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宜良ダックを探して⑥

2011-08-14 16:48:29 | Weblog



 写真上2枚は呉三桂が一六七一年に雲南一帯の王「平西親王」となったことを記念して建てた金殿とその扉。昆明市北東の山上にある。
 すべてが銅で鋳造され、現在も人々の尊崇をあつめている。写真下は呉三桂が創建後、自身が用いた大刀を人々の観賞用にと金殿に展示させた大刀。長さ二メートル、重さ一二キロあるという。(写真:2004年撮影。)

【宜良烤鴨の歴史】
 「宜良烤鴨」は2009年8月に、過橋米線や宣威ハム、タイ族医薬など124項目とともに雲南省級の第2批非物質文化遺産に登録されました。それほど雲南の人が熱愛する「宜良烤鴨(雲南ダック)」の歴史と特色はどのようなものなのか、少し、過去をひも解いてみましょう。

 宜良県の陽宗海の近くにある「狗街」。この街に、かつて悲劇がありました。
 さかのぼること480年余り前の明朝滅亡(1628年)の後、明の皇帝の子孫を擁した明朝ゆかりの人々によって南京に南明政権が樹立され、中国を支配する清朝に頑強に抵抗を続けていました。とはいえ、もともと軍事力でかなうはずもない南明朝は、あっさりと満州族の清に南京陥落を許し、浙江省沿岸地帯の紹興、さらには鄭成功のいる海上、福建省福州へと逃亡を続け、最後に明から清へ鞍替えした将軍・呉三桂によって永暦帝が捕らえられて永暦15年(1658年)に昆明にて処刑され、南明は幕を閉じました。

 このとき「狗街」は南明を支持し、清に激しく反抗していたことから、呉三桂によって付近の住民とともに残酷な鎮圧を受けたというのです。これは住民の記憶に永く残ることとなりました。
要するに、狗街は、どちらかというと漢民族主体の街だったともいえます。

 時は過ぎて、清朝末期の光緒28年(1902年)、狗街に暮らす許実という青年が、街の資産家の援助を得て、科挙の試験を受けるために北京に赴きました。さて目的の「会試」までにはまだ間があると、紫禁城付近に宿泊し、花の都北京を堪能します。

 いつの間にか「許実」から「劉文」へと名を改めた彼が北京で身につけたことは、「科挙」合格の資格ではなく、胡同(フートン)の一角にある、老便宜坊(庶民向け食堂)の北京ダック店で学んだ「烤鴨」の技術でした(当時、中国の淮河以南に住む、いわゆる南方人が北京に官職を得る目的で多数、上京しており、彼らが老便宜坊に多く通っていたという。《愛新覚羅瀛生「老北京与満族」より》)。

 帰郷後、北京でおぼえた技術を改良し、経営に邁進した結果、その名声は雲南中に響き渡ったということです。

 一説によれば、「許実」から「劉文」に名を改めたのではなく、ご主人様の「許実」のお供をした農民出身の「劉文」が北京で身につけた、という説もあります。そのほうがつじつまはあいそうですし、多くの出版物にはそう、書かれているのですが、なぜか狗街の出版物では、科挙受験者が「名を改めた」に固執しているのです。今回は、出身地の地方志を採用しましょう。「真実は奇なり」とも申しますので。           (つづく)

*猛暑の続く日本。楢も木楢も枯れてきて、いままでとは明らかに違う暑さに突入したような気がします。体調管理に注意しましょう。笑いも忘れずに。
 さて、私、2週間、イタリアに行ってきました。(5時間以上の時差は20年来なかったことです。)
 明朝、西欧人宣教師として初めて皇帝に拝謁し、様々な西欧の科学知識を中国に伝えたマテオ・リッチの故郷・マチェラータ、マルコポーロの故郷・ベネチアなど。とはいえ、イタリア語は同行者全員が急場でNHKテレビのイタリア語講座を受講したのみ。それでも、なんとかなりました。たとえ乗るはずの列車が、出発時間まで電光掲示板に掲示されていたのに、出発時間とともに静かに消え、何事もなかったかのようにアナウンスすらないローマ・テルミナ駅があったとしても。
 おかげで不安はマックス。聞かないとなにも答えてくれないローマ。その答えも正しいとは限らない。なんとか乗った列車は今度は出発の笛が鳴っても20分以上、ドアの開け閉めを繰り返し、ようやくゆるゆると出発。その先の乗り換えが複雑になり、どうしたらいいのかとにかく、行く場所を言い続けているうちに、なんとか親切なおおくのイタリア人に「この列車じゃ」のようなことを言われて、動物的勘でたどりついたマチェラータ。私たちが列車で着いた後の出発日に廃線になってしまったマチェラータ駅。町は中世の町並みが保存され(日本のように古いものは即座に壊すという意識がないようだ。)、町のあちこちで文化講座が開かれ、マンツーマンの学芸員付きの博物館が随所にあり、世界的にも有名な、オペラ通の集う「マチェラータ音楽祭」があり、といったものすごく、イタリアの穴場的なよい町でした。町からはタクシーで抜け出ました。
 おお、日本、と応援Tシャツを着て歩いている方も。醤油や豆腐など、日本の食材を売っていることを、ことさら強調してくれる店員さんもいました。
 しかし、イタリアの人は、こちらがイタリア語ができまいがおかまいなしに、よくイタリア語で話してくれます。とてもおおらかです。ジェスチャーや目の動きが大きいので、よく見ていれば雰囲気で話が進んでしまうのもすごいこと。とくに女性には。英語は、通じませんでした。イタリアは逆に冷夏に苦しんでいました。農作物のなりがよくないとのことです。(ちなみに雲南は一部地域がひどい日照りに苦しんでいます。)
(NHKイタリア語講座のマリア先生と「ひとりあるきのイタリア語」の本、グラッチェ!)
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4 コメント

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Italia! (nakachun)
2011-08-15 21:28:56
nakachun です。時々拝見しています。
NHK のイタリア語講座で勉強したとのことですが、あの番組では、イタリア人のおおらかさは勉強できてもイタリア語が勉強できるのか、不安になりませんか?ときどきちらっとみるだけですが、いつもそう思います。ただし、今年はまだマシのようですが。去年?一昨年?忘れましたが、講師が誰かすらわかりませんでした。
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RE:Italia! (もっくん)
2011-08-15 22:03:24
 お暑い中、ごらんいただいて、ありがとうございます。
 NHKのイタリア語講座は文法をきちんと押さえようと思うと、なかなか難しいとは思いますが、女性名詞と男性名詞が必ずあることや、定冠詞もそれで変わってしまうこと、主語なしで文が完成してしまうことなど、知らないことばかりで、私には興味深いものがありました。英語に近い言葉だとばかり思っていたので。
 イタリア映画が好きで小さいころからよく観ていたのに、こんな不思議な文法だったのか、という衝撃! 一回の放送分を2,3回繰り返して見ると、すこーしわかってくるように思えました!
 しかし、ローマで出会う日本人観光業の方が、必ず「イタリアでは、これが当たり前ですから。驚かないでください。ヨーロッパで一番、中国に近いといわれています」と早口で言われるので、いつも日本人客にいろいろと文句を言われているのだなあ、と気の毒になりました。すごかったのはローマが随一でした。
 一度、世界を制覇した国は、細かいことに気にしない度合いが大きいのかもしれません。
 なんでもきっちりしていることがばかばかしく思えて、商談成立などのビジネスがらみではない私にはのんびりできる国でした。
 
 
 
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Itarila!? (nakachun)
2011-08-16 23:31:40
> 女性名詞と男性名詞が必ずあることや、定冠詞もそれで変わってしまうこと、主語なしで文が完成してしまうことなど

これらは、ポルトガル、スペイン、イタリア語あたりで(もしかしたらフランス語も)で共通の特徴かと思います。ある程度のボキャブラリーがないと活用を覚えることができないですが、その後はなんとなくいけるのでは?と思います(ポ語の類推で・・・)。世の中の生物には、ほとんど男女の区別があることから考えると、単語に男女の差異があってもそんなに不自然な発送ではないのかもしれません。確かに英語はこれらとは全然違う言葉のような気がしています。なぜでしょうね。
 イタリアは食にはこだわっている(ように感じますが)国で、麺も中国より伝わったものと聞いています。そういう点では中国的なものとマッチしている国なのでしょう。ただ、中国的なもの、時折考えてみますが、一通りでないところが意外に一言でまとめるのが難しいところかと思っています。イタリアもイタリアらしいもの、というものはなく、連合国家のような成り立ちだ、ということを聞いたこともあります。イタリアらしいもの、というものも実は微妙な存在なのかもしれません。



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Unknown (もっくん)
2011-08-19 10:11:17
 そうですね。フランス語などと同様の特徴だと聞いています。ただ、私にはとても新鮮だったので。イタリア語の高みをめざしてないので、気軽なのです。
 
 また、イタリアに行く前の知識で、私もなんとなくイタリアは小都市がそれぞれ独立していて、戦争ばかりしていた、とは感じていました。が、ローマからアドリア海に抜けるように横断すると、マチェラータもそうですが、オリビエート、オットー、アッシジなど、いくつもの中世からの趣ある街が平地から突き出たような不便な山の上にわざわざ作られている様子が見えました。
 教皇派、皇帝派の対立や、隣町との戦争やドイツ方面からの戦争など、とにかく激しい戦争つづきで、「守り」のために街ごと平地から山上へ移動したのだとか。    nakachunさんのいうように、これほど一つの地域だけで分断されているのですから、一言でまとめることが難しい国なのでしょう。
 また、八百屋を見て気づいたのは、中国各地の市場に比べて野菜の種類が圧倒的に少なかったこと。チーズは牛の乳、山羊の乳といろいろありましたけど。
 でも食は、すでにバカンスでからっぽになったミラノをのぞけば、外れはなかったです。ピザ生地の上のぐつぐつチーズ、アルデンテとはこういうゆで方なのか、と実感させられる麺のゆで方へのこだわり、イタリアのとくに男性が食べるときの表情、などこだわりが自然と伝わってきました。
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