ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

ただいま

2023年04月26日 | 家族とわたし
4月8日、満開のぽんちゃんに見送ってもらった。
3月をほとんどまるまる、しんどい、辛い、苦しいと言いながら過ごし、4月の1週目で無理やり元気を取り戻して漕ぎ着けた出発だった。
夫が空港まで車で送ってくれた。
「忘れ物はないよね、パスポート、財布、陰性証明…」と、いつものように夫が聞いてくる。
「バッチリ、大丈夫」と即答しつつ、念の為に大事な物をまとめて入れているポーチの中を手で探る。
あれ?このもやもや感はなに?
あっ…そういや日本で必要な証明書類を荷物に入れた覚えがない…まさか…。
途端にわたしの頭の中はパニックになった。
車はもうほぼ空港に近づいている。
正直に言って家に戻ってもらおうか、いや、夫は空港からとんぼ返りで患者さんを診なければならないのに、そんなことは頼めない。
空港に到着し、パッパと荷物を降ろし、バタバタとさよならをして、チェックインと荷物預けを終え、出国検査の列に並んだ。
並びながら悶々と考えた。
夫に書類の在処を伝えるのは難しい。
見つけたとしても、それを急ぎの便で送ってと言われた時の夫の顔が目に浮かび、やっぱりこれは自分で家に取りに戻るしかないという結論に達し、ごった返していた列を逆行し、空港の外に出た。
最寄りのウーバーを探し、あと2分で到着するという時になって、車が1階の到着ロビーの外に来ることを知り、そりゃ普通に考えて、タクシーがこれから出国する人間を迎えに行かないだろうと、慌てて2階の出国ロビーから1階に降りた。
もう空港に入ったら暑いだろうからと薄着になってしまっていたので、その数分の待ち時間が寒くて、焦る気持ちが増長した。
車に乗るや否や、「ごめんなさい、めちゃくちゃ急いでいます。わたしはこれから飛行機に乗る人間で、忘れ物を取りに帰るので、また空港に戻ってもらわなければなりません。飛行機に乗り遅れることもできません。できますか?」と聞いた。
運転手さんはかなりビビったみたいだけど、「今の時間帯は空いてるから、多分ギリギリ間に合うと思います」と言って、結局本当にギリギリだったけれど間に合わせてくれた。
いやあ、我ながら、何事もなく普通に旅の始まりを迎えるということがどうしてできないのかと思う。

日本に到着。
日本の電車に心が癒される。

今回は母の家にずっと居る予定なので、到着した夜だけ浅草に泊まった。


ホテルで鰻の美味しいお店を聞いて食べに行った。
母は鰻が嫌いなので、まず食べておこうと思った。

ホテルの朝食券を使って朝からハンバーグ😅
病気で痩せた5キロがみるみる戻ってくる予感…。


母の家に向かう。

前回、昨年の11月から12月にかけて行った時、母はどんどん気弱になって、また3月に来るんやろと何回も繰り返し、とうとうその約束をしてこちらに戻ってきた。
そしてその約束を守るべくチケットを買い、準備したのだけど、体調を崩して4月になった。
歩きづらい、食欲が無い、何を食べても美味しくない、眠れない、体が怠い、ふらつく、ちょっとした動作が元でひっくり返る、気分が悪い。
88歳の母は、日毎それらのことを並べて嘆く。
わたしにできることは、LINE電話で話を聞くこと、行って食事を作り、できるだけ楽しい話をして一緒に時間を過ごすことぐらい。
今回もそう思って行った。
だけど母はしんど過ぎたからか機嫌がすこぶる悪く、大きなため息と愚痴と文句を朝から晩まで吐き続け、同じ部屋にいる義父とわたしの気持ちを萎えさせた。
特に義父は一日中、些細なことで怒られ、貶され、時には罵倒されて、横で見ているだけでも相当滅入るのに、その精神力の強さというか慣れというか、一体どうやって添い続けられているのかと不思議で仕方がない。

そんなわたしたち3人の毎日に、程よいクッションになるのがやっぽんぽんの湯なのである。
母と義父の家から車で40分。滋賀県の山奥にあるこの宿の湯と料理は本当に素晴らしい。
コロナ禍前の、まだ母が元気だった頃は、ミニゴルフと温泉を楽しむだけに通っていたほどのファンだ。

少食版晩ごはん







朝食のバイキング

母は自分はもう絶対に温泉もゴルフも無理!と頑なに拒否していた。
そういう時は無理に勧めても仕方がないので、知らんふりして気分が変わるのを待った。
彼女の体調不良は気分が大いに影響していると、わたしはその道の専門家ではないけれども長年の付き合いでそう思っている。
しばらくすると、ゴルフならと言い出した。
よし、行こう。

母は88歳になってようやく、夫に手をとってもらって歩くことを自分に許した。

ほんの半年前までずっと、杖も人の腕も借りない、そんな物を借りて歩いている姿を見られるぐらいなら死んだほうがマシだと言っていた。
もう90歳近くになって、一体何を言っているのだと何度言っても、かくしゃくとして歩いている人はいっぱいいる、それに比べてなんと惨めな姿だろうと嘆く。
きっと容れ物の年齢と心の年齢がかけ離れているのだろう。
こうでありたい、こんなはずがないと、事あるごとに混乱し失望しているのだろう。



母を温泉にどうしても浸からせたくて、もう一晩泊まった。
ゴルフを2日続けてできた母は気分が少し軽くなったのか温泉にも浸かりに行った。

二日目の食事は洋食のバイキング。

この日は昼過ぎから雨が降ってきたので、なんと初めてカラオケもした。
コロナ禍になる前までは、趣味友達と一緒にカラオケルームで5時間も過ごしていた母だったが、この3年の籠城生活で喉も体力も一気に萎えたのか歌い辛そうだった。
でもまあ滅多にないことができて、義父もわたしも、そして母も、それなりに楽しい時間を過ごせたと思う。

などと偉そうなことを言っているが、温泉旅行の費用は全部彼らが払ってくれた。
わたしには一銭たりとも出させてくれない。
義父はずっと国家公務員として定年まで働いてきた。
少ない給料で暮らすには倹約に倹約を重ねる必要があった。
母はもともと倹約が苦にならない、倹約を美徳として誇りに思う人だったのか、それとも薄給ゆえの生きる術だったのかはわたしにはわからないが、とにかく凄まじい倹約っぷりで、そこに株や証券などを流用して資産を増やす能力も加わり、老後の人生を心配せずに暮らせるまでにした。
だから誰にも頼らず、世話にならず、どこかに出かける際の費用は全て自分たちが持つと言い張る。
ありがたいのだけれど、こんなことでいいのかと必ず自責の念に駆られる。
母は、子どもを置いて出て行ってしまったことへの罪滅ぼしだとたまに言う。
そんな半世紀以上も前のことをいつまでも引きずる必要など無いのだと言っても聞く耳を持たない。
置き去りにされた者の傷と置き去りにした者の傷。
どちらもそれぞれにしかわからない傷なのだけど、心の傷はなんと厄介なものなのだろうと思う。

温泉から家に戻り、わたしの料理&片付け当番が始まった。
いきなり3日も続けてゴルフをした母は疲れ切ったのか、機嫌電池が切れてしまったように不機嫌の極みだ。
わたしが食事の用意をするのも気に触る、作ったものも気に入らない。
母も義父も、普段は配達されるおかず弁当か、スーパーで買ってくるお惣菜しか食べていないので、もう「いただきます」も「ごちそうさま」も言わない。
実に奇妙な食事風景で、義父以外、それぞれ違う理由で機嫌が悪い。

今回は母の、リハビリに通うための良い靴を見つけたかった。
そのためには、前回の旅行の際にお世話になった、一鍼灸院の瀧本先生のところに母を行かせる必要があった。
瀧本先生の整体と鍼灸で、母の痛みやふらつきの治療をしてもらい、さらには靴とインソール選びを手伝ってもらいたかった。
それで母に内緒で2回分の予約を取り、タイミングを見計らって母に伝えたのだけど、案の定断られてしまった。
結局2回とも、義父に送ってもらってわたしが治療を受けた。
外反母趾を緩和するための靴選びを教えてもらい、さっそく購入した靴を持って行ってインソールを入れてもらった。
いわゆる母へのデモンストレーションである。
瀧本先生の治療院までは、車でちょうど1時間かかる。
車に乗るまでにすでに(靴を履いたり家の前の階段を降りたりするための)時間がかかる母は、いくらその先生が優秀でも通えるわけがないと言う。
わたしはひたすらうんうんと頷くだけで何も言わない。
言わないけれど、インソール入りの新しい靴を履いては、「ああこれはいい、長年苦しんできた外反母趾が改善される予感がめっちゃする」とつぶやく。
もちろん瀧本先生がいかに優れた整体師であり鍼灸師であり、かつ外反母趾や足のむくみなどの相談にも真摯に乗ってくれる人だとアピールすることも忘れない。

そんなこんなの、なかなかにヘビーでしんどい思いが続いた10日間だったけれど、最後の最後に神さまがプレゼントしてくれた。
もう今日1日が最後だという日の前夜、義父の入れ歯がいきなり外れてしまった。
それで、早々に歯科医に予約を取らなければならないことになり、翌朝に電話をかけようとしていた彼に、わたしがふざけて「そんなに歯が欠けてたらフガフガになるやんな、こんなふうに」と言ったら、応対に出たスタッフの人が困るほど、わたしたち3人は爆笑してしまった。
可笑しくて、もう本当に可笑しくて、下の前歯が一本欠けている母と、上の前歯が一本欠けているわたしと、たったの9本しか歯が残っていない義父が、大きな口を開けてワハハワハハと涙を流しながら笑った。
なんとか予約を取り付けた後も、思い出しては笑い、また思い出しては笑う母。
やっと初めて、心から、来て良かったなあと思った。
出発の朝、こんなチャンスは2度と無いからと言って、3人で歯抜け爆笑記念写真を撮った。
年齢66歳、77歳、88歳の記念写真である。
こんなにすてきな笑顔の二人を見たのは初めてで、わたしはこの写真を一生の宝物にしようと思う。

追記
なんと母は朝から爆笑した最後の日に、いきなり瀧本先生のところに行くと言い出した。
それで慌ててスポーツ専門店に行って靴を買い、お薬手帳と一緒に持っていくようにと念を押して、あとは義父に任せた。
治療を受けてみて、やはり家から遠く疲れがひどいから通えないと思い、もう2度と行かないと言っていたのだけど、その夜は5時間も続けて眠れて、しかもそれだけ長く寝ると必ず痛んだ足がちっとも痛くなかったので、また治療を受けに行くことにしたらしい。
先生とは治療当日までに何度もLINEで話をし、母の性質や症状などを細かに伝えた。
1時間半かけて、整体と鍼治療、そして歩き方の指導などをし、その様子をLINEで話してくださったのだけど、その中で母のことを「バイタリティ強めのじゃじゃ馬母さん」とおっしゃっていて、そのあまりにも的確なあだ名に感動した。
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家族もよう

2022年06月08日 | 家族とわたし
義父がこの世を卒業した日からもうすぐ1ヶ月。
不思議な時間の流れ方だった。
すごく前のことだったような気もするし、まだついこの間のことだったような気もする。
最も近しい家族たちは淡々と、静かに、ひそやかに、自身の気持ちを整えている。
わたしはまだ中学生の頃から、周りに自分の他の誰もいないまま、目の前で息を引き取っていく家族や親族を看取ったことが何回もある。
まるで知らない赤の他人さんなのに、たまたまお浄霊をさせていただいている時に最期の時が来て、看取らせてもらったこともある。
看取った後で亡くなったことを伝えに行くと、人それぞれのいろんな反応が返ってきたのだけど、そこには常にあふれ出てくる涙や言葉があった。
けれども今回経験したお見送りは、これまでのどのお見送りとも違う、実に淡々とした、もっと言えば清々しいお別れで、それがわたしを大いに戸惑わせた。
義父が息を引き取った瞬間から、彼の存在は義母の心の中に移った。
だからご遺体はもうただの物体で、遺灰もただの粉なのだ。
けれどもだからといって、その粉をそこらへんに撒いて捨てるわけにもいかない。
どうしたらいいものかと思案していたら、ある人からアメリカ合衆国政府が管理している、軍人、軍関係者や民間の重要人物等が埋葬されている墓地が、実家から車で15分ほどの所にあることを教えてもらい、そこに埋葬してもらうことにした。
セレモニー、埋葬、そしてその後の管理一切が無料で、妻である義母も、その時が来たら一緒に埋葬してもらえるのだそうだ。



そこでこれをお葬式の代わりにすることにした。
義父の妹たち、妻と息子と娘、孫たち、そしてとても近しい友だちや関係者だけが墓地に集まり、その後近くのホテルでランチを食べながら、義父の思い出ビデオをみんなで鑑賞した。

墓地でのセレモニーは一家族約15分。
トランペットではなくソプラノサックスがタップスを演奏し、その後3発の空砲が撃たれた。
事前に小さな子どもや心臓に疾患がある人は耳を塞ぐようにとの警告があり、わたしはそのどちらでもないけれど耳を塞いでおけばよかったと後悔するほど、とても心臓に悪い爆音が響いた。
その後に始まったこの儀式、国旗を広げ、また折り畳んでいく作法がとても興味深かったので、こっそり撮影したのだけど、案の定後で夫から呆れられた。


動画をここに載っけたら叱られるのかなあ…。内緒でここです→ https://youtu.be/_brMaP2lpLo

国旗を受け取った後、退役軍人さんからのお悔やみの言葉をいただく義母。


このセレモニーに参加するために、次男くんがまた西の端っこから東の端っこに帰省した。
彼は直前にシカゴで大きなトーナメントがあったらしく、そこですでに2時間の時差ボケをし、さらにここで1時間の時差ボケが追加され、普段からの寝不足も加わって体調が良くなかった。
三つの違う仕事を掛け持ちしている彼は、常日頃から極端な寝不足が続いている。
そこに、ついに自分がデザインしたゲームの完成が間近に迫っていることも重なって、無理に無理を重ねているので、せめて里帰りしている間ぐらいゆっくりさせてあげようと思っていた。
なのに、例えばわたしが台所で、溜まりに溜まったゴミ袋をゴミ箱から取り出そうとして、思わずウッと唸り声をあげると、リビングでくつろいでいるはずの次男くんが「どうしたん?」と言って駆け寄ってくる。
彼のすぐ隣で携帯電話記事を読んでいた夫は、その次男くんの慌てぶりに驚いて、何事かと付いてきた。
もしも次男くんがいなくて夫一人だったら、わたしが大声でヨイショーッと叫んでも、1ミリも動くことはない。
手伝おうとする次男くんに夫が一言、「これ、手伝う必要ある?」。
わたしの心の中に吹き荒れた大嵐については割愛する。

とにかく彼は優しい。
頼みもしないのに何かと気遣って助けてくれる。
頼んでもあれこれ理由をつけて断ってくるどこかの誰かさんとは桁違いの優しさなのである。
なのでやっぱり甘えてしまった。
左腕の上部が痛くて重いものが持てないので、ガーデニングの土やウッドチップを買い控えていたのだけど、この時とばかりに店に行って運搬を手伝ってもらった。
疲れてるのにごめんねと言うと、ちょうど運動不足だったので良い運動になると言って、バーベルのように頭の上に持ち上げたりする。
いやあ全く、一体誰の子だ?
いやいや、親バカが炸裂してしまったようだ。ここらへんでやめておこう。

長男くんと奥さんのTちゃんも2泊3日で来てくれた。
3人が揃うのは本当に久しぶり。
次男くんのフィアンセのEちゃんもいたら良かったのだけど、愛犬スミくんを置いて来るわけにはいかない。
それはともかく、このろくすっぽ会えなかった魔の2年半の間に、長男くんは出世し、Tちゃんはグリーンカード&公認会計士資格を取得し、新居に引っ越した。
次男くんとEちゃんも、それぞれの夢だった仕事に就職し、西海岸に引っ越して行った。
なのに夫とわたしは、全く何もしないまま時間だけが過ぎてしまっていた。
なのでこの機会に、残念ながらEちゃんはいないけど、せめて3人にご馳走しようと、最近見つけたお寿司屋さんに出かけた。
へそくりがちゃんと財布の中に入っているのを確認して、みんなにおまかせ寿司を薦める。

これは先月の末に、結婚30周年記念を祝って夫と二人で食べたメニューで、それがとても美味しかったのだ。





と続き、とびっきり旨い寿司が登場する。

次にミニステーキがやってきてデザートで〆る。


息子たちは二人揃って、親とは真逆の高給取りで口が肥えているからか、寿司以外にはあまり感動してくれなかったけど、でもまあいいや、みんなで楽しく食べられたんだからと、気を取り直してお会計をしてもらおうとすると、
いや、今夜は僕が出すつもりやったと長男くん。
え?そういうわけにはいかんわ、わたしが勝手にメニューを決めてお祝いのつもりでご馳走しようと思ったんやから。
そのお金ってどっから?
どっからって、わたしのへそくりやん。
そんなら余計に使わすわけにはいかんわ、僕が払う。
というわけで、長男くんには大金を散財させて、次男くんには肉体労働を強いた、とほほな母親で終わってしまったのであった。
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さようなら

2022年05月17日 | 家族とわたし
5月11日の朝、義父が亡くなりました。
享年81歳、来月6月の82歳の誕生日を迎えることはできませんでした。



彼が数年前に癌を発症してからの闘病生活の介助、昨年末に肺炎を発症してからの看護と介護は、長年連れ添った義母が一手に引き受けていましたが、在宅ホスピスケアが始まってからは流石に一人では無理になり、最期の2ヶ月間は夜間ケアを引き受けてくれる看護師を雇いました。
息子であり、鍼灸や漢方の治療ができる夫は、毎週末の3日間はペンシルバニアにある実家に通い、父親の容態に合わせて看護を続けていました。


義父の容態は日々変化し、調子が良かったり悪かったり、もう危ないかと思ったらまだまだ大丈夫と思ったり。
施設や病院には入りたくないという彼の思いを尊重するには、介護する家族の者が、さまざまな医療機器をレンタルしてはそれらの使い方を学んだり、口から食べてもらえる食事の工夫や空調管理、床ずれ防止の方法などを身に付けなければなりません。



それに義父は紙オムツの使用が本当に嫌だったので、自分で用を足そうと最後までもがいていました。
そもそも父は、家族にさえ、くつろいだ服装を見せないような人でした。
パジャマ姿はもちろんのこと、どんなに暑い日でも下着やカジュアルな部屋着などで過ごすこともなく、ショートパンツでさえ履かなかったので、この30年、わたしは義父の太ももはもちろん脛も素足も見たことがありませんでした。
あ、そういえば、ハワイに旅行した時だけ履いていたかもしれません、ショートパンツ。
でも、絶対に泳がなかったので、水着姿も見たことがありません。
なので自分の意思でおしっこを出さなかったり、うんちを我慢してしまうようなこともありましたし、もう自分では立てないのに立とうとして、女性の看護師さんを困らせたりもしたようです。



最後の最後まで自分らしくあろうとした義父は、家族が誰もいなくなった日の朝に、いつものように食事をし、付き添いの看護師さんと一言二言言葉を交わし、その後静かに息を引き取りました。



小学校の頃からの知り合いで、中学校高校とお互いを気に留めながら過ごし、大学時代から恋人になり、結婚をし、その後60年を義父と共に暮らしてきた義母は、彼の闘病をずっと支えてきました。
義父は癌の発病後数年で視力をほとんど失い、生活の中の事細かな部分で助けが必要となり、服の着替えから靴を履くことはもちろん、会議への出席やメールの読み聞かせなどの事務的な補助や食事の管理など、義母にとっては一日中休む間も無い状態が何年も続いていました。
ベッドに寝たきりになってからは、そういう類の世話はしなくてもよくなりましたが、今度は命の存続に関わる事態になったので、義父の症状が良くなる食べ物やサプリメントを与えようと奮闘していました。



主任看護師や義母、そして夫が見る限り、これは長期戦になるんじゃないかと考え始めていた今月の初めに、義母はここらで一度休みを取ろうと決心し、家から4時間ほど車で走ったところにあるリゾートに出かけることにしました。
それを義父に伝え、実に6、7年ぶりに夫の元から離れ、独りの時間を過ごしに出かけたその二日後の朝、台湾人の鍼灸師に施術をしてもらっている最中に訃報が届いたのでした。
その場に居合わせた鍼灸師は、ショックでうまく息ができなくなった義母が落ち着くまで寄り添ってくれたそうです。



義父らしいお別れだったなあと、今ではしみじみそう思います。

義父はハーシー社の重役を務めた後、存続が危ぶまれていた保険会社の再建などに活躍し、さらには非営利団体や官民団体の役員を通して芸術への並外れた貢献と支援を続け、数々の表彰を受けました。
それらの活動を通して彼と関わった人たちは皆、口を揃えてこう言います。
「彼がいなければ今日の〇〇は存在しなかった」
「彼はとても物静かだが、仕事は受動的でなく、物事をきちんと把握し、失敗を許さなかった」
「彼は慈善活動を通じて、謙虚で静かな人柄を保った」
「既存のアーティストや古典的な作品に資金を提供するのではなく、新しいものを積極的に求めることに並々ならぬ情熱を持っていた」
「人生の最後の30年間を、非営利団体のリーダーシップと非営利団体内のリーダーの息性に捧げた」
彼のお悔やみ記事は、地元紙の日曜版の3ページ目を全て使って大きく掲載されました。


大々的な表彰式には何回か出席したことがあったので、彼の業績や貢献をわたしなりに理解していたつもりでしたが、彼は本当に偉大な人だったんだなと思います。
彼のような人と出会えたことを、心から感謝したいです。

義父が亡くなった日、夫とわたしは仕事を全てキャンセルし、ペンシルバニアの実家に向かったのですが、途中で義母を出先まで迎えに行くべきだと考え、行き先を母が滞在しているリゾートに変更しました。
結局辿り着いたのは夜の11時。


急遽、数時間だけ寝るためだけに一部屋借りてもらい、翌日の朝早くに、わたしたちを待つ義父の元に戻りました。




義母は自分の胸に手を当て、もうあの体には彼はいない、ここにいるのだからと言って、葬儀屋の人たちが彼のご遺体を家から運び出す際にも見送ることもしませんでした。
先週の始めまで長期戦になると思っていたので何も決まっておらず、先週末は火葬や遺灰の埋葬などの日程を決めることで忙しかったのですが、今はそれらのほとんどの段取りがつきました。
義母を寂しくさせないようにと、夫も一昨日まで実家に留まっていましたが、多分大丈夫だろうとこちらに戻って来ました。


結婚する前の15年間、結婚してからの60年間、本当に長い年月を共に過ごしてきたパートナーでした。
その相方がいなくなった義母の喪失感を、わたしには計り知ることなどできません。
けれども義母は、どんどんとできないことが増え、心底嫌がっていた下の世話を断ることができなくなった夫が、弱々しく手を振りながら、なんとかしてベッドから出ようとする姿を見るにつけ、こんな質の悪い生活を長く続けさせたくないと考えていたようです。

在宅ホスピスという、家族にとっては最も大変な方法を選び、最後まで頑張り抜いた義父と義母。
もうこの舞台は閉じられます。


部屋の主がいなくなったことを敏感に感じ取っている家猫ピーターは、ここで昼寝をすることが増えました。



お義母さんのこと、頼むね、ピーター。
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Restaurant BLOOM in Verona NJ

2022年04月15日 | 家族とわたし
明日からまたペンシルバニアに向かう夫が、誕生日の前祝いをしてくれました。
フレンチレストラン・ブルームを紹介します。
648 Bloomfield Ave, Verona, NJ 07044
1-(973) 433-7256

何か特別なことがある時に行きたくなる、車で15分くらいの隣町のお店です。
韓国人シェフのウーさんのお料理は、食材のひとつひとつが小さいけれどしっかりとした声で主張していて、そしてそれぞれが本当に美味しいのです。
サラダに和えたグレープフルーツの一房でさえわざわざ柚子ソースをまとわせたりしていて、舌に乗せた途端「ん?」とか「うわ!」とかいう思いが込み上げてきます。
行くたびに、なんでこんなに美味しいんだろうと夫と二人で感心してばかり。
今夜はたまたまお客さんが少なかったので、ウーさんと話すことができました。
彼の経歴を聞いて大いに納得。

お店のウェブサイトに掲載されている文章です。



ウー・シェフの料理に対する情熱は、幼い頃から韓国で母親と一緒に料理をしていたことに始まります。
プロのシェフになることを夢見て、ニューヨークのフランス料理学院(FCI)に入学しました。
その努力と技術により、世界的に有名なレストランで6年以上働く機会を得ました。 
そのレストランは以下の通りです。
ニューヨークのJean-Georges、Daniel、Morimoto(まうみ注・料理の鉄人さんです)などです。
その後、家族とともにニュージャージーに移り住み、Prime and Beyond, Fort Leeのエグゼクティブシェフに就任しました。
この店は高級ステーキハウスであるため、絶賛され、強い支持を得るようになりました。

いやはや、なるほどなるほど。
というわけで、この2年半に渡るコロナ禍を耐え忍び、乗り越えてくれたことに感謝!

今日のお料理。
バターナッツスクワッシュスープ

ビーツサラダ


貝柱とワイルドマッシュルーム、そしてキムチピューレとキノコリゾットの組み合わせ

いつもは食べないデザート(ティラミス)ですが、誕生日なので特別に。お店のスタッフがロウソクに火をつけてお祝いしてくれました。

ウーさん、ありがとう!
いちびって片言の韓国語をしゃべっちゃってごめんなさい😅
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音楽のちから

2022年04月05日 | 家族とわたし
肺炎を患ってからの義父の容態は良くなったり悪くなったりを繰り返しながら今に至っている。
彼の血中酸素飽和度は80%台が通常になり、咳も毎日続いている。
それでもベッドをリクライニングに替え、一階のリビングに移し、日当たりの良い広々とした空間で過ごせるようになってから、少しずつ様子が変わってきた。
看護師が7人、日替わりで彼の基本的な世話を引き受けてくれるようになったおかげで、義母が終始近くに居る必要が無くなり、彼女にとってもずいぶん楽になった。



夫の単独ペンシルバニア通いはもう何週目になったのだろう。
1週間のうちの約半分を向こうで過ごし、義父の体調を整えるための漢方を処方し、必要があれば鍼を打つ。
義母の不眠や疲れにも対処しなければならないから、いつの間にか大きなビリヤード台が漢方薬の容器と処方箋で埋め尽くされていた。



今回は息子たちの同伴も無く、一人で運転しなければならなかったが、6日間続いた便秘を解消し、血中酸素飽和度が90%台に戻った義父に、ピアノの音を聞かせてあげるのは今だと思い、楽譜をバックパックに詰め込んで行った。
あいにく空模様はぐずついていて、時々ゲリラ雨にも見舞われて、何度かハラハラさせられたドライブだったけど、なんとか無事に到着し、ピアノを弾きに来たよと義父に告げると、うんうんと頷いてくれた。

義父が居るリビングには、彼の母親の形見の古い古いグランドピアノがある。
もう何年も調律をしていないから、きっとひどい音だと思うと義母が心配していたが、弾いてみるとそれほどでもなかった。
低音部に弾いても音が出ない鍵盤があったけど、まあそれほど大きな影響が無いので無視をした。
義父が若かった頃に愛したであろう曲や、クラシックの中から穏やかで温かく、懐かしい感じがする曲を選んで弾いていたのだけど、何曲か弾き終わった時に急に、「ワォ!」という義父の声が響き渡った。
そこに居た誰もがびっくりして、顔を見合わせていた。
この数ヶ月、彼のそんな大きな声を誰も聞いたことが無かったからだ。
わたしも心臓がドクンとした。
その後すぐに嬉しさが込み上げてきて、だけど楽譜が読めなくなると困るので、泣きたくなるのを抑えながら演奏を続けた。
父のその声は、わたしがピアノを弾いた時によく言ってくれてた、まだまだ元気そのものだった頃の彼の声と同じだった。
父は音楽が大好きで、わたしたちをよくオペラやミュージカルや著名な演奏家の演奏会に連れて行ってくれた。
どれもチケット代がバカ高かったので、その合計額を頭の中で計算しては仰天したものだ。
終わったらいつもどうだった?と言うので、もうめちゃくちゃ感動した、どの場面のどの演技が素晴らしかった、あの役者はイマイチだったなどと好き勝手なことを言ったけど、義父はそれを嬉しそうに聞いていた。



見ず知らずの、異国の、正式に離婚の成立もしていない8才も年上の、しかも2人の幼児を連れたわたしと共に生きていくと決めた息子を信じてきてくれた。
義父は初めて会ったその日からずっと、わたしや息子たちを大切に思ってきてくれた。
尊重し、認め、愛し、わたしたちがわたしたちであることを両手を大きく広げて受け入れてくれた。
彼はわたしを素晴らしい母親だといつも褒めてくれた。
そしてどんな状況の時でも、いい仕事をしている、勇気がある女性だと讃えてくれた。
彼は自分の気持ちや考えを伝えることがほとんど無かったし、スケジュールを決め、それにみんなを従わせることは当然だと思っている人だったから、小さな衝突は何度も起こった。
夫を含む3人の子どもたちとも、開けっ広げであたたかな関係を作ろうとしなかったから、3人それぞれが苦い思い出を抱えている。
義父は昭和時代で言うモーレツサラリーマンで、だからこそ大企業のトップにまでのし上がったのだけど、早くに引退してからも他の大企業の相談役などをずっと務めていたので、義母は寂しい時間をたくさん過ごした。
昨年、二人は結婚60周年を迎え、ズームチャットでお祝いをしたばかり。
60年といえばわたしの人生とほぼ同じ年数で、わたしと夫は30年だから、まだまだ小僧なのだという気がする。



ピアノを弾いていると、ベッドの方からいびきが聞こえてきたので演奏を中断した。
子守唄になったのならそれも嬉しい。
台所に戻ってお茶を飲んでいると、夫がやってきて、また弾いてって言ってると言うので居間に戻った。
それからまた少し弾いていると、またもやいびきが聞こえてきたので、とりあえず今日はこれでお開きにして、また来週にはどんな曲を用意しようかなどと考えながらベッドの横のカウチに座っていると夫から呼ばれた。
ベッドに近づいていくと、夫が義父に、今日のピアニストと握手をしないか?と言って、義父がそろそろと手を伸ばしてきた。
わたしはその手を両手で包みながら、義父に、ピアノを弾かせてくれてありがとうと伝えようと彼の目を見た。
本当に本当に驚いた。
それまでずっと白濁して、ほとんど見えなくなっていた彼の目がすっきりと澄んで、綺麗な、かすかにグレーがかった青色に戻っていたからだ。
一体何が起こったのかわからないけれど、彼のその目の色を見たのは本当に久しぶりだったので、カメラに収める代わりにわたしの心の引き出しに収めることにした。
彼のあの「ワォッ!」という声と一緒に。

お義父さんありがとう。
お義父さんからはもらってばかりだ。
どんなに感謝しても絶対にし足りない。
これからのわたしは、ピアノを弾くたびに、あの「ワォッ!」と青い目を思いだすだろう。
そして何度でも嬉しく、懐かしくなるだろう。
また弾きに行くからね。
待っててね。
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生きたい気持ち

2022年03月31日 | 家族とわたし
春から秋にかけては裏庭の菜園の隣で、秋から冬の間はわたしの寝室で育ち続けているキンカンの木。
一時期は弱ってもうだめかと思ったこともあったけど、その後じわじわと蘇り、今年はたくさんの実をつけてくれた。
今回は楊枝の先で所々に穴を開け、砂糖を加えずにブランデーに漬け込んでみた。

漬けてから1ヶ月をめどに実を取り出していただくのだそうだけど、さてさて、どんな味に仕上がるだろうか…。

先週末はカルフォルニアから飛んできた次男くんと一緒に、ペンシルバニアの義父のお見舞いに行った。

先週末は、西海岸沿いの町でカラッと晴れた暖かな気候を満喫している彼には酷な寒さで、おまけに雪まで降ってきた。
いくら花冷えといっても、氷点下5度まで下がると身も心も縮こまる。
西海岸と東海岸の時差は3時間。
これに加えて、数日前まではバルセロナに出張していたので、彼の体感時間はもうめちゃくちゃになってしまった。
なので運転は大変だろうと思い、何度も交代を申し出たけど、結局行き帰りの運転を全部引き受けてくれた。


車の中でいろんな話をした。
次男くんは祖父とじっくり話ができなかったことを悔やんでいた。
人受けの良い長男くんに比べ、どちらかというとユニークな言動が多かった彼は、祖父が自分のことをどう思っているかが気がかりだった。
日本の学校では突飛な行動が目立ち、担任の先生の受けが良くなかった。
集団行動からはみ出ることも多かった。
それでこちらに移ってからは心機一転、良い生徒になろうと決心したのだけど、如何せん英語がよくわからず、違う意味で良い生徒にはなれなかった。
母親の離婚騒動に巻き込まれた孫を慰めようと、わたしの父が与えたゲームボーイで3歳から遊び始め、最初からどのゲームもすぐに攻略し、それからというもの、ゲームに熱中して欲しくない親の我々との攻防が続いた。
お茶目でふざけることが好きで、わざと悪ぶることもあったけど、思いやりに満ちていて、思考はいつも開放的だった。
だから絶対に大丈夫だと信じることができたし、どんな大人になるかがとても楽しみだった。
いわゆる有名大学には入学できなかったし、会社を転々としたけれど、常に真面目に働きながら、ゲームの世界では名声を得てスポンサーがついた。
二足わらじを履きながら、今はYouTube配信も手がけ、長年の夢だった世界最大のゲーム会社に入社してゲームデザイナーになった。
そういうこと全部を、わたしは義父に会うたびに話してきたのだけど、義父はいつもわたし同様に次男くんのことを理解していた。
そのことを次男くんに伝えると、彼は心底ホッとしたようだった。
会ってもきっと長くは話せないだろうから、一番伝えたいことをまず先に話した方がいいよと言うと、残念そうだったけれども踏ん切りをつけたようだった。


次男くんはコロナ禍が始まってからずっと、自宅勤務を続けている。
ガールフレンドのEちゃんと愛犬炭(スミ)くんと一緒に暮らしているのだけど、わたしたち両親から授かったいろいろな事柄を生活の中で活かしたり改良したりしているらしい。
彼もわたしと同じく、他人と一緒に暮らすようになってから掃除魔&片付け魔となったようだ。
自宅に居ることが多くなってから、宇宙のことをたくさん学んでいて、その膨大な量の事実を知るにつけ、人生そのものに対する考えが大きく変わったそうだ。
そのほんの一部を話してくれたけど、どれもこれもが唖然とするような話で、この世にはまだまだ知らないことが多過ぎるとしみじみ思った。

義父が役員になるまで長年勤め上げたハーシーズの新しい工場が、彼の家の近所に建っていた。

義父の容態は一進一退で、緊急の連絡が入った時のためにスーツケースには数泊用の着替えを詰めてある。
夫はまた明日からペンシルバニアに向かい、眠りや排便を助けるための漢方を処方する。
義父はまだ死にたくないと言う。
気が済むまで生きて欲しいと思う。
わたしの父も、モルヒネを増量されて意識が混濁する直前まで、家に帰りたい、生きたい、天ぷらが食べたいと言い続けていた。
義父は自分でトイレに行きたいあまりに無理をして、ベッドから転落した。
咳がひどく、体力も落ち、食べることも飲むこともほとんどできず、酸素吸入をしても息苦しい。
けれども生きたいという気持ちを持ち続けている。
もし許されるなら、義父のためにピアノを演奏してあげたい。
彼はわたしがピアノを弾くのをいつもとても喜んでくれていた。
そういう時間が許されますように。
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青空の下で

2022年03月12日 | 家族とわたし
母は、自分が家を出た時は着の身着のままで追い出され、だからもちろん所持金も無く、近くの公民館の噴水の脇で長い間座っていたと言う。
わたしとはまるで違う話だ。
身動き一つできずに突っ立っていたわたしの脇を、スーツケースを持った彼女が通り過ぎた時に揺らいだ廊下の空気や、後ろを振り向きもせずに玄関に突進して行く彼女の背中の硬さを、わたしははっきりと覚えているというのに。
母は、靴に足を入れるのももどかしいほどに苛立ちながら玄関のドアを開け、そうしてそのまま出て行った。
「ママー!ママー!」と泣き叫びながら母を追おうとする弟を止め、そのまま廊下の隅にうずくまり、膝小僧におでこを乗せて息を整えていると、突然胸のあたりにぽっかりと、黒々とした穴が空き始めた。
それを見ながら、「ああ、胸に穴が空くというのは本当にあるんだな」と感心したことまで覚えている。
そしてその日は母の日だった。
でもそれは、もしかしたら、わたしの頭の中だけのことなのかもしれない。
母の日の翌日はもちろん月曜日で、だからわたしも弟も学校に行かなければならなかった。
弟は愚図ったが、こういう時こそお姉ちゃんなんだから弟を連れていつも通りに学校に行かなければならないと言う父の命を受けて、泣き腫らした目を瞬かせながら外に出た。
空は5月晴れで腹立たしいほどに輝いていた。
町も人も、どれもこれもがいつもと変わらず、どちらかというと活き活きと楽しげだった。
うなだれて歩く弟の手をひきながら、13歳のわたしは痛感した。
わたしたち姉弟の身の上に突然降りかかってきた不幸や悲しみや辛さは、誰にもわからないしわかってもらえない他人事なのだと。
カラカラに晴れた空の下で、そのことがくっきりと、まだ穴が空いたままのわたしの心に刻み込まれた。

その事件以降、追い討ちをかけるような事件が次々に起こって、わたしは何度も折れそうになったけど、それでも結局は生き延びて今に至っている。
そして生き延びられたのは、いつも誰かが手を差し伸べたり、陰で支えてくれたりしたからで、決して自分だけの力ではないことも知っている。

世の中で、大小関わらず事故や災害や戦争や家庭内の争いに巻き込まれた人たちのことを知るたびに、あの日の青空を思い出す。
そして見知らぬ人たちの心に思いを馳せる。
何も無かったかのように素知らぬ顔をしてやってくる日常に、憤ったり恨めしく思ったりした13歳のわたしを思い出しながら。

またあの日がやってきた。
時差があるから正確にはもう過ぎたのだけど、わたしの中の3.11への思いと祈りを今日一日持ち続けようと思う。
そして愚かな権力者たちの暴力で命を奪われる恐怖に苛まれている人たちが、1日も早く平安な毎日を取り戻せるよう祈り続けようと思う。
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2022年あけました!

2022年01月01日 | 家族とわたし
2022年、明けましておめでとうございます!

今回は、2年もの強制遠距離交際&別居結婚を経て、やっと一緒に暮らせるようになった長男くんの新妻さんTちゃんが加わって、夫とわたし、そして新婚夫婦の4人で新年を迎えました。
次男くんとガールフレンドのEちゃんは西海岸に引っ越してしまったので、今回は残念ながら一緒には年を越せなかったのだけど、なにはともあれ、みんな元気に、無事に、新たな年を迎えることができて本当にありがたいです。

昨日今日と、いつもの仕事と大晦日&お正月用の食材の買い足しと調理で朝から晩まで立ちっぱなしでしたが、若い二人にうまいうまいと言いながら食べてもらえて、もうそれだけで心はホカホカです。

ここ数年の年末はそれまで作ったことがない料理に挑戦することにしていて、といってもそんなたいそうなものではなくて、まあわたしでも作れる程度のものを選んで作っています。
今回はこれ。
大根の薄切りと生ハムをただただ重ねていくだけです。
挟み込む薬味は青じそと生姜と柚子の皮の千切り。食べるのは元旦のお昼。美味しいかなあ…。

特大の、高菜とおじゃこのお稲荷さん。

お正月料理は甘いものが多いので、口直しにナムルを。

これまでに一回も失敗したことがなかった伊達巻でしたが、フライパンを熱し足りなかったのか、初めてぱっくりと割れてしまいました。
まるで陰と陽😅
巻き簾でぎゅうぎゅうに巻いたらくっつくかな?


今年の年越し蕎麦はとろろ蕎麦にしました。
去年までずっと、まさに60年以上も、年越し蕎麦は年を越すその瞬間に食べなければならないと思い込んでいたわたしでしたが(だから息子たちはもちろんのこと、米国人夫もその犠牲に😭)、そうではなくて大晦日に食べたらいいと知り、今年は夕飯後の、ちょいと小腹が空いてきた頃にいただきました😅

ここ数週間でオミクロン株のコロナ感染がうなぎのぼりに増え、わたしたちの周りの知人や関係者の中にも感染した人が出てきました。
夫の患者さんの中にも感染者がいますが、漢方医としての知識と経験を生かし、いわゆる風邪の全ての段階(種類)の治療をしています。
遠隔(オンラインや電話)で治療することも可能です。
実は夫もわたしも、2週間ほど前から乾いた咳が出始め、半日単位で変わってくる症状に合わせて漢方薬を処方してもらい、それをせっせと飲み続けているうちに平常に戻りました。
もちろん症状が出た次の日にPCR検査を受け、軽くなってから簡易検査を受け、そしてさらにもう一度検査を受けたのですが、結果は全て陰性。
それでもやはり検査は100%正確ではないし、症状がすっかり無くなったとしても一日二日は飲み続けるのが漢方の治し方なのだそうで、今ではすっかり漢方薬ファンのわたしは、今回は一体どんな組み合わせになるんだろうなどと楽しみにしていたり…人ってここまで変われるもんなのですね😅

今年のカウントダウンは意外と人が集まっていてびっくり😵


これがまた感染拡大のきっかけにならなければいいが…などという心配などしなくてもいい世界が戻ってきますように!
コメント (2)
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二人の辛抱が実った日

2021年08月01日 | 家族とわたし
2021年7月29日、とうとう二人の結婚手続きが完結しました。
長い長い2年間でした。
プライベートの話をブログに載せないでくれ、と再三言われているのですが、このイベントはわたしにとってもとても大切なものなので、あとで雷が落ちるのを覚悟して…😅
Tちゃんの就労ビザが切れて日本に戻らなくてはならなくなったのが2年前の7月。
別れ別れになる少し前に出かけた旅先で、夕日をバックにプロポーズをした息子Tに、その場でオッケーの返事を返してくれたと言うのを聞いてホッと一安心したのも束の間、その日から二人の長い遠距離交際が始まったのでした。
正式に婚姻届を出せるのはまだまだ先だと分かっていましたが、とにかく挙式だけは挙げようと明治神宮を予約した二人。
それが日本での新型コロナウイルスの感染問題が始まる直前の、2月末のことでした。
彼らの挙式記念日はだから、4年に一回しかやってきません😅
せっかく日本に行くのだからと2週間の日程を組んだのですが、結局米国の航空会社が便数を減らし始めたことを知り、式後の1週間をキャンセルしてこちらに戻ったら、なんのことはない、こちらのロックダウンが始まりました。

それからの1年半、インターネットを活用して、二人はお互いの思いを共有し、励まし合ってきたのでしょう。
彼らよりも周りの我々の方が、大丈夫だろうかと気をヤキモキさせていたような気がします。

本当におめでとうTak&Tak!(偶然に二人の名前の最初の3文字がTakなので)
婚姻式が行われる役所で

婚姻届を無事に出し終えた二人と証人となって同席した夫(コロナ禍でさえなかったらわたしも部屋に入れてもらえたのに😭)

母親になって35年、娘ができました😃
これから何年残っているかわからないけど、この世を卒業するその日まで、こんなですがよろしくね。

【おまけ写真】
息子たちの結婚手続きが無事終了した後に食べに行った『寿司麻布』のちらし寿司。絶品でした。
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空(クウ)と海(カイ)より、暑中お見舞い申し上げます!

2021年07月12日 | 家族とわたし
みなさまお久しぶりです。クウとカイです。いかがお過ごしでしょうか。
こちらは猛烈に暑い日が続いたかと思ったら、雨が降ったり止んだり、雷雨に暴風雨、何でもありの毎日が続いています。
ボクらは毛を剃るわけにもいかず、暑くなったり雨が降ったりする中、てきと〜に涼しい場所を見つけてはゴロゴロだらだらしながら過ごしております。

さて、裏庭の菜園では、ボクらには全く意味のない野菜がニョキニョキと育っています。

眩しいからあまり見上げないようにしている空には、モクモクとでっかい雲が泳いでいます。

先日ちょっと変な匂いがするムール貝を食べてしまったとーちゃんは、慌ててこんな飲み物を作っていました。
生姜湯に前庭からむしり取ってきた青紫蘇を入れたやつです。
漢方師の知恵ってやつでしょうか?

さて、昨日はとーちゃんの56回目の誕生日でした。
ちょうどとーちゃんの両親がマンハッタンに滞在してたので、みんなでお祝いしようということになりました。
かーちゃんととーちゃんの息子Tと1年半も前に挙式を済ませたのに、滞在ビザの取得に8ヶ月も待たされていたフィアンセTちゃんが、やっとのやっとビザを手に入れて渡米できたお祝いも兼ねて、6人でディナーです。
こういう場合、ボクらは全然楽しくありません。
変な時間に食べさせられて、けれどもちょっと物足りなくて、その後2人が帰ってくるまで延々待たされるからです。
そういう晩はイライラが募って取っ組み合いをしたり追いかけっこしたり、しょうがないからふて寝したりして過ごします。
まあでも、ひとりぼっちで留守番しなければならなかった先住猫のショーティよりはマシかもしれないんだけど、彼女に聞くことはできないから本当のところはわかりません。

とーちゃんたちはマンハッタンに行くのが久しぶり過ぎて、リンカーントンネル辺りの名物渋滞のことをすっかり忘れていたようです。
トンネル直前のスロープで車が止まってしまい、街の方を観ると…。

かーちゃんが大好きなエンパイアステートビルディングが、島の東側に新しく建てられたノッポビルに隠れて、ほとんど見えなくなっていました。
なんじゃこれは!とかあちゃんは大騒ぎしたのだそうです。

ボクらが生まれた街(空はクィーンズ、海はマンハッタン)は、コロナ禍以前の姿に戻りつつあるようです。



ダコタハウスのお隣が今日の目的地。


おまけ
ずっとずっと娘が欲しかったかあちゃんに、念願の娘ができました。
そのTちゃんがかあちゃんと一緒に初めて作ったお味噌を、T&T夫妻に小分けして届けてやろうと、かあちゃんは地下室から壷を運んできて、2年と4ヶ月ぶりに蓋を開けました。

重しの塩に溜り醤油が染み込んでいます。

塩の下はこんな感じ。
ああなんて美しいんやろ…と言いながら、かあちゃんはクンクン匂いを嗅いでいました。
全くカビが無いのもすごい!

2年4ヶ月もののお味噌です。
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