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(目次)
プロローグ(5)
005.ヨーロッパとアジアをつなぐ中東(3/3)
ヨーロッパが南アジアに直接到達したのはアフリカ南端の喜望峰を経由する帆船ルートであった。陸上ルートはオスマントルコ帝国或いはペルシャ帝国との中継貿易に頼らざるを得ず自由な交易が阻まれていた。こうして15世紀から17世紀に「大航海時代」が訪れた。ヨーロッパ勢が海に乗り出した最大の理由はオスマン帝国の領土を迂回して胡椒や紅茶などのインド洋沿岸諸国の富を手に入れ、或いは中国の陶磁器、日本(ジパング)の金銀を手に入れるためであった。
こうしてヨーロッパ諸国は南アジアからインド洋の沿岸伝いに東へ東へと進出していった。帆船による点と点を結ぶ東洋進出であり、「大航海時代」は交易の時代であった。自らは有力な交易商品を持たない当時のヨーロッパ諸国は、インド洋ルートの寄港地であるアフリカ、インド、東南アジア、ジャワなどの産物を行く先々で仕入れ(あるいは略奪し)、物々交換の差益を巨大な富として自国に持ち帰った。そして蓄えた富で工業化を図り鉄砲など武器を製造するようになるとそれまでまがりなりにも対等であった交易が、19世紀には武器による侵略すなわち「植民地主義」によるアジア支配の時代に入ったのである。
西欧諸国にとってアジア・ルートの最大の障害はオスマントルコであったが、植民地侵略を通じてオスマントルコ支配地域は徐々に浸食され、19世紀後半の1869年にはフランスがスエズ運河を建設、その後英国が実質的な支配者となった。こうして地中海からスエズ運河、さらに紅海を経由してインド洋に至るルートが確保され西欧列強のアジア支配は確固たるものとなった。そして1914年から17年の第一次世界大戦でオスマントルコ帝国が敗れたことにより、中東から東南アジアに至る広大なアジア地域は英国、フランス、オランダの西欧植民地主義国家が支配し、彼らはアジアの富を独占したのである。
(続く)
荒葉 一也
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