『人生を遊ぶ』

毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。

  

色んな事が起こる…

2021-11-03 07:02:00 | 藤井 聡太
録画してあった
ソーちゃんの
『NHK杯』戦を観た。

フカピーこと
深浦九段に負けたので
驚いた。

どうも、
NHK杯とは相性がよくなく、
5年連続出場で
3回戦までたどり着いたことがない。

決勝までいけば、
地上波で何度も見れるのに、
すぐにトーナメント表から
姿を消してしまう。

超早指し戦の『アベマトーナメント』は
4連覇しているものの、
NHK杯独自の時間設定は
彼にはマッチングがわるいのだろうか。

ソーちゃんが異次元の強さから
『将棋星人』とされ、
フカピーは「2勝1敗」と
勝ち越してるので、
『地球代表』という
ネット雀の呼び方がある。

その関係性に拠れば、
またしても、
地球防衛軍が異星人を撃破した
とネットの将棋サイトで
そのキャッチコピーを散見する。





投了後、
放映中にも関らず、
机に突っ伏して
嘆いているような姿が
映しだされ、それも
ネットで話題になった。

というのも、
彼がまだ中学生四段の頃、
フカピーにコテンパンにやられて
脇息に突っ伏して泣いたシーンが
ネット中継で話題になったからである。

「ソータ押し」からは、
半分冗談で
「おっさんが、中坊を泣かしおった」
という揶揄が乱れ飛んだ(笑)。

きっと、あの場面を
彷彿させられたファンが
多かったのだろう。

でも、よくよく画面を見たら、
机の下で右指が盛んに
指し手をするように動いていた。

なので、脳内盤面で
振り返りをしていたのである。

タイトル戦でも、
時折、ハンカチで目を抑えたり、
脇息に顔を伏せることがあり、
本人の弁では
「盤面を逆さにして
相手側からの配置を見ている」
と言っていた。

もうじき「四冠」ともなる
棋界最強まで上り詰めた
19歳の青年棋士は、
そう簡単に心が折れて
醜態を見せるような事は
有り得ないのである。




玄関の「ゆりぼう」が
段々と葉が茶色ががって
しおれ始めてきた。

最後は、
ステム(茎)が枯れて
種子を含んだ子房(花の果実)が
落下して、その地に
次世代の遺伝子を残すのだろう。

なので、
在るがまま、
自ずから然るままに、
任せて様子を観察している。

離れた庭に一輪だけ咲いた方は、
薄茶時のお客様のために
切り落とされて
茶室に活けられた。

そして、
茶事後は
玄関室礼に改められた。

こっちのほうは
清楚な感じなので
「ゆりちゃん」
と女性名詞で呼んでいる。








きのうの「ベジ弁」は、
前夜に拵えたフレンチの
余り物を集成したものだった。

鴨のロティや
カリフラワーのムース、
セルフィーユの束なぞを
ドレッセもヘッタクレもなしに
タッパー弁当箱に
無造作に詰め込んだだけである。

ほいでも、
味は一緒なんだなぁ…(笑)。

今回は、
トマトのクーリが
殊の外、巧く仕上がり、
ベントになっても
満足の味に納得していた。









2週間かけて
修復を終えた
スピネット・チェンバロでの
"弾き初め"の曲として、
『バロック・アルバム』曲集の
最初にあった
クリーガーの『メヌエット』を
さらっている処である。

よく知った
単純で簡単な曲なのだが、
いざ暗譜して
音楽として表現しようとなると、
簡単にホイホイと
仕上がるものでもない事に
気が付いた。

その昔、
名ギタリスト・渡辺 範彦さんの
お師匠さんだった
久坂先生にレッスンを受けた折、
「簡単な譜面ほど表現が難しい」
と教わり、
先生は、親指・人指し指・中指を
目の前に示されて、
「この三本は、どうやっても
三角形にしかならないでしょ」
と言われ、それから
左右の全指を使われて
「これなら、〇にも□にも、
まったく複雑な形にもなる」
と仰った。

そして、また
「(音符の)白玉が出てきたら、
細心の注意を払いなさい。
黒玉の羅列が出てきたら
安心しなさい」
とも教わった。

こういうイメージし易い
み教えの数々で、
渡辺さんはパリコンで
日本初の優勝を遂げて
世界一となったのである。

なので、
先生のレッスンを思い出して、
(こりゃ、手ごわいなぁ…)
と手こずっている。

そこで、仕方なく、
夏休みに書いた
創作妄想小説『名人を超える』の
夭逝した悲劇の主人公ふたりの
掛け合いの歌として、
イメージしたら
なんとなくアナリーゼが進んだ。

そして、
さらに妄想を膨らませて、
あれを原作として映画化した場合の
『ソータとカナリ』の
メインテーマとして考えてみたら
どうだろうと、試しにやってみたら
演奏者の気持ちを乗せることができ、
フラメンコで言うホンドな(深い)
アイレ(空気感/息遣い)が表現できた。

ただ、それを
簡易動画に撮ってみようと
スマホをセッティングして
トライしてみたら、
今度は、どういうわけか
コチコチに緊張して
間違ってばっかりいる(笑)。

どうやら、
まだまだ弾き込みが足りず、
「自家薬籠中の物」には
成り得ていないようである。

楽器の調整が出来上がっても
演奏者の調整にも
同様に時間がかかるのも
当然至極の事なのである(笑)。

そう…。

楽器とは、
演奏者の"たましい"を表現する
道具に過ぎないのだが、
されど、その道具と
"人馬一体"となって
「謳魂」することの難しさよ。

所謂「ゾーンに入り」
自分の感動を保ちながら
「空気振動の伝播」という
物理現象によって、
聴き手に心理的な情動変化(感動)を
呼び起こすことが
如何に難しいことか。

してみりゃ、
"音楽する"というのは、
深淵神慮なる行為であるなぁ…。






『京王線刺傷事件』の
犯人像を新聞で読んで、
〈中学時代は、おとなしく、
休み時間には絵を描いていた〉
という辺りが目を引いた。

そして、高卒後、
専門学校を経て
介護ヘルパー職に就くも
わずか数年で離職し、
友人関係も疎遠になり、
やがて自棄的な行動化に及んだ。

この事件でいくつかの
キーワードが思い浮かんだ。

真っ先に想起したのは、
かつて毒舌家の
藤原 弘達っつぁんが、
「低脳犯罪」
と唾棄するように
カテゴライズしたことである。

言うまでもなく、
思慮の浅い「行動化」である。

犯罪心理学的には、
「自傷他害」型という
パターン化されたもので、
アメリカでの
『コロンバイン事件』や
『アーカンソー事件』が
すぐに思い浮かぶ。

「自死願望」が先にあり、
それが自暴自棄に至ると
「他殺願望」がリリース(解発)される。

文化人類学的には、
原住民族の間にも
古今東西、この現象は
しばしば観察され、
ある日突然、刃物を振り回して
地域住民に襲い掛かり
殺傷事件を起こすが、
けっきょくは住民によって
殺害されて収束するのである。

その「自死願望」は
無意識的な場合もあれば、
今回のように
意識化している場合もある。

今回のケースで
特異的だったのは、
コロナ禍の緊急宣言解除後の
いくらか安堵感と解放感が出始め、
しかも、ハロウィンという
「お祭り」騒ぎの時期に、
自らも『悪役・ジョーカー』に扮して、
大事件を起こすべく「勝負服」とした、
と嘯いている事である。

ハロウィンは、
キリスト教の諸聖人の日
『万聖節』(11月1日)の
前夜(10月31日)に行われる祭りで、
その語源は、
「All Hallow’s Even」
(諸聖人の祝日の前夜)が
短縮され「Halloween」となった。

その由来は、
古代ケルト人の
秋の「収穫感謝祭」に起源があり、
1年の終わりを10月31日と定め、
この夜には、
祖先霊が親族を訪ねたり、
悪霊が悪さをする、
と信じられていた。

犯人は、その悪霊の役柄を
さらに映画キャラの
ジョーカーに重ねて、
ご丁寧にそのコスプレまでしている。

それは、ある意味、
「ペルソナ」(魂の仮面)づくりとも言え、
内的動機を強化する道具にもなっている。

そして、映画のキャラを離れて、
「ジョーカー」という言葉に注目すると、
それは「トリックスター」と
換言してもよく、
「ジョークを言う者」であり
「悪ふざけをする者」という意味にもなる。

今回の事件で、
ハロウィンの余興かと思った、
という人々も少なくなかったらしい。

しかし、既遂された事件は、
「洒落にならない」
「悪戯ですまされない」
犯罪である。

逮捕後の手錠をされた姿は、
何処か「憑き物が落ちた」ような
表情をしていた。



今回の犯人も
ヘルパーという介護職だったが、
『和歌山毒カレー事件』の
林 眞須美(死刑囚)が
看護学校を出ていたり
『やまゆり事件』の
植松 聖(死刑囚)が
介護職員だったり…
という事と関連させると、
「助け」「救う」側に
一度は身を置いていたわけである。

この事は、
主客を反転させると
ほんとうは"魂の深い処"では、
「自らが助かりたかった」という
「メサイア・コンプレックス」
があったと思わされる。

この卑近な例では、
カウンセリングにくる
クライエントのなかにも、
自分も心理職になって
人助けをしたい、
という人が少なくない事が
あげられる。

なので、
カウンセラーのお定まりの
「直面化」の文句に
「あなたは、ほんとは自分が
助かりたいんではないですか?」
というのがある。

意識化されない深層心理で、
ほんとうは自分が救われたい、
という強い願望を抱いていると、
「感情に彩られた心的複合体」
とユングによって定義された
「コンプレックス」
(ゴチャゴチャした心的状態)となり、
投影やら同一化やら憑依やら
プリミティヴ(原始的・粗野的)な
情動となって行動化される事がある。

それは、ソフィスティケート(洗練化)
という理性的フィルターを
経ていないが故に、
スプリット(分裂・両極化)したままで
極端な思考法と結論に帰結し、
「死にたいから殺す」
「腹立つから殺す」
「要らないから殺す」
という、反社会的なビリーフ(信念)に
フィグ(固執化)するのである。

原住民の中にも起こる
突然の殺戮事象は、
遠回りの「自殺」であり、
その「狂い」の発現は、
オートファジー(自食)遺伝子の
先祖返り的なスイッチが
オンになる状況とも考えられる。

もう一つは、
閉鎖システム内で
種の維持のために起こる
環境フィードバック的な
ホメオスタシス(恒常性維持)
効果によるものがある。

水槽内でミジンコを飼っていると
一定数まで繁殖し増加するが、
環境汚染やエサの不足により
その増殖スビートには
ブレーキがかかり、
やがて頭打ちとなる。

これは、
環境要因に適応した
生物の生存戦略のために
個体間の遺伝子の抑制スイッチが
同調的にオンになるからである。

ヒトの場合、集団レベルで起こると、
カンボジアのポルポトによるものや
ルワンダのフツ族による
ジェノサイド(大虐殺)として
観られるようになる。

これらの現象は、
集団心理レベルでは
「ヒステリー/感応」
として起こり、
細胞レベルでは、
バラバラにした心臓細胞が
集合すると同じ拍動リズムになり、
ピアノで真ん中の「ド」を弾くと
オクーターヴ違いの「ド」も
共鳴するという事と
いずれも通底している。





あさっては午後から
SCコーディネーター研修会の
スーパーヴァイザー役が
『テルサ』で行うので、
スーツに合わせるドレスシャツの
ボタン付けをした。

襟元のボタンを
5㎜ほどずらして緩めると
半日タイを締めていても
さほど窮屈にならないのである。

そして、
古いシャツも
流行りのワイドっぽくなり
一石二鳥である(笑)。

年に何度も
DIYの裁縫仕事を
楽しみとしてしているので、
うちのカミさんも
料理・裁縫では
ずいぶんと楽しているだろう。














コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 終活の心準備 | トップ | 初オイルDIY »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

藤井 聡太」カテゴリの最新記事