『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

哀しみの日から十三年

2024-03-11 08:48:55 | 大震災/コロナ禍

 


忘れもしない・・・。
13年前の今日。

午後2時46分。
それは起こった。

東日本大地震。

震度7の超巨大地震。
15mの超巨大津波。
原発三基がメルトダウンする
超規模原発事故。

1000年に一度の地震と津波。
広島・長崎に次ぐ
放射能汚染被害。

それは、
人類初の超規模「複合災害」であった。

あの折、避難所で
パンデミックがなかったのが
不幸中の幸いだったが、
それでも関連死は5000人を超える。

***

原発が三基爆発後の
当時のブログには、
こうある・・・。

***

今朝、近所の梅がほころびはじめ
それが青空に映えていた。

長崎の海を望む高台にある
遠藤周作文学館の《沈黙の碑》には
こう刻まれている。

 人間がこんなに哀しいのに
  主よ、海があまりに碧いのです

なんだか、抜けるような青空に
芳しき梅の香りを嗅いだとき

 神様
  なぜに
   こんなことが起こるのでしょうか
 
と、ふと、
やるせない哀しみに襲われた。 

https://blog.goo.ne.jp/liqbeau2020/m/201103/3


***

当時も毎日、書いていた
ブログを読み返すと、
明らかに「死」を覚悟していた。

それでも、
引きこもって怯えているよりも、
最後まで、利他を尽くそう、
人の為に役立とう・・・と、
自主的に避難所巡りを始めた。

「心理カウンセラー」のID章を首に掛け
サイコロジカル・ファースト・エイド
(こころのケア)に
18ケ所の避難所すべてを廻り、
太平洋岸から避難してきた方々の
クライス・インターベンション
(危機介入)に当たった。

中には、
首まで津波に浸かりながら助かったJKや、
目の前で津波に呑み込まれた人たちを見て
悪夢のフラッシュバックに
苦しむ人たちもいた。

家族を、家を、故郷を・・・
失った人たちは
一様に「対象喪失」反応により
物も言わず、かける言葉もなかった。

あまりにも悲惨すぎる
数々のエピソードを見聞きするに従い、
恐れていたバーナウト(燃え尽き症候群)と
エンパス(共感性抑うつ症)にもなった。

やがて、ガソリンは枯渇し、
避難所にも出向けなくなり、
ひたすら、引きこもって
自分や家族と向き合う
内省の時間が多くなり、
それも苦しかった。

加えて、日常では、
放射線量が通常の数十倍と高い
低線量被爆が続く毎日である。

5万人もが
エクソダス(大量脱出)したが、
公務を放棄して
県外に移転はできない。

子ども達だけは
京都の知人宅にひと月間
疎開させてもらった。



*

3.11当日は、
数度の震度5を含む余震が
200回ほどあり、
翌日の朝方まで
まんじりとも出来なかった。

家は潰れはしなかったが、
中は何処もここも
手の付けられない有様である。

水も出ない。
幸いにして、地域的に
停電だけは免れたので、
パソコンもヒーターも使えた。



*

上空には
まるで戒厳令下のように
自衛隊のヘリが往来し
その轟音が止むことがなかった。

街中にも
国防色の自衛隊車が
ひっきりなしに走っていた。

 



*

あれから
早、十三年が経つ。

その間に、
二人の息子が結婚し、
初孫も生まれた。

我が家の
「希望の星」である。

打ちひしがれた心を
その誕生は
どれほど勇気づけてくれたか・・・。

**

今日の2時46分。

勤務中ではあるが、
一時、中断して
祈りを捧げたいと思う。


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