あるだろうし、米国のサブプライム問題に端を発するマネーゲームの終戦処理によるところもあるだろう。いずれにしても、その暗転の時期が、またもや私の英国滞在の時期と重なったのである。

日本のバブル崩壊の影響は日本国内に限定されたものだったと言ってよいだろう。しかし、今度の金融不安は、そんな生易しいものではない。欧米だけでなく、これまで高度経済成長を続けてきた中国やインドの様子もおかしい。世界経済を有機体に例えるなら、さしずめ多臓器不全だろう。根本的な解決策があるわけではなく、個々の現象に対処をし続けながら自然治癒を期待するしか対応方法がない。そうした混乱のなかで、自分の生活をいかに守るかということに腐心しなければならない。若い人なら、寄らば大樹の蔭という選択肢もあるだろうが、私ほどの年齢になると、大樹に擦り寄っても跳ね返されてしまう。いつまでも他人に頼っているわけにはいかないということだ。かといって、今まで擦り寄ることしかしてこなかったので、何をどうしたらよいのか途方に暮れてしまう。しかし、途方に暮れている余裕もない。そんな事情もあって、とりあえず帰るべきところに帰ることにした。私個人の問題解決はまだこれからなのである。

食事をすればわかること

2008年10月09日 | Weblog
友人がブログのなかで中国映画「公園」について書いていた。そのなかで、食事のシーンの意味が強い、と述べている。私はこの映画を観たことはないが、食事の風景が語る深さというのは、文化によってかなり差が大きいかもしれない。

しかし、食事を共にするというのは、洋の東西を問わず、人間関係を構築する上で避けて通ることのできないことのようにも思う。須賀敦子のエッセイにこんなことが書いてある。

「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」
 ミラノで結婚してまもないころ、これといった深い考えもなく夫と知人のうわさをしていた私にむかって、姑がいきなりこんなことをいった。
(「須賀敦子全集 第3巻」河出文庫版 531頁「塩一トンの読書」)

いっしょに塩を舐めるというのは、食事を共にするということだろう。人が一生の間に摂取する塩の量がどれほどなのか知らないが、もののたとえとして、人を理解するには食事を共にするというような濃密な時間がたくさん必要であるけれど、それでも容易に理解できるものではない、という意味なのだと思う。その食事というのも、おそらくレストランでの食事ではなく、自らの手で作ったものや相手が作ったものを一緒に味わうものだろう。

これまでの経験から、私は食に無頓着な人間とは馬が合わないことがわかっている。結婚していた頃から台所に立つ機会は少なくなかったが、こちらで生活するようになってからは毎日自炊しているので、料理に関してはいろいろ思うところが多い。はっきりしているのは、おいしいものを作ろうという意志がなければ旨いものは作れない。当然のようだが、惰性で作っているだけで、食べる人のことなどろくに考えもしない人というのは案外多いような気がする。

自分で料理をする人なのか否かというのは、実際に作るところを見なくても、レストランなどで一緒に食事をすればすぐにわかる。食事の作法ということではなく、食事を前にしたときの身体の反応が、自らも作る人とそうでない人とでは決定的に違うのである。なにがどう違うのか、ここでは書かないが、けっこう単純なことなのである。

これは私の妄想なのだが、食に対する姿勢は、その人の生き方のスタイルに深く関わっていると思う。心底楽しく食事を共にできる相手というのは、話をしていても通じるところがあって会話が愉快であるが、そういう人は実に少ない。自分の交友範囲のなかでも、数えるほどしかいない。日本に帰ったら、そういう人を探してみたいと思っている。死ぬまでにひとりでもそんな人に巡り会えたら、きっと幸運をつかんだと感じると思う。

引越準備開始

2008年10月08日 | Weblog
帰国の際の引っ越し業者を決めた。4社に問い合わせのメールを出したところ、その内2社からしか返事が来なかった。いい加減な業者に頼んでもろくなことはないので、結局、対応の比較的迅速な業者に頼むことにした。結果として、それは大手日系運輸会社である。

いまどきは、倒産する確率が低そうな業者と取引をするということが、自分の経済的利益を守る上で重要な要素になっている。今まで、企業の倒産などそうそうあることではなかった。それが今は、上場企業であってもあっけなく倒産する時代なのである。どんな客に対してもきちんとした対応をするというのは事業者としての基本だと思う。そういう基本が無いところは、やはり経営に問題があるということだと思うのである。

過去において上場企業の倒産が最も多かったのは2002年で29件であった。それが今年は今日までで既に22件に達している。特に9月は多く、7件の上場企業の倒産があり、10月も8日までで2件である。上場していることなど何の信用にもならない時代になってしまった。

9月に倒産した7社と10月に倒産した2社は以下の通りだ。
9月2日 トランスデジタル株式会社 ジャスダック上場 システム開発 民事再生法適用を申請
9月19日 株式会社Human21 ジャスダック上場 ワンルームマンション販売 民事再生法適用を申請
9月24日 株式会社リプラス 東証マザーズ上場 賃貸保証事業等 破産手続き開始決定
9月25日 ジェネシス・テクノロジー株式会社 東証2部上場 半導体検査サービス 民事再生法適用を申請
9月26日 シーズクリエイト株式会社 東証1部上場 マンション分譲 民事再生法適用を申請
9月26日 株式会社プロデュース ジャスダック上場 電子部品・半導体製造装置の製造・販売 民事再生法適用を申請
9月29日 ランドコム株式会社 東証2部上場 不動産企画・開発 民事再生法適用を申請
10月2日 株式会社エルクリエイト ジャスダック上場 マンション開発・分譲 自己破産を申請
10月8日 株式会社新井組 東証・大証1部上場 ゼネコン 民事再生法適用を申請

これら9社のうち6社が不動産・建設関連である。不動産というのは文字通り動かないものなので、市況の良いときにはそれほど問題にならないのだが、現在のように市況が悪化すると流動性の低さが災いして価格が崩れやすくなる。投資案件や営業在庫として不動産を抱える事業の場合、当然そうした影響を受けやすく、キャッシュフローが安定しない企業は、会計上は利益が出ていても資金繰りに詰まってしまうことすらある。現在の金融市場の混乱が長引けば、状況は更に悪化することが容易に想像できる。

不動産市場が冷え込むということは、住宅の購入に伴う引っ越し需要が減少するということでもある。現に9月19日に松本引越センター株式会社が民事再生法の適用を申請している。この会社は未上場だが、引越専業のなかでは全国で5番目の事業規模であり、「ぞうのマークの引越屋さん」というテレビコマーシャルを流していた大手業者だ。大手でも油断できないのである。

それにしても、世知辛い時代になったものだ。

泣き面に蜂の巣

2008年10月07日 | Weblog
通勤途上にガソリンスタンドがある。そこに表示されているガソリンの値段が今日は106.9となった。一時帰国から戻った翌日、10月1日から昨日までは107.9だった。

今の住処に引っ越してきたのが去年の今ごろだった。当時、同じガソリンスタンドのガソリンの値段は99.9だった。これは無鉛ガソリン1リットルあたりの価格をペンス単位で表示したもので、リッター99.9ペンスということだ。いったいいつになったら100の大台に乗るだろうかと気にしながら、その看板を毎日眺めていた。それが12月31日に100.9になり、それから上がり続けて今年の7月下旬には118.9を記録した。8月に入ると下がり始め8月13日に109.9になり110を割った。その後、9月の一時帰国の前まで変化はなかった。

ガソリンの値段がもとに戻りつつあるというのに、ポンドの対円レートは、多少の山谷はあったものの、下がり続けている。特に足元がひどい。去年の今ごろは237-8円だったのが今日は177円前後である。日本円の負債が無ければ、生活はポンド建ての給与所得と生活費で完結するので、為替レートがいくらであっても直接影響は無い。しかし、いろいろ日本で抱えているものがあるので、これだけポンド安が進行するとさすがにつらい。おまけに株価も悲惨な状況なのでわずかばかりの持ち株や投信の評価額も下がる一方である。「泣き面に蜂」どころではない。「泣き面に蜂の巣てんこもり」といったところだ。こうなると、少しくらいの節約では焼け石に水である。なるようになると腹をくくって笑うしかない。

変わるものと変わらないもの

2008年10月06日 | Weblog
こちらに来て1年が過ぎた。もう今更自分の趣味嗜好が変わることなどないだろうと思っていたのだが、人は生きている限り変わり続けるものらしい。自分が意識している変化もそうでない変化もいろいろあるのだろうが、顕著に変わったのは絵の好みである。

例えばナショナル・ギャラリーでは、以前は40番台の展示室で過ごす時間が圧倒的に多かったが、今は8番とSainsbury Wingの50番台60番台に滞留する時間が圧倒的になり、むしろ40番台の部屋には気が向いた時以外は足を運ばなくなってしまった。現時点のお勧め鑑賞順路は今年8月10日付けの本ブログ「ナショナル・ギャラリーを最短時間で鑑賞する法」に書いた通りである。なお、そのなかで触れた作品の一部が10月15日から始まる企画展Renaissance Faces: Van Eyck and Titianのために所定の位置を外れ、企画展会場に移動させられている。常設は無料だが企画展は有料になるので、本展開催中にナショナル・ギャラリーを訪れる予定のある方はお気をつけいただきたい。

昨年9月にこちらに来た頃は、印象派前後の作品のなかに好きなものが多かったが、今はより古い作品に惹かれる。特にルネサンスのイタリア絵画が好きである。当然、古いもののほうが技法の制約も今より強かったはずであり、限られた技術を駆使して絵画世界を創造するが故に、そこに込められた情熱とか情念のようなものがより強いのではないかと思う。また、今とは違い、絵画にはその発注者がいて、製作目的や製作意図が事細かに決められていたはずである。そのようなことも画家にとっては表現の制約になっていた側面もあるだろう。制約があるからこそ、そこを乗り越えようとして様々に腕を磨き、工夫を凝らすのではないか。それが精神の営みというものだろう。観れば観るほど、その精神が何百年もの時を超えて我々に語りかけてくるのではないだろうか。

「インド夜想曲」

2008年10月05日 | Weblog
アントニオ・ダブッキの作品である。サスペンスのようなタッチなのだが、そういう話ではない。なんとなく謎めいたエピソードの連なりに引かれて最終章に辿り着くと、そこで作品全体の構成が明らかになる。そういうことだったのかと納得してしまう。誤解を承知の上で敢えて言うなら、中身のある小説ではない。鳥籠のような、建築途上で骨組みだけの建物のような話だが、その籠の針金や骨組みの柱が知恵の輪のように妙な形になっている、とでも表現したらよいのだろうか。おもしろそうだと思って中に入ると、いつのまにか外に出ている、そんな構造物のイメージだ。

狐につままれたような気分にもなるが、「はじめに」の妙な文章が意味するところが最後になって利いてくるということだ。「旅の本」「道案内」そして「《影》の探求」とちゃんと書いてある。要するにプロの文章に無駄がないという当り前のことを再認識させられるのである。話の内容よりも展開の妙を、小説というものへの自分の思い込みを覆す新たな作品のありようを、楽しむ作品と言える。

しかし、これは舞台がインドであるから可能なのであって、他の国では無理だろう。インドを旅したことがあればよくわかるのだが、知らないことを尋ねられても素直に「知らない」では済ませない人が多い、ように思う。物事に動じるということがなく、自信ありげに見えるので、下手にものを尋ねるとややこしいことになる。私のインド旅行記はこのブログの1985年のところに収めてあるので、興味があればそちらも参照して頂きたい。