遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



 

太陽の民族として悪魔と対話する - In Deep

 

これは 岡さんへの 手紙というか 岡さんの記事を見て書きました。イスラエルの惑朕による死者が多いから 由堕也は わるくないってことはないと思いますよ。まぁ 英国も米国も日本も多くの政府が、あたりまえのことですがロシアでさえも国民の免疫力を非常に低下させ病気にかかりやすくし死にいたらしめるお注射を推奨し接種をつづけています。由堕也人のヒトラーは由堕也人を殺し 大日本帝国は自国の子どもたちを虫のように戦地に送り戦災孤児を虫のように放置し蟻のように軍需工場で働かせ虫のようにとベニヤや魚雷に乗せて殺しました。それはもう昔からずっとそうです。権力者と人民のタタカイの構図というなら圧倒的に権力者の勝利です。プーチンもトランプもありません みな組み込まれ セットなのです。そのような世にあって普通の人たちも権力には敵わない 金さえあれば という風潮になり 意図的にもそうされて 今の世があると思います。ですから由堕也や政府だけが悪いのではなく 普通の人たちにも罪がある。第一戦ってこなかったし。政治とかめんどくさいこと考えるのいやだし 不平等とか自分以外の人が苦しむことなど考えるのもいやだし……

しかし 各国の政府に檄を飛ばし手下を首相に据えるシュワブーは 何故由堕也なのでしょう。ふぁうちーもそうですね。英国の貴族社会 DS あらゆる闇 金の集まるところ 力の集まるところ 後ろ暗いところに彼らはいる。そして各国の政府を乗っ取り牛耳っている。それは由堕也が使い魔だからだとわたしは思っています。由堕也の背景には姿を隠した巨大な悪がある。由堕也はそのようにつくられた。ひとを堕落さでるようにつくられた  

かつて 王仁三郎が由堕也は悪をもって善となす と訳の分からないことを言いました。 今思うにそういうことなのだと思います。つまり今起きていることは善い方向に向かうための ミソギです。すべてが明るみに出ないではいない。澱をながすための火と水の洗礼 キリスト教的にいうとパブテスマです。ふつうの人も等しく受けなければならない。自分がなにをやってきたか こなかったか 見つめなければならない。

かといって由堕也、それに仕える各国の政府官公庁や嘘つきの医者やもろもろが罪がないことにはならない。彼らは自分自身で罪を贖うことになります。世の中はそのようにできているのです。自分のしたことはよきこともわるきことも自ずと自分に帰る。

由堕也の最大の敵はキリスト教の神でした。単なる近親憎悪みたいな気もしないではないですが。神がいないことを証明するために悪事をなしているというよりは 神の存在に恨みをもち穢したいのだとわたしは感じます。だから 経血を飲む 赤子をいけにえにする 産めよ増やせよ地に満てよ という神のことばに反する人間を堕落させるあらゆることをするのでしょう。ひとはそれを見てよろこぶものでしょうか。ひとの本質はそれを喜ぶとは思いません。この戦争は単にパンデミックを装った殺戮ではありません。神への戦いなのです。またイザナギイザナミをも想起させます。おまえが一日に500人殺すなら....わたしは一日に1000人.... 

わたしはクリスチャンではありません。がいくつか不思議な体験をしました。エッセネ派の修行の場 クムランの砦を見たことがあります。ヨシュア(イエス)は愛のひとではなく義のひとと呼ばれていたそうです。岡さん わたしは あなたを 義のひと と思っています。この度のことは ホピの四つ目の災厄 古神道でしたら八回目の天地かえらく 怒るべくして起きた ひとつの文明の終焉です。そして この度の火の洗礼を生き延びたひとたちの手で新しい世がはじまると わたしは信じています。



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国津神の神社にご参拝すると 自分のうちなるものが震える 振るえるのです。

あたたかさに 清らかさに 土と水の息吹に ひかりに

おそらく DNAのなせるわざなのでしょう。

伊勢神宮の 氣 は合わないようです。官幣神社 も 苦手です。

伊勢神宮にしめ縄がない理由

この記事を読んだとき わたしは ストンと腑に落ちた気がしました。

しめ縄 は 結界 であるとともに ここから出るな ということ

国津神の封じ込め......  締め 閉め 絞め 〆 

なるほど そうかもしれない と思いました。

 

今 日本は とても あぶないところにさしかかっています。

大峠です。 この国は不思議な国 豊かな清らかな国でしたが 

今はがんじがらめに縛られた龍のようであります。

縛めをほどくのは あかなのこころ 祈り .....

祈りとは一瞬の思念の凝縮 自分の富 お金 健康もよろしいのですが

まず 自らの氣涸れを詫び 太陽に水に感謝し 国を思うこと。

日の本のひとびとは 朝に夕に お天道さまに祈り 風を読み雲を読み

いのちの糧をさずかってきたのですが いつのまにか 有り難いと

いう気持ちをわすれてしまいました。

 

伊勢神宮に注連縄がない理由

縄文という名称は 「縄文」という名称は、エドワード・S・モース(Edward S. Morse 1838年 &…

時間探偵

 

 

国の未来 国土と種子 生まれてくる子どもたちを思うこと

みらいのために つかっていただけるよう 祈ること 行動すること

これから 7.8年 苦しいときは つづくかもしれないが 生きること。

自分のうちに縄文の神々を呼び覚まし ともに生きること。

それができるなら 恐れはない 終わり はこない。



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夕方 いつも通る道を逆に向かう時 ギョッとする。それは沈みゆく太陽光が真っ直ぐ目に飛び込んでくるからだ。眩しくて車の日除けを下ろす。そしてむくむくと立ち上がる違和感を抑え込もうとする。太陽の位置 太陽の位置が違う 左にずれている。

そんな莫迦な と思う。しかしよくよく考えて見ると 朝日の昇る位置もおかしい。30年前 この家を買った当時は道を挟んだ隣家の庭から夏の太陽が昇った。…と思う。だが今は。

だれも気がつかないのだろうか と検索してみると エスキモーの方たちもそう言っている。ポールシフトはこんなふうにしずしずやってくるのだろうか。揺り戻しとかないのか 磁気の変換は何時ごろ どんなふうに起きるのだろう。

太陽や月を見て不思議なことはままある。仕事先から帰る時 月が大きく 黄色く見えるスポットがある。そこを通り過ぎると見慣れた白いこじんまりした月。いつも騙されたような気持ちになる。

太陽がものすごく大きく見える時がある。

わたしは確固とした世界に住んでいるわけではないのだと思う。不定形な不確かなふよふよしたいつ裂け目が わたしたちを呑み込むかわからない 不条理極まる世界に住んでいる。ホピの予言によれば 今度の天地かえらくは 神裁きは 火と水とポールシフトとそれからもう一つが一度気に来る。



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神社にご参拝する際  本殿の写真は  なるべく  撮らないように   撮影するときは まず お詣りし   写真を撮らせてくださいますよう   とお願いして  離れたところから 或いは斜めから  撮るようにしています。

 

それでも  シャッターが切れないときがある。 何度やっても。そういう時は お詫びして 諦めます。

先日  前宮で  ボランティアの ガイドさんに強く勧められ  撮るしかない  と ……   でも数度  試みて シャッターが切れなかった。まわりの方は パチパチ  撮っていらっしゃるのに。

 

それが  今日   見たら  写っている。それも おかしな 写真。

 

 

意味不明です。石垣なんてどこにもなかったし。

どういう意味だろう。

神さま   おゆるしください。

それもあって    今日の旅は  アイパッドは 持って行きませんでした。

 

 

 本宮    東のわたりの手前から    諏訪湖方面を見る。



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ヤシロとは神の降りるそのとき限りの場所であった。

ヨリシロとは神が降りるモノ

ヨリマシとは神が降りるヒト

神は常時  おわすわけではなかった。

神は振動するもの そのスガタを換えるもの   強大なエネルギー

波動   ひかり  熱   音   水

 

美しい国という

波動に満ちた国    ひかりさやけき国   水清き国   ひとびとが天を敬い

欲なく  よろこびはたらく国     愛もまた  波動 ひかり

 

波動を乱す者は神を冒涜するものである

水を穢す者は神を冒涜する者である

穢れ  この地に充ち満ちて  ヒトのこころ   天より離れしとき

八度目の天地かえらく  起きるという

 

 



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台風はサイバイ(災焙 災培)できるとか....

ちょっとだけ ズレたようです。どうか 被害が少なくてすみますように。



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わたしの頭は3日前から 停止しています。もとはといえば ホピの予言を読み返したその3日前からなのですが......

死海文書の謎 という本を買いました。この古本屋は過去にも不思議なことがあった古本屋でした。10年前 夫から目が見えない(左目はその後復活しました)....という電話をもらった日 わたしはうらわにいて この古本屋で二冊の本を買ったのです。背表紙が浮き出ているように見えた....手に取るようにうながされて とった本は ホピの予言と 古神道はよみがえる。共通するなにかがあった。
天地かえらく...... ほかにもあった。ホピの予言を読み返したことが深層心理にあって ひさしぶりにアラキ書房を覗いたのでしょう。

また ゲームをしているよと軽く考えていた北朝鮮のミサイル発射..... ホピの予言を読んで ひょっとして世界は今 分水嶺の上かな どっちへ転ぶか... という気がしました。予言によれば わたしたちが生きている第四世界は 第三次世界大戦がひきがねになって滅びる その予兆が空に打ち上げられた家.....。 第一の世界 第弐の世界 第三の世界は それぞれ火とポールシフトと水によって滅びたが 第四の世界ではそれらが一度にやってくる.... ホピ(米先住民の部族のひとつ)の予言には 金のいれものに入った灰が災厄をまねくとあり ヒロシマナガサキを知ったホピのひとたちは 門外不出のホピの予言をたずさえ このままでは文明がほろびると 国連に訴えたのです。詳しくはどうぞ ホピの予言を読んでください。目は開かれることでしょう。

死海文書の謎 ... その本のページは ほとんど 文書が告げる事実について 教会の関係者がいかような合意 をむすび その事実を封印しようとしたかに費やされていました。教会キリスト教にとって それは「都合のわるい事実」だったからです。文書は紀元前から紀元後 イエス・キリストの生涯のはいる200年ほどのもので 11の洞窟に分散された40の壷のなかに羊皮紙 パピルスに記された文書がム眠っていたのです。クムランには クムラン教団のひとたちが生活していた .... ヨハネやイエスの属したといわれるエッセネ派ばかりでなくいくつかの派があり 途中 ローマの襲撃を受けて砦が閉鎖されていたときもあったようです。

20世紀最大の発掘と呼ばれるように 従来の 宗教史や ユダヤ イスラム キリスト教 の教えをくつがえすものが含まれていました。壷のなかの旧約聖書は現代のものとほとんど変わらなかったそうです。では 死海文書が示す事実とは ....

イエスはメシアではなく 義のひと と呼ばれていた。

忍従のひとではなく 戦うひと だった。

律法の遵守者だった。

この本に言及はありませんが イエスには妻があり それは マグダラのマリアでした。

発見されたふたつの福音書にあきらかにされており イエスはマリアにくちづけしていたという表記もあったのです。

この事実だけでも 教会キリスト教は 崩壊します。

けれども わたしが 自分を失いそうになったのには それとは違う 理由がありました。

 

話は10年前にさかのぼります。この古本屋に行ったころ わたしは 電車のなかで クムラン..クムラン..という呼び声をきいたのです。クムランっていったいなに???その日 古代史研究会で講師の口から クムランの名がでたとき わたしは飛び上がりました。
そして またまた偶然なのですが 予約していたヒプノセッションに行った。そこで クムランがでてきた。いくつかの映像 クムランの崖 墓 .... そしてものがたり。裏切りと苦渋の人生をわたしは”追”体験しました。(ヒプノセッションとは 過去生を追体験することで 今の人生をやりなおす意味があるそうです。わたしはクムランにいた....そして 教えを裏切り 海辺の村で年をとり”ベッドのうえで”家族にかこまれ死んだ。死ぬとき 胸にあたtのは痛切な懺悔の想いだった。) そのセッションが終わったとき 疲れ果ててはいたがある種 清々とした気持ちになったことは事実ですし 強烈な体験だったのか 2度 ほど このブログにも そのときのハイヤーセルフ 超自我のことばが書きのこしてあります。けれども それが 事実だったとは わたしには信じられませんでした。不思議な体験をした....くらいの気持ちでした。

ところが 三日前 買った 本の記事を一昨日 電車のなかでめくっていたとき 写真があった。クムランの崖 .... わたしが視たのは 緑の草がはえた崖だった。 岩石と土の崖ではなかった。

そして 墓 .... ケルンのようにとがった石を三角錐につみあげた墓 わたしは たしかに それを視た。 庭園のようになっていた。墓がならび 墓のうえに 枯れた花が置かれていた... 子どもの墓 愛するものの墓 だと 思った。

10年の時を経て 眼前にあることの不思議。

わたしのその後の10年は 半ば死んだも同然だった。翌2008年3月 先生と訣別 近江楽堂で マグダラのマリア を 語った。 そこには ....偶然朝倉翁が彫刻したマグダラのマリア像があった。 ひかりが 降った。細かい細かい光の粒子がさんさんと降った....。

そのあと いったい なにをしてきたのだろう。

これから なにかが できるというのだろうか なにが できるというのだろうか。

ひとの本質が光であることを伝えなさい それが最大の愛であると ハイヤーセルフは 語ったのだけれど。

 



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子どものおはなし会にこの夏 2回 行きました。

こどもたちの大好きな怖いおはなし会。

なんの気もなく ふと

「みなさんのなかで こわいもの 見たひとはいる?」と訊いたら

各回とも4.5人の子どもが手をあげました。

話を聴くと とても リアル でした。

ある男の子(小三)

「ぼくの手や足をつかむ手が見える」

あなたは そのとき どうするの?

「ぼくはなにもできないけれど あなたがしあわせになるように祈りますっていいます。そうすると 手 が消えます」

ある女の子(小五)

「五歳のとき ここ(左肩)に子どもがいた。その子はわたしを守ってくれた。今もいると思う。」

子どもは純だから 視えるのでしょうか。

わたしが見えるはずのないモノをはっきり視たのは 四回です。

一度は 子どものころ 浦和市の焼き場のウラ山(浦和レッズの本拠地のすぐソバ)で...

二度目は 改築前の 横浜ニューグランドホテル シングルルーム 23:55 とても背の低い パーマネントの女のひと

三度目は 叔父が亡くなった 翌朝未明 .... 志木の家。叔父のお守と清めをひとりでした朝 亡骸の向こうで 深々と叔父は頭を下げていた。

四度目は 我が家で.... 目が覚めるとそのひとは隣に寝ていた。頸から上は見えなかった。肩のホクロがはっきり見えた。

「視える」よりも怖いのは まざまざと「感じる」ことです。

ときどき 死者の声が聴こえることがあります。じつは 三日前 長野で それがあって.....記事を書いてみました。

 



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