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(目次)
プロローグ(8)
008.中東を流れる三つのアイデンティティ(3/3)
三つ目のアイデンティティとしてあげた「智」は主義、主張を伴った政治的あるいは経済的なイデオロギーのことである。「智」の対立が起こるのは宗教の束縛から解放されてからである。西欧では中世以降、産業革命を通じて経済面で重商主義が起こり、さらに資本主義へと発展していった。その過程で富の分配の不平等が問題となり、社会主義、共産主義のイデオロギー、すなわち「智」の世界が広がっていった。
それが世界レベルに広まったのがロシア革命によるソビエト社会主義連邦(ソ連)の誕生である。そもそも西欧資本主義とソビエト社会主義は互いに相容れない性質のものだったが、ドイツ・ナチスの全体主義に対抗するため両者は共闘してこれを打倒し第二次大戦を終わらせた。しかしその途端米ソ二大陣営は鋭く対立、「冷戦時代」となった。「冷戦」と言っても実際には世界各地で両陣営の代理戦争―熱い戦争―が発生、中東もその舞台の一つになったのである。中東ではイスラームの呪縛から解放されないまま第二次大戦後にイデオロギー戦争に巻き込まれた。このことが後々の混乱を拡大したのである。
改めて「血」と「心」と「智」の時系列的な発生の順序を考えてみたい。「血」はDNAとして先天的、遺伝的に身に備わったものである。それに比べ「心(信仰)」と「智(主義)」は後天的なものである。さらに「心(信仰)」はほとんどの場合物心のつかない幼時期に身に染み付く。キリスト教徒の赤子は洗礼を受け、そしてイスラーム教徒(ムスリム)の場合はモスクから流れる祈りの言葉「アザーン」を子守唄として成長する。それに対して「智(主義)」は教育(特に高等教育)を通じて個人の頭脳の中に刷り込まれる。つまりこれら三つの要素が人間に取り込まれるのはまず先天的な「血」に始まり次に「心(信仰)」であり、「智」は最も遅い。これがごく自然な順序と言って良いであろう。
国家レベルで見ると「血」の民族国家、「心」の宗教国家。「智」の資本主義あるいは社会主義国家が形成される歴史的な順序は異なる。西欧社会ではそれらがそれぞれ相当の時間差(タイムラグ)で歴史に登場しており、同時並行的に現れることはなかった。ところが中東ではそれら三つの要素が第二次大戦後の70年という短い歴史の中で同時並行的に登場している。戦後中東の混乱と悲劇はそのような土壌の中から生まれたものではないか、というのが筆者の見方である。
(続く)
荒葉 一也
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