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スペインとポルトガル25 シントラのペーナ宮殿2.

2021-10-03 10:15:07 | Weblog
写真はペーナ宮殿の道すがらに生える植物。よく手入れされている。時折、付された植物の名前が書かれた札には「JAPONICA」と書かれていた。

※今回はなぜ、日本でよくみる植物がペーナ宮殿に行く道すがらで見られるかの検証です。

 【新規な植物・日本発】
マリア2世の夫であるフェルナンド2世がペーナ宮殿の築城を指揮していたころ、オランダ、ドイツを中心に日本直物の一大ムーブメントが巻き起こっていました。仕掛け人はドイツ出身のシーボルトです。

 少し、日本植物がヨーロッパへ渡る年を細かく見ていきましょう。(以前、ライデン、ゲントの訪問記のときにも書かせていただきましたが、より詳しめです。)

彼が日本植物をプラントハンターとしてせっせとヨーロッパに送っていたのが1825年から30年。1828年12月にシーボルト事件が起きて1829年に日本追放。その際、シーボルトがジャワへと一緒に持って行った株が2500種類12800株ありました。

追放処分を受ける前から何度かシーボルトは日本の植物の移送に成功し、オランダのライデンに到着してはいました。とはいえ、この時が最大の持ち出しです。

1830年に日本の植物を大量に送った船がアントワープに到着。その時良好な状態の株は260種類ありました。ところがちょうどこの時、ベルギー革命が勃発(1830年8月ブリュッセル)。ベルギーとなったアントワープからオランダのライデンへ運ぶことはかなわず、植物の多くはベルギー領内のゲントに移送されました。

これによってゲントで日本の植物を増やしてベルギーは大もうけしたといいます。ただし、あまりにも濡れ手に粟だったためか、翌年には増やした株の一部である80種をライデンにいるシーボルトのもとに「返還」しています。

 一方、オランダから日本へ派遣されていたシーボルトは、日本追放後はライデンに居を構え、日本の植物の育成(馴化)と、整理に着手します。そして、ベルギー革命以前に送っていた植物の通信販売を始めました。
 通販のために必要なパンフレットも印刷され、1832年から59年にかけて22分冊に分けて発行されました。さらに1835年12月からシーボルトの死後まもなくまで続く『フローラ・ヤポニカ』の出版も始まり、植物の日本ブームが巻き起こります。

 ヨーロッパの上流階級の人々が高価な価格で買い求め始めた時期が、まさにこの宮殿の造営時期に重なります。ヨーロッパでの特徴のある庭園を造りたかったフェルナンド2世にとって初物買いの時期にぴったり。

※参考文献:大塲秀章「ジャポニズムの先駆けとなったシーボルトの植物」≪人間文化≫VOL.26、2016年 他

(つづく)
写真はペーナ宮殿に登る道の脇の庭園にて。上はソテツ。下は(おそらく)ハラン(葉蘭)。ソテツは日本を含むアジア原産。ハランは日本からヨーロッパに持ち込まれ、広まった。江戸時代の園芸品種の一つ。


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