全身が海水に浸った里奈は、屋根の突端に身を寄せたはよかったが、そのあまりの寒さに歯の根が合わないほど震え上がった。
3月初旬の海水温は、10℃にも満たなかった。
まして、時折、チラチラと雪が舞い落ちてくる天候である。
ポリ袋やプラスチック・ゴミ箱でこしらえたあげた手製救命具によって、氷山の一角のような屋根の突端が水没しても、しばらくは浮いていられよう。
だが、この水温と寒風では、低体温症によって、そう長くはもつまい…。
(もう、ダメか…)
さすがに里奈も、360度見渡す限り水平線の中に、ひとり放り出されては、観念するよりなかった。
早春の濃い青緑の海にオレンジ色の屋根は、偶然にも補色関係にあり、それは哀しいほど鮮やかであった。
寒色の海に浮かぶ唯一暖色の屋根の上に、里奈は惚けたように、じっと仰向けに寝そべっていた。
パニクるでもなく、泣くでもなく、恐れるでもなく…
ただただ、疲れ果てて、諦めと空しさ、虚ろな思い…
そして、五感から感覚される、眩い光、波の音、潮の香り、体の冷たさ、口の中の塩辛さ…
まだ、死んではいなかった。
(東京、行きたかったなぁ…)
もう、言葉は出なかった。
それでも、熱い涙は、まだこぼれた。
極寒のなかで、それはほんとうに熱い涙だった。
(裕くん。ごめん。
わたし、東京行けないわ…)
里奈は、こころの中でそう詫びると、しずかに目を閉じて嗚咽した。
遠くに海鳥が数羽、コーコーと鳴きながら、気流に乗ってフワフワと飛び交っていた。
高台の母親は、気も狂わんばかりの思いで、彼方沖合を凝視し続けていた。
愛娘が今、広い洋上で、寒さに打ち震えていることも、行くことが叶わなかった都会へ思いを馳せていることも、人生の終幕をたったひとりで迎えようとしていることも、知る由もなかった。
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