イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「人間の本性 人間とはいったい何か」 読了

2022年03月02日 | 2022読書
アルフレッド アドラー/著 長谷川 早苗/訳 「人間の本性 人間とはいったい何か」 読了

アドラーの個人心理学について、書かれたり、関連した本というのは何冊か読んだことがあるけれども、この本は本人の講演録をもとにして書かれている正真正銘の本人の著作である。もちろん一般向け書物ではあるが。
他の解説本と異なるのは、アドラーが分析した心理学を利用して、どう生きればいいのかという指針というものが書かれていないことだ。そこは表題のとおり、人間の本性はどうやってできていくのかということだけを書いている。

アドラーの心理学に特徴されるのは、人間の性格というものは、子供の頃、それもかなり初期段階にどんな生き方、教育のされ方をしたかでその人の決まってしまう。そして、それはどんなことをしても死ぬまで変わることはないと結論づけられているということだ。『子供時代のどんな出来事を覚えているかを聞くことで、目の前にいる人がどのような人間なのかをつかむことができる。それは幼い時に身につけた型から逃れることは難しいということを表している。』と、いうことは、ひねくれた性格の人は死ぬまでひねくれて生きねばならないという、身もふたもないところか始まっているのである。もっと辛辣なのは、唯一、そんな型から逃れられるのは、犯罪者が真に更生するような場合だけであると書いているところだ。なんだか親鸞の悪人正機説を思い出しそうな内容だが、あれは悪人こそ救われるべき対象だということだが、アドラーの説ではもう、すでに救いようがないのだということになっている。
だから、僕がこの本を読んだからといってこれから先、人として道徳的で誰からも称賛してもらえるような人間に生まれ変われるわけでもなく、また、これから先、僕のような人間を再び出現させないために自分の子供を正しく導くという必要もない。
僕自身はこの世界は楽しく生きられる世界だと思ったことは一度もなく、むしろ生き辛い世界だと思ってしまう方だ。しいてこの本を読む理由といえば、どうして僕はそんなにこの世の中を生き辛いものだと思うようになったのかということを知るためということになる。ただ、それだけである。

この本では、社会の中で生きてゆくためには、「共同体感覚」「劣等感」「関心」が必要であると書いている。
共同体感覚とは、アドラー心理学について書かれている本には必ず出てくる言葉だが、人間が生きてゆくうえで必要なものとして備わっているものである。わずかしか自然に対抗できない人間は、連携して生きてゆかなければならなかった。その過程でこの感覚が培われた。人は助け合って生きなければ過酷な自然の中では生き残れなかったゆえの本能的なものであり、それは現代社会にも通用するものであるというのである。
劣等感というと、何か否定的な意味に捉えがちだが、『劣等感は子どもを推し進める力にもなる。そこからすべての努力が生まれて育つ。将来に向けて人生の安心と安全が期待できるような目標を立て、目標を達成するのに適していそうな道を進んでゆく。人は劣等感を克服するために努力をするという行動をおこす。』のである。
しかし、子どもの頃に共同体感覚と劣等感のバランスを崩すと心に様々な弊害をもたらすことになる。
子どもは同年齢でも発育状況がまちまちであり、それが身体的な問題を生む原因となる。『身体的に問題のある子どもは、人生との戦いに足をとられ、共同体感覚を弱めてしまい、その結果、自分のことばかり考え、周囲に与える印象を気にして、他者にあまり関心を示さなくなる。外部からの影響も器官の問題と同等の影響を与え、周囲に対して敵対的な態度をとるようになる。こういう子どもは、自分はほかの子どものようにはできていない、対等ではないと感じている様子を示し、他者とつながらず、一緒に行動したりもしない。反対に、さまざまな不自由のせいで制限されている気持ちになって、何かしてもらおうと期待する感覚や、要求する権利を他の子どもよりも強く示す傾向がある。』という。これは精神的な問題を抱えている子供にも当てはまり、精神生活がひどく病んで乱れると失われる。
『成長する子供がさらされる誤りのなかで最も重大なのは、他者を上回りたいと思い、自分を有利にする力と立場を得ようとする誤りである。わたしたちの文化で当然とされるこの考えが人の精神を満たせば、その人の成長の仕方はほぼ強制的決まる。それを防ごうとする画一的な見解があるとすれば、それは共同体感覚を育てることである。』と、アドラーは考える。確かにそういうやつはどこにでもいる。こういうやつらも子どものころにつらい時期を過ごしたのだと思うことにするとこっちの苛立ちも少しはやわらぎそうだ。僕もそのひとりかもしれないが・・。

子どもは、弱い立場を克服するためにふたつの方法を取る。ひとつは、大人の真似をして権力のふるい方を採用して自分の意志を押しとおす。ひとつは相手が折れずにはいられないような弱さをみせるかどちらかである。
また、問題が生じた時にもふたつの方向に気分が別れてゆく。ひとつは楽観主義で、課題が生じても円滑に解決できると見られる性格を自分の中に育てる。勇気、開放性、信頼、勤勉さなどである。ひとつはこの逆である悲観主義である。気弱、引っ込み思案、閉鎖性、不信など、自分を守ろうとする性格である。
そして、その感覚は大人になっても変わることがない。

まあ、ここらあたりで自分の性格を自分で眺め直してみると、相手が折れずにはいられないような弱さを見せる悲観主義者だなとつくづく思うのである。これ以上書き続けるとあまりにもみっともないことになってしまうので書くのをやめておこうと思うのだが、ほぼ共同体感覚というものが欠如した状態で生きてきたのかもしれない。
しかし、アドラーは、『共同体感覚は、ぼやけたり、制限されたりしながらも一生ずっと存在し続ける。順調なときは家族だけでなく、種族や民族、人類全体にまで広く向けられる。』とも書いている。パソコンでいうところのセーフモードで生きているときにはだれでも共同体感覚を発揮できると言ってくれているのだろうけれども、それではまっとうに生きていけるだけのパフォーマンスがないということだ。
結局、あなたは、あまり目立たず、できるだけ他人との接触を避けて静かに生きていきなさいと言われているようである。そうなると、アドラーが書いているとおり、『周囲の人と親しい関係を作るのは難しいことだが、他者との関係は人間を知る能力を伸ばすのに絶対絶対に必要なものである。人間を知ることとほかの人とつながることは、互いに関係している。理解が足りないせいで長らく他者と離れていると、再び関係を築くことができなくなるからです。』とどんどん世捨て人のようになっていかざるを得ないとなってくるのだ。
まあ、残りの人生もそんなに長くはないのだからセーフモードでもいいやとも思うのであるが・・。

「関心」についてであるが、これは潜在意識の中に植え込まれているものであるらしい。人は、潜在意識に植え込まれている関心と合致するものについては敏感に反応する。いわゆる、「よく気がつく」というやつだ。仕事に関心がないとそういう気付きもないということだ。先回りして手を打っておくとか、根回しというのもそうだろう。この関心というものが子供の頃にだけ植え付けられるものかどうかはわからないが、少なくとも、僕には今の仕事用の「関心」がどうも備わっていないのは確かなようで、だから上の人に認められるような仕事をしてこなかったのだ。ここでも諦めというか、納得というかそうせざるを得ないとなってくるのである。

アドラーは、子供の教育に対しては適切な教育を与えることによって共同体感覚を養うことが可能であると書いているが、大人に対しては諦めろと言っているようにも思えるのである・・。

そのほか、夢、男女についても興味深いことを書いている。人が見る夢は人生の問題が比喩として現れるという。最近はあまり見なくなったけれども、長い間、腰辺りまで水に浸かるような場所で必死に前進するのだがその抵抗でまったく前に勧めず、後ろ向きになってお尻を突き出して水の抵抗を和らげながら進もうとするがそれでも全然前に勧めないという夢をしょっちゅう見ていた。僕は何を克服したかったのかがわからないのだけれど、前に勧めなかったということはやっぱりそれを克服できなかったんだなと思うのである。何を克服したかったのかということを僕自身が知らないということだけが救いである。

男女間の問題について。これは現代にも通じるものがあると思うのだが、長らく続いた男尊女卑の考え方というのは、それまで母権制の形態をとってきた社会構造に対する男性の反乱の結果であり、それに成功を収めたのが現在の姿(この本が書かれたのは1920年代だ)である。
では、子どもの頃からそうやって虐げられてきた女性たちはどうなるかというと、結婚すると夫に対して反乱を起こすようになる。この本では、自分は虐げられてきたと考えている女性は、『自分は弱い立場にいるのだということを強調しつつも、自分がすべき仕事を夫にすぐに押し付け、これができるのは男だけだと言い放つのだ。』と書いている。なんとなくわかる気がする。
また、女性と年齢の関係に、「危険な年齢」と言われるものがあると書いている。『50歳あたりに見られる現象で、身体の変化とともに、女性は、必死に主張してもわずかしか得られなかった評価の最後の残りが、完全に失われるときが来たと思うのです。ますます厳しくなる条件のなか、さらに努力して、自分の立場を守るために役立つことをすべて固持しようとします。』
う~ん、これはまさに今の職場にいる女帝のことを言っているかのようだ。人のことは言えないが、この女帝も多分共同体感覚が欠如しているのであろうが、こんな理由があったのかと思うと可哀想にもなってくるのである。

コメント (2)
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