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プロローグ(9)
009.第一次大戦中の英国の3枚舌外交
第二次世界大戦後の中東を語る際にどうしても言及しなければならないのは第一次世界大戦中に英国が行ったいわゆる「三枚舌外交」と呼ばれるものである。
第一次世界大戦は英仏を中心とする連合国(日本もその一員であった)とドイツ・オーストリア・オスマントルコの同盟国との戦争であった。連合国側が勝利し、1919年に英国とフランス主導による戦後処理をめぐるパリ講和会議でベルサイユ条約が締結された。この条約は敗戦国ドイツに対して過酷極まるものであり、ドイツは領土をむしりとられ、莫大な賠償を強いられた。そこに見られたのは勝者総取りの図式である。英国とフランスはドイツと共に敗戦国となったオスマン・トルコ帝国に対しても容赦しなかった。両国はトルコ民族固有の領土である小アジアを除くレバント、チグリス・ユーフラテス一帯をオスマン・トルコから取り上げ、それぞれの支配下においたのである。それは19世紀から連綿と続くヨーロッパ帝国主義国家による植民地獲得競争の最終仕上げとでも言うべきものであり、その地に古くから生活を築いてきたアラブ民族のことなど一顧だにされなかったのである。
中東の現在につながるこのような状況が生まれる原因となったのが第一次世界大戦中に英国が結んだ三つの約束―フセイン・マクマホン書簡、サイクス・ピコ協定及びバルフォア宣言―である。これら三つの約束はそれぞれ約束の相手が異なるだけでなく、内容が全く矛盾する約束であった。そのためこれら一連の英国の外交は3枚舌外交と酷評されたのである。否、酷評されただけでは済まず百年後の今日まで中東全域に災いをもたらす結果を招いたのである。
(続く)
荒葉 一也
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