イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

6000日・・・

2022年01月12日 | Weblog

ブログの編集画面にログインすると、開設してから何日というカウンターが表示されている。去年の暮れくらいに何気なく見てみると、もうすぐ6000日となるところだった。
そして、その6000日目が今日である。

投稿回数を計算してみると、今日が2029回目の投稿である。だいたい3日に1回くらいの投稿を6000日も続けていたことになる。正確にはこのサイトに移行する前に別のサイトでちょうど1年間投稿をし続けていたので6365日、もう17年以上こういうことを続けている。
当時よく読んでいたいくつかのパソコン雑誌にブログというものの存在が書かれていて、無料でできるならやってみようと考えたのが始まりだった。それまでは釣果の記録を手帳に書いていたのだが写真も入れてもう少し詳しく書けると考えたのだ。
タイトルはちょうどその頃車を買い替え、ナンバーを「1091」にしてもらったら、ディーラーのセールスが、「イレグイ号ですね。」というのでそのままタイトルに入れた。クロニクルというのは「年代記」という意味だが、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」と小説から拝借した。最後に「Ⅱ」とついているのは、ブログサイトを乗りかえたのでマークⅡという意味を込めている。

何が面白かったのか、3日に1回のペースでよく17年もやったものだ。ただ、記録を残すというのは確かに効果的で、当時から比べると少しだが釣りの腕も上がったような気がする。そして、いつの頃からかブログを書くために釣り行っているのじゃないかと思えるようになってきたのも確かだ。釣果がなくてもブログに書くネタができたから帰ろうと思うこともしばしばだ。護岸に氷をぶちまけて写真を撮るというのも明らかにブログを書くためである。
また、このブログを通して懇意にさせていただけるような方々との出会いもあった。これが一番の宝かもしれない。

アフィリエイトのように、不特定多数の人々に読んでもらうための書いているというものではないので、愚痴が入っていたり、おおむね自虐的であるというような書き方では読んでいただいている方たちの中には、こいつはちょっと病んでいるのではないかと思われてしまうかもしれないが若干当たりだったりもする。
しかし、人生観というような大層なものをもって生きているわけではないけれども、文章を書いているあいだに自分の持っている価値観を整理できるというのも確かである。(それが相当偏ったものに収れんしていってしまっている恐れはあるけれども・・)

日記を書くというのはボケ防止になるというのは森に暮らすひまじんさんからの受け売りだが、僕ももうすぐそういうことを気にしなければならない年代に入り始める。すでにその兆候が表れてきているということはそれほどの効果があるわけではないのかもしれないがキーボードを叩けなくなるまではまだまだ続けてゆきたいとは思っているのである。



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「帆神 北前船を馳せた男・工楽松右衛門」読了

2022年01月06日 | 2022読書
玉岡かおる 「帆神 北前船を馳せた男・工楽松右衛門」読了

玉岡かおるの本を読むのは多分2冊目だ。多分30年近く前になるのだと思うが、「夢食い魚のブルーグッドバイ」という作品を読んだことがある。タイトルが変わっていることと、物語の展開の重要なキーワードとしてブラックバスが出てくる物語であったので印象に残っている。
「夢食い魚・・」もそうだったが、恋愛小説か人情時代劇の作家という印象があったのでとくに読みたいという作家ではなかったが、この本はよく売れている本らしいということと、船乗りが主人公であるということだったので読んでみることにした。

主人公の工楽松右衛門という人は実在の人物で、松右衛門帆という帆布を発明したほか、北前船での交易、港湾開発などに尽力した人であったそうだ。一介の漁師の息子から大店の廻船問屋の主にまで上り詰めるという成功譚である。
高砂で生まれて兵庫で帆布を作ったというのだから「カムカムエヴリバディ」の雉真繊維や岡山のジーンズにつながる人だったのかもしれない。

後年、思想家の大蔵永常というひとが『農具便利論』に松右衛門を評して、「人として天下の益ならん事を計らず、碌碌として一生を過ごさんは禽獣にも劣るべし。」というような人であったと書いている通り、私利私欲を求めずすべての人が潤うために働いた人であったようだ。
発明家という一面も持っていて、帆布を織る織り機の改良や港湾開発のための浚渫法、巨大な木材の運搬、新巻鮭を発明したのもこの人であったというのもこの物語には出てくる。
加えて、人情に篤く世の中のために働くというスーパーマンのような人物像として描かれている。女性にももてるが妻との絆を最後まで貫き、好意を寄せたり寄せられたりした女性もいたがその人たちまでも経済的に支え、独り立ちできるように見守るというかっこよさだ。江戸時代には確かに資材をなげうって公共事業で貢献するという豪商たちがいたのだから、まあ、当たらずとも遠からじというひとであったのだろう。幕府からも信頼され樺太や函館の開発を任されたという。

読んでいて、こんな人はおらんやろうと思うのは僕の心が邪なだけであって、きっとそんな人だから歴史に残るのであろうとも思う。雑賀孫市は間違いなくスーパーヒーローとして描かれるがこういったヒーローの描き方もあるのである。

船乗りの端くれ以下の僕であるが、主人公が語るこんな言葉が印象に残った。
『海で生きるには本能、陸で生きるためには理性』
『人の思いを注ぎ込まれて、船は生き物になる』
まずは船を大切に扱って用心して海に出なさいということなのだろう。
これだけは肝に命じておこう。

ここまでで感想文としては終わりなのだが、いつもマイクロソフトのワードを使って文章を書いていて、書き終わったところで文字数を見たらちょうど1091文字で終わっていた。



僕の車のナンバーと同じ、「イレグイ(1091)」だ。これは新年早々縁起がいいではないかとひとりほくそ笑むのである。

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水軒沖釣行:ボウズだったけど代わりにひとつの謎が解けた。

2022年01月04日 | 2022釣り
場所:水軒沖
条件:大潮 7:31満潮
釣果:ボウズ(不戦敗)

2日、3日と出勤し、今日は初釣りと決めていた日だ。しかし、天気が怪しい。これは年末と同じ状況で、前の日までは天気がよくて休日の朝くらいまではなんとか船を出せそうかどうかという微妙な雲行きになってきたというのはまったく同じだ。
昨日までは冬型でも等圧線の間隔が相当広かったが、昨夜の予報を見ているとその間隔が狭くなってきている。それでも救いは紀伊半島の部分だけ少し等圧線の間隔が広くなっていることだけである。
去年の12月30日は朝起きて新聞を取りに表へ出た瞬間に今日はダメだと布団に戻ったが元々初釣りは港周辺の神社への初詣を兼ねているのでとりあえず家を出た。風の吹き方も30日に比べれば体感的には穏やかな気がする。

しかし、港に行ってみると西混じりの嫌な風だ。真っ暗な海面に街灯に反射する白い波が目立つ。これが東混じりの風なら何の心配もないのだが・・。
少し明るくなってくれば状況も変わるかと年末の大風に備えて増やしていたロープを解いたり燻製器と同時進行で作っていた細工の寸法を確かめてみたりしながら明るくなるのを待っていた。



港に来る途中に見える奥の港では車のランプが光っているのが見えていたが一向に船が出てくる気配もないので、みんな逡巡しているのかと思ったら海竜が2艘連なって出港していった。



波も少し穏やかになったような気もしたので僕も船を出そうと準備を始めた。海の様子を見ながら港内を走るが、コンテナクレーンの前を通り過ぎた頃には、もうこれ以上はダメだと撤退を決意。初釣りは竿を振ることもなく15分で終了してしまった。



今日の予定は初春の運だめしとしてブリを狙ってやろうと考えていた。同じ港のTさんが教えてくれたのだが、紀ノ川河口でブリが釣れているというのを年末に聞いていた。
1年間のある時期の2週間ほど、紀ノ川河口にコノシロの群れを追ってブリが入ってくるというのだ。釣り方というと、ルアーのフックに錘を付けた仕掛けでコノシロを引っ掛けて少し待つという、食物連鎖を具現化したような釣り方だ。



一昨年の年末にも禁断の仕掛けでブリを釣っている人がいるということを教えてくれたので、その2週間というのは年末年始に当たるようだ。
タックルも丈夫なものにしようというわけではないが、去年拾った竿とリールのリーダーを10号のナイロンに変更して準備をしていた。
結局、くじを引く前に終わってしまったのであるが、一度はブリを掛けてみたいと思うのである。


あっという間に港に戻ってきたので初詣は午前7時45分からスタート。
まずは氏神様である住吉神社へ。



お参りに行くと、氏子らしき人たちが初詣の後片付けをしていた。挨拶を済ませて雑賀崎へ向かおうとしたが、ふと、この人たちにあの謎の鳥居のことを聞けば何かわかるのでは思った。



3人のうちのひとりをつかまえて聞いてみると、あの鳥居は、金毘羅神社の跡なのであると教えてくれた。僕の予想とはまったく違ったのである。確かに、住吉神の右隣に金毘羅神が鎮座している。この神様のもと居た場所があそこだったのだ。神社合祀というのは明治末期にさかんにおこなわれたことだというので、叔父さんたちもあの鳥居については謎であったのだろう。僕の祖父に聞いたとしてもおそらく子供の頃の出来事でよくわからないとなっていたほどなのかもしれない。
「あんなところに鳥居があるなんてよく知ってるな。」と言われたので、僕はマツフサという名前で本家はすぐそこにあって、僕も昔ここに住んでいたというようなことを説明したが、あまりピンときていないようだった。祖父の兄弟という家系も近所にあるので、そっちの一統と間違えられる始末だ。僕の祖父は箪笥職人もしていたので、祖父はここのお稲荷さんの鳥居も昔作ったことがあるんですよと言っても、もう、そんなことは誰も知らないようだった。
これはちょっと寂しい・・。

加えて、この氏神様はいつごろかここに鎮座していたのかについて、鳥居には安永六年(西暦1777年)、灯篭には安永四年(西暦1775年)の文字が刻まれているんですよと教えてくれた。

 

1775年というと、今から245年前だ。調べてみると、徳川家では11代目の将軍、杉田玄白が「解体新書」を書き、西洋では天王星が発見された頃だそうだ。水軒堤防の初期の造営は徳川頼信が紀州にやってきてからだそうだから1600年代の中盤くらいの約400年前。そのころから紀ノ川の砂州であったこの場所に人が住み始めることができたのだとしたら245年前よりももっと昔にこの神社は鎮座していたのかもしれない。全然想像がつかないが、間違いなく時代劇に出てきそうな農民や漁民がここを歩いていたのだと思うと不思議な気がする。
そしてきっと、その中に僕のご先祖もいたのかと思うともっと不思議な気がするのだ。

その後はいつものルートをたどって神社を巡った。住吉神社は安永四年と知ったので、今回の初詣はほかの神社はいつごろからそこにおわしたのかというのも調べてみようと思った。
東照宮は今年が四〇〇年祭をするというので400年前に建てられたということがわかるし、天満宮は菅原道真が亡くなったのち、西暦964年ごろに造営されたという記録が残っているらしいが、雑賀崎、田ノ浦、和歌浦のエビス様などうなんだろう。それぞれの神社の鳥居や灯篭に刻まれた文字を見てみたが、雑賀崎恵比寿神社の灯篭の文字はまったく読めない。田ノ浦恵比寿神社の灯篭には文化十二年と読めるような読めないような文字が書かれていた。



だとすると西暦1815年ということになる。ペリーが浦賀に来る40年ほど前という、もうすぐ開国だという頃なので、これはきっと後年に作られたものなのだろう。港としては水軒の港よりも使いやすくて安全だからきっとこっちの神様のほうが古いに違いない。和歌浦の灯篭は新調されているようで平成の年号が書かれていた。しかし、ここの蛭子様は一説では室町時代からここにおわすと言われているらしい。平安時代の和歌がいたるところで読まれているのだからもっと古いかもしれないし、いくつかある“エビス”の文字のうちでも“蛭子”と書かれた神社は古いと聞いたことがある。

どれにしても、時を超えて変わらず伝えられてきたものというのは知れば知るほど重みを感じるのであるが、一方で数が減り温暖化や地形の変化で多少は変わりながらも、はるか以前から何も変わらず魚たちは泳いでいる。結局、神様も正月を含めた暦も人が創り出したものに過ぎない。所詮時の流れに抗うことはできず朽ち果て忘れ去られ形を変えてゆくしかない。「年年歳歳花(魚)相似 歳歳年年人不同」ということを実感した年初であった。

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初詣とベーコン作り

2022年01月01日 | Weblog
このブログをお読みいただいている皆様、明けましておめでとうございます。くだらない内容のブログですが、今年もお読みいただければ光栄です。

新年の最初の日は、もう恒例と言っていいだろう、早朝の初詣とベーコン作りで過ごした。

初詣のスタートは午前6時20分。今年は道々に佇むお地蔵様を繋いでいこうと思う。普段はあまり気にならないが気をつけて走っているといたるところといっていいほどのお地蔵様の祠がある。

   

あとはいつもとほぼ同じルートで名草山周辺の神社をつないで約4時間。

               

年齢とともに記憶力が衰え、道順がわからなくなる。今日は2回も間違ってしまった。空には雲が垂れ込め、全然明るくなってこないので余計に道がわからない。おまけにあられが降ってくるし、元旦は晴れの特異日であるという定説は今年は当てはまらなかった。初日の出を拝めたのは午前9時13分であった。

 

日前宮にも寄ったが、あまりにも人が多く、日前神の社殿には到達できなかった。



國懸神のほうはなぜかガラガラでこちらだけお参り。人は左回りで行動するという法則が見事に当たっていた。

釣具屋にも初詣してみたがお賽銭を使わず退散。




家に帰ってベーコンを燻す作業。2週間前から仕込んでいた豚バラ肉を新しく作った燻製器に吊り下げる。

  

燻製器の中はこんな感じ。



年末は30日、31日と休日にしていたので、去年の3月から置いていたコンパネをやっと組み立てることができたのだ。

一斗缶の燻製器に比べてかなり大きくなったので温度管理はし易いのかと思っていたが、木製であるのと気密性が高くなったことで逆に温度が上がりやすくなったようだ。豆炭の効果もあるのだろうが、一時120℃まで上昇してしまった。豆炭を間引きして温度を下げようとしたが今度は温度が下がりすぎて煙が出ない。これは相当シビアな調整が要求されそうだ。サバとタチウオは特に要注意である。
なかなか着火してくれない豆炭と格闘しながら午後5時に完成。



燻製器には改良の余地があり、豆炭の使い方にも工夫が必要だが、これは今年の課題としておこう。

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