今日は 語りに行って いつもよりは 自由に 語れたので トゥで立ち上がって踊りたいくらい朗らかな気分である。語りはちいさな場所のためのもの であるのだが ステージそして 聴き手が幾分か多い方が なにかが 降ってくる 確率は高い。
それは 細かい細かい 光の微粒子だったり 雪だったり する、 そんな時 トランス状態になっていて わたしは つなぎ目でしかなくて それなのに ものがたりは 一層 明晰に 豊かに 其処にあり 私は 少し 上から 語る自分 と 聴き手を 観ている。波のようにエナジーが 語り手と聴き手を 行き来する。
今日の場所はとても小さく 聴き手も20名 いたかしら……
怪談でありました。
語りを教えている……20年前 自分のような語り部を 発掘したくて ユニットをつくった。ひとりでは寂しすぎる…… これは ポーの一族のエドガーのことばだけれどわたしも寂しかったのだ。どこへ行っても 本を暗記して 語るストーリーテラーしか いなかったから … 僅かに ネイティブの昔話の語り部さんは生き残っていてその人たちの方が つながれたけれど……
トランス状態とか 降ってくるとか 全く 理解してもらえなくて ただ 孤独だった。 だが 教えるとなると それは 言うに言われぬ20年だった。つなぎ目になれ ものがたりの器になれと言ったって それは 無理。仕方なく 演劇の基礎を通して 感覚を呼び覚ますこと 幼年時代を引き寄せること さまざまなエクササイズ 即興劇 ヒーリング 整体 できることはなんでも やった。 ユニットとしては どこにでも もってゆけるようになった。ところが 今になって みんな 個では 語れない 語り部だと気がついた。あと 最後の仕上げです。みんなが ひとり立ちできるように。
この間 気づいたのは 魂に欠落 裂け目 深い傷が あると 語り部にはなりにくい いやはっきり言って無理だということ。 ヒビの入ったクリスタルのグラスを想像してみてください。傷のあるお鈴でもいい。叩いて鳴らしてみてください。響きが出ないでしょう? 語りとは共鳴 共鳴を起こせないのです。
語りながら 癒やされてゆくひともいるけれど その傷が 幼い時にできた傷の 場合 は修復は難しい。傷の存在にさえ気がつかないから直しようがない。たとえ気がついても認めなければ 救いようもない。去ったひともいるし もうやめた方がいいよ と別れを告げたひともいる。この頃は もう時間もないので 三年で諦める。
ひとりひとりが 独立した語り部の 集団でありたい。 みんなで1時間のプログラム を公演するとして 脚本 小道具大道具 段取り 練習 リハ わたしは もうひとりでは体力的にできないしね。
そして これがキツいところなのだが わたし自身が ひとりの語り部として 自由を失いつつあるのだ。みんなで語ると 自分で自分を抑制してしまう。行きたいところに行けない。ストッパーをかけてしまう。二兎は追えないのか!?
今日は 若干 腹を立てていたせいか ちょっとだけ 自由に語れたので それがうれしかったりして。
わたしは 一語り部として 行けるところまで 行きたいと願っていた。名利を求めるとか そんな意味ではなく 抑制をすべて外して 聴き手の深層意識とつながってひとつになってみたかった。それが 生み出すものは 場合によって 恐ろしいものかも知れないけれど。一生に一度くらい いいじゃろう? あ 藤井風。
何も持たずにゆくために やっちまいましょう。二兎を追いかけまぢょう。臆病な アタシにサヨウナラ。
あちこち封じてしまって入れる箱がないのでウソに入れた。