イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

池谷裕二 「できない脳ほど自信過剰 ( パテカトルの万脳薬 )」

2022年03月06日 | 2022読書
面白いタイトルの本を見つけた。なぜこんなタイトルに反応したかというと、同じ事務所にいる、自分は相当仕事ができる人間だと思い込んでいる社員がきっかけだ。僕を含めてだが、こんな職場に異動してくる人間というのは、使えないか使いにくいという理由でここに来ているのだから、少なくとも自分自身を、「私は仕事ができる。」と自己評価できるはずがないと思うのだが、それができてしまう人間の思考回路というのはいったいどういう構造なのだろうかと知りたくなったわけだ。

この本は週刊朝日に連載されていたエッセイをまとめたもので様々なトピックスを(連載当時の)最新の論文発表をもとに書かれている。著者は東京大学の薬学部の教授で海馬や大脳皮質の可塑性を研究しているそうだ。自分の研究についてのエッセイではなく、いろいろな学術誌に掲載された脳についての不可解でかつ不条理とも思える習性などを紹介している。ひとつのテーマが3ページという短さというのがもったいない気がした。
パテカトルというのは、アステカ神話に出てくるお酒(プルケ)の神様のことだそうだ。現地の言葉で「薬の人」という意味がある。この神の配偶はリュウゼツランの女神らしいのでひょっとしたらテキーラを作っていたのかもしれない。酒は百薬の長というから薬とお酒は何らかの関係があるのだろう。

タイトルにもなっている、「できない脳・・・」についてはこんな理由であると言う研究結果がある。
これは、ユーモアを理解する能力についての調査(ユーモアを理解するためには高度な理解力が必要だと言われている。)だが、「あなたのユーモアの理解度は同年代のなかでどのくらいに位置していると思いますか」という質問に対する答えを統計すると、ユーモアを理解する能力の低い人ほど自己評価が高いことがわかったという。つまり、できない人ほど「自分はできる」と勘違いしている傾向があるのである。
さらに調査を進めるとそのメカニズムがわかってくる。こんな感じだ。
①能力が低い人は、能力が低いがゆえに、自分がいかに能力が低いかを理解できない。
②能力の低い人は他人のスキルも正しく評価できない。
③だから、能力の低い人は自分を過大評価する傾向がある。
という流れがおこるそうである。この現象は心理学の分野ではよく知られているらしく、「ダニング=クルーガー効果」と呼ばれているそうだ。
これを読んで、「確かに勘違いしている人はいる。具体的に名前が思い浮かぶぞ。」と自分を棚に上げている人もすでにダニング=クルーガー効果に陥っているらしく、こういう現象は、「バイアスの盲点」と呼ばれているそうである。
う~ん、人を呪わば穴二つ。僕も「バイアスの盲点」に陥っているようだ・・。

そのほか、自分の知らなかったことや話のネタになりそうなものを書き残しておこうと思う。

ジェトロフォビア症候群という症状がある。これは、被笑恐怖症と訳されるそうだが、人口の7%ほどがこの症状を持っているという。この人たちは普段からあまり笑わない傾向があるという。何か楽しいことがあっても、その裏に隠れている不安、たとえば、誰かに嫉妬されないだろうかとか、この楽しいことが次のどんなことにつながるのだろうかとか、現実を冷静に見つめてしまうからだそうだ。大きな魚を掛けても、すぐに糸が切れるんじゃないか、鉤が外れてしまうんじゃないかと心配してしまうのは僕もその7%だからかもしれないのだ。だから大物が掛かってもあまりうれしくないのである・・。

著者たちの研究で、記憶をよみがえらせる薬を発見したそうだ。効果は劇的だそうだ。(この文章はいつ書かれたものかは知らないが、いまだ新聞でも読んだことがないのだが本当だろうか・・?)
著者の説明ではこうだ。忘れた記憶というのは完全に消え去ってしまったのではなく、脳のどこかに蓄えられていているのだが、「心」がその情報にアクセスできなくなっているために「忘れた」という状態に陥っているだけだという。現在の研究では、脳内に保管された情報へのアクセスを遮断させる新たな「記憶」ができることで、「忘れる」という現象がおこると考えられている。つまり、忘却とは、「思い出すな」という別の形の記憶が脳回路に保存されるとういう前向きな現象だというわけである。こうした記憶を「消去記憶」と呼ぶらしい。ネズミの実験では、胎児のころの記憶まで残っているという。
しかし、自分が思い出すなと指令を出した記憶を呼び戻してもろくなことにならないのではないかと思うのは恥ずかしい人生を歩んできたからだろうか・・。ただ、受験生時代にこの薬が使えたらもっと楽しい学生生活を送れたのではないかと悔やんでしまう・・。まあ、頭が悪いから記憶が定着する前に消えてしまっていたはずなので呼び戻そうにも呼び戻すものさえなかったであろうが・・。

その記憶についてだが、コンピューターのようにあまり正確に記憶してしまうと記憶の照合に齟齬が生じて、物の「同一性」を捉えることができなくなってしまうので人は曖昧に記憶するようにできているのだそうだ。人の顔を正確に覚えてしまうと、髪型や眼鏡の形が変わっただけでもその人を認識できなくなってしまうのだという。
曖昧に記憶する能力というのは歳を取るほどに進化するそうだ。「最近はどうも記憶力がない」というのは、記憶力が劣化したのではなく、もともとそういう風に人間はプログラムされているからだそうだ。歳を取るほどに応用性や融通性が効いてくるということだから大いに自信を持ちなさいといえるらしい。

人生で成功するためのモチベーションについての研究では、選択肢が少ないほど成功する確率が高いという結果があるそうだ。
モチベーションには心理学的には「内部動機(内発的動機)」と「手段的動機(外発的動機)」の2種類に大別することができる。内部動機とは、いわゆる、純粋なやる気のことである。なぜ研究をやっているのかと問われ、「宇宙の神秘を解明したい」「生命の謎に触れたい」と答えるのが内部動機である。「魚を釣りたい」というのも内部動機だ。手段的動機とは、「出世したい」「金持ちになりたい」みたいな動機である。
内部動機と手段的動機の違いは、ほかに代替方法があるかどうかである。手段的動機には代替手段があるが、内部動機にはそれがない。宇宙の神秘を解明したかったら解明するしかないのである。逆に褒美をもらうことで気合が入るのは典型的な手段的動機である。
米軍の士官学校の士官候補生の追跡調査では「軍隊そのものが楽しい」というような内部動機を挙げたひとのほうが1.5倍ほど将校に出世できたという。
目的達成のための選択肢は少ない方が成功しやすいということと、「これが好き」というものでないと成功を収められないということが統計上でも明白なのである。ファッションになどまったく興味がないのにこの業界に就職してしまったというのが大誤算であったというのはそのとおりだ。

人間の顔の表情だけでこの人は性的エクスタシーに浸っているのか痛みに苦悶しているのかはわからない。快と不快は極限状態では同じ表情になるのである。我慢していたおしっこを出すときにはスッキリした気持ちになるが、実はあれは生得的には不快な感覚だそうだ。赤ちゃんがオムツにオシッコをしたときに泣くのは濡れたオムツが気持ち悪いからではなく、尿意や排尿が不快だからだそうである。それを後天的な学習によって「解放の前兆」として官能的快感として味わっているのである。
人間の能力はどんなものでも全開にすることはない。アクセルを踏むときには必ずブレーキもかかる。全開になってブレーキが効かなくなった状態は火事場の馬鹿力というやつだ。
痛みについても同じで、「痛い!」と感じるときには、同時に「痛くない!」という脳内信号も走る。
痛みを消す神経物質はエンドルフィンやエンケファリンという物質だが、これは脳内麻薬というやつだ。痛みが快感というマゾヒストたちはそのバランスが崩れて痛みに付随する快感が前面に出てしまった人たちなのである。
辛みが好きという人も同じで、辛みを感じる神経は痛みを感じる神経と同じ神経なのでマゾヒストなのである。これはやばいと思ってしまうのだが、オシッコをしたときに快感を感じるのも学習的マゾヒズムだというのでまあ、そういうのは僕だけじゃないということだ。

共感と同情というのはよく似ている表現だが、じつは似て非なるものであるという。同情というのは、心理学的な見解だと、「苦しんでいるのが自分でなくてよかった」という感情が含まれているという。これはこれでなんだか冷たい話だが、同情は利他行動という助け合いの感情にもつながるものだそうだ。共感が他者の感情や状況を経験することであるのに対し、同情は他者の感情や苦しみを理解することなのである。
ネズミは電気ショックを与えられている仲間を見ると、あたかも自分がそれを受けているように怯える。これは心理的コピーというもので、脳の中では、「前部帯状皮質」という部分の活動が活発になってくる。ここは痛みを感じる部位でもあり、他人の苦痛を自分の心の出来事として追体験しているということを表している。
人間のこの部分を刺激すると、つらい思い出の記憶と同時にこの困難をなんとか克服したいという意識も現れるという。これが利他行動につながるのだと著者はいう。
自閉症のネズミには心理的コピーという現象は現れないという。ウクライナ侵攻のニュースを見て、これはいかんだろうと思えているうちはまだ自閉症にまでは至っていないのかもしれない。ただ、悲しいことだとは思うけれども、募金やデモに参加しようとまでは思わないので、僕は共感止まりの人間ということになるらしい・・。

人は悲劇が好きだ。過去から現在まで、悲劇を描き続け、鑑賞し続ける。これはどんな心理かというと、悲しい音楽や物語を聴いたり観たりすることは快感であるからだという。これは、知覚と情動は必ずしも一致しないということを意味している。悲しい音楽は楽しい音楽よりも効率よく快感を引き起こすというのである。この理由には様々なものがあるが、ひとつは「心の共有が心地よい」というものだ。悲しい作品を通じて作家と同化することに快感を覚えるのである。また、「悲しみを感じることのできる自分を確認するのが喜ばしい」という心理もあるそうだ。悲しいイベントは頻繁に起こるものではない。平凡な生活を送っていても情動が枯渇していないことを確認しているのである。しかし、その裏では、「これは架空のことであって、現実の自分とは無関係だ」と強く認識しているという。「どうせ自分ではない」と思うのである。これらのことを総合してひとことでまとめると、「人は他人の不幸が快感に感じる。」となる。脳の活動でも、他人が失墜すると報酬系が活動するらしい。
仲間を蹴落としても自分の遺伝子を残したいという本能かもしれないが、やはり、他人の不幸は蜜の味なのである。

こんなことを読んでいると、人というのは相当ナルシストであると思えてくる。彼が自分自身を高評価するのも無理はないと思えてくるのである・・。

そのほか、いろいろなおもしろいトピックが書かれているが全部は書ききれない。最後に、死の直前について書いておこう。
人間が死を迎えるとき、心臓が止まり血流がなくなってから脳の働きが停止するまでには約30秒ほどのタイムラグがあるそうだ。その間、脳はどんな動きをするのかというと、これはネズミの実験だそうだが、次第に活動を止めていくのではなく、最初の3秒はほぼ生きているときと同じ状態で、続いてアルファ波やシータ波という脳波が強く表れ、その後ガンマ波の値が異常に高くなるそうだ。この波は瞑想をしているときに強くなる波らしいが、意識が明晰になるような状態らしい。それも、トップダウンという、外からの感覚情報がなくても脳内から情報を呼び起こす状態で、これは「想像する」であったり、「思い出す」というような作業と似ているのだそうだ。臨死体験をした人たちがきれいな花畑を見たり、これまでの人生が走馬燈のように駆けめぐったというのもあながち嘘ではないようなのである。最後の最後に素晴らしい世界を眺めることができるように人はプログラムされているというのもなんだか不思議である。

そして、こういう本には必ず、人工知能と人間の関係はどうなるのか、また、心とはいったいどこにあるのかという疑問というものが提示されている。
人工知能に対する著者の考えはこうだ。これから先、人工知能は芸術、音楽、文学などの感情に訴える分野にまで進出してくる。それは、人間がどんな音楽を聴くと心地よく思い、どういった音階や文章が感動を生むかということも学習して表現することができるようになる。一般の職場でも人間以上の合理的な判断ができるというのはすでにそうなりつつある。そんな時代に必要なのは人工知能との「共存」だと著者は言う。人は現場で職務を担当するプレイヤーになるというのだ。つまり人は、「職場」という舞台で人工知能の描いたシナリオ通りに演じる「役者」となるというのである。
なんだか味気ない。まるでクライアントが決めた仕事だけを請け負ってやっている今の仕事のようだ。まるでオカネをもらうためだけに働くという、手段的動機しか持たない人間のようになってしまえということなのか・・。そんな時代を生きなくて済むというだけで幸せと思えてくる内容だ。著者は、これがこれからの最善の生き方だと思っているのだろうか・・。

心がどこにあるかという問題では、脳を作り出すということが書かれていた。すでに、人間のiPS細胞を使って脳を作ることに成功しているそうだ。血管ができていないのでごく小さな脳(直径4ミリくらい)だそうだが、大脳皮質があったり、記憶をつかさどる海馬や網膜もできたそうだ。人の意識というのは間違いなく脳の中にあるのだろうから、この4ミリの脳が意識を持っているかということが問題になる。著者は、もしこの脳をゴミ箱に捨ててしまったら殺人罪になるのかどうかという疑問を呈している。
あなたは誰?とこの脳に聞いても何も教えてくれないだろうが、本当にあなたは人生を考えているのだろうか・・。

人工知能もそうだが、意識のあるものというのは、親から生まれて死んでいくようにしなければやたらと問題が多くなるというのが結論のようだ。確かにそんなことを悩む時代に生きなくてよかったと思えてくる。
コメント (2)
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