このところ東京は雨が多い。今日も朝から雨、しかも寒い。先日、ネットで見たニュースによれば3月の東日本太平洋側の月間降水量が平年の159%で観測史上最大となったという。
雨で寒い、となれば不要不急の外出を控える人が増えるだろう。となれば、普段は混雑がちなところを訪れるよい機会だ。ということで、今月開館した三菱一号館美術館を訪れた。
もともとの三菱一号館は明治の所謂お雇い外国人のひとりで英国人建築家Josiah Conderの設計により1894年に竣工した丸の内最初のオフィスビルである。現在の三菱一号館はこれを復元したもので、原型と同じく230万個の煉瓦を使ったのだそうだ。私は建築のことは何も知らないので、19世紀末に建築したビルを今復元することの意味とか価値はさっぱりわからない。少なくとも景観としては、極ありふれたオフィスビルが林立する地域にぽつんと明治期の洋館が置かれていることに違和感を覚えないでもない。しかも、平日昼間はビジネスマンが忙しそうに行き交うなかに、老婦人の団体が傍若無人の体でうろうろしているという姿が、その地域の既存の秩序というかリズム感のようなものを崩しているようにも思われて、その風景が丸ごと現代美術のインスタレーションのようでもある。
さて、いつものことながら、日本の美術館の企画力には感心させられる。日本に在る西洋絵画の数は決して少なくはないのだが、国内産ではないのだから少なくとも量において欧州の主要国には及ばなくて当然だ。しかし、作品の見せ方、展覧会の切り口、というようなことの工夫は、そうした限界があるからこそ磨かれてきたとも言えるだろう。
今回の展覧会の作品は、およそ半分強くらいがオルセー、四分の一くらいがフランス国会図書館、残りが国内外諸々の所蔵品だ。都心の新しい美術館の開館記念展にふさわしい大作が集められているので、チケットやチラシに使われる目玉以外はちょっとがっかり、というようなことは無い。時代を追って作品が並べられ、それと並行してパリの街の変容を示す写真やエッチングなども展示され、作品の背景を想像する手掛かりも用意されている。このような配慮の行き届いた企画展というのはロンドンでは観たことがない。彼の地での企画展は、作品がふんだんに手当てできる所為もあるのだろうが、絵画作品以外の資料は殆ど展示されていないものが多かったと記憶している。観る側のリテラシーが違うということは全く無いわけでもないだろうが、平均的な観客個人の知識量に彼我の違いは無いと私は思う。やはり、制約の大きいほうが求められる工夫も大きくなるので、このような違いが出てくるのではないだろうか。
とはいえ、日本国内では普段観ることのできない、観る機会に恵まれれば是非観ておきたい作品がいくらもある。オルセーの収蔵品では「ローラ・ド・ヴァランス」「闘牛」「エミール・ゾラ」「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」「ビールジョッキを持つ女」「4個のリンゴ」、ワシントン・ナショナル・ギャラリーの「死せる闘牛士」などはそうした必見作品の例であろう。個人的には晩年に病気による心身の痛みを癒すべく描いた「4個のリンゴ」「レモン」が心に残った。いずれもオルセーで観たはずなのだが、今回初めて観たような心持だ。
全く勝手な想像なのだが、裕福な家庭に生まれ、才能にも恵まれ、だからこそ批評家たちの厳しい評価に耐えながらも既存の価値観に果敢に挑戦し続けることができたのだろう。漸く画家としての評価を確立し、ある程度の絶頂期を経た後、病に倒れることになってしまうが、病身をおして最後に身近な静物を淡々と描く心境に至るところに、人の自然な在り様が見えるのである。物心付いて、自我に目覚め、その自我も結局は自然のなかに消滅する。その消滅を悟ったときに訪れる心の平和が、例えば「4つのリンゴ」の明るさに象徴されているように観えるのである。
雨で寒い、となれば不要不急の外出を控える人が増えるだろう。となれば、普段は混雑がちなところを訪れるよい機会だ。ということで、今月開館した三菱一号館美術館を訪れた。
もともとの三菱一号館は明治の所謂お雇い外国人のひとりで英国人建築家Josiah Conderの設計により1894年に竣工した丸の内最初のオフィスビルである。現在の三菱一号館はこれを復元したもので、原型と同じく230万個の煉瓦を使ったのだそうだ。私は建築のことは何も知らないので、19世紀末に建築したビルを今復元することの意味とか価値はさっぱりわからない。少なくとも景観としては、極ありふれたオフィスビルが林立する地域にぽつんと明治期の洋館が置かれていることに違和感を覚えないでもない。しかも、平日昼間はビジネスマンが忙しそうに行き交うなかに、老婦人の団体が傍若無人の体でうろうろしているという姿が、その地域の既存の秩序というかリズム感のようなものを崩しているようにも思われて、その風景が丸ごと現代美術のインスタレーションのようでもある。
さて、いつものことながら、日本の美術館の企画力には感心させられる。日本に在る西洋絵画の数は決して少なくはないのだが、国内産ではないのだから少なくとも量において欧州の主要国には及ばなくて当然だ。しかし、作品の見せ方、展覧会の切り口、というようなことの工夫は、そうした限界があるからこそ磨かれてきたとも言えるだろう。
今回の展覧会の作品は、およそ半分強くらいがオルセー、四分の一くらいがフランス国会図書館、残りが国内外諸々の所蔵品だ。都心の新しい美術館の開館記念展にふさわしい大作が集められているので、チケットやチラシに使われる目玉以外はちょっとがっかり、というようなことは無い。時代を追って作品が並べられ、それと並行してパリの街の変容を示す写真やエッチングなども展示され、作品の背景を想像する手掛かりも用意されている。このような配慮の行き届いた企画展というのはロンドンでは観たことがない。彼の地での企画展は、作品がふんだんに手当てできる所為もあるのだろうが、絵画作品以外の資料は殆ど展示されていないものが多かったと記憶している。観る側のリテラシーが違うということは全く無いわけでもないだろうが、平均的な観客個人の知識量に彼我の違いは無いと私は思う。やはり、制約の大きいほうが求められる工夫も大きくなるので、このような違いが出てくるのではないだろうか。
とはいえ、日本国内では普段観ることのできない、観る機会に恵まれれば是非観ておきたい作品がいくらもある。オルセーの収蔵品では「ローラ・ド・ヴァランス」「闘牛」「エミール・ゾラ」「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」「ビールジョッキを持つ女」「4個のリンゴ」、ワシントン・ナショナル・ギャラリーの「死せる闘牛士」などはそうした必見作品の例であろう。個人的には晩年に病気による心身の痛みを癒すべく描いた「4個のリンゴ」「レモン」が心に残った。いずれもオルセーで観たはずなのだが、今回初めて観たような心持だ。
全く勝手な想像なのだが、裕福な家庭に生まれ、才能にも恵まれ、だからこそ批評家たちの厳しい評価に耐えながらも既存の価値観に果敢に挑戦し続けることができたのだろう。漸く画家としての評価を確立し、ある程度の絶頂期を経た後、病に倒れることになってしまうが、病身をおして最後に身近な静物を淡々と描く心境に至るところに、人の自然な在り様が見えるのである。物心付いて、自我に目覚め、その自我も結局は自然のなかに消滅する。その消滅を悟ったときに訪れる心の平和が、例えば「4つのリンゴ」の明るさに象徴されているように観えるのである。