ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

Restaurant BLOOM in Verona NJ

2022年04月15日 | 家族とわたし
明日からまたペンシルバニアに向かう夫が、誕生日の前祝いをしてくれました。
フレンチレストラン・ブルームを紹介します。
648 Bloomfield Ave, Verona, NJ 07044
1-(973) 433-7256

何か特別なことがある時に行きたくなる、車で15分くらいの隣町のお店です。
韓国人シェフのウーさんのお料理は、食材のひとつひとつが小さいけれどしっかりとした声で主張していて、そしてそれぞれが本当に美味しいのです。
サラダに和えたグレープフルーツの一房でさえわざわざ柚子ソースをまとわせたりしていて、舌に乗せた途端「ん?」とか「うわ!」とかいう思いが込み上げてきます。
行くたびに、なんでこんなに美味しいんだろうと夫と二人で感心してばかり。
今夜はたまたまお客さんが少なかったので、ウーさんと話すことができました。
彼の経歴を聞いて大いに納得。

お店のウェブサイトに掲載されている文章です。



ウー・シェフの料理に対する情熱は、幼い頃から韓国で母親と一緒に料理をしていたことに始まります。
プロのシェフになることを夢見て、ニューヨークのフランス料理学院(FCI)に入学しました。
その努力と技術により、世界的に有名なレストランで6年以上働く機会を得ました。 
そのレストランは以下の通りです。
ニューヨークのJean-Georges、Daniel、Morimoto(まうみ注・料理の鉄人さんです)などです。
その後、家族とともにニュージャージーに移り住み、Prime and Beyond, Fort Leeのエグゼクティブシェフに就任しました。
この店は高級ステーキハウスであるため、絶賛され、強い支持を得るようになりました。

いやはや、なるほどなるほど。
というわけで、この2年半に渡るコロナ禍を耐え忍び、乗り越えてくれたことに感謝!

今日のお料理。
バターナッツスクワッシュスープ

ビーツサラダ


貝柱とワイルドマッシュルーム、そしてキムチピューレとキノコリゾットの組み合わせ

いつもは食べないデザート(ティラミス)ですが、誕生日なので特別に。お店のスタッフがロウソクに火をつけてお祝いしてくれました。

ウーさん、ありがとう!
いちびって片言の韓国語をしゃべっちゃってごめんなさい😅
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音楽のちから

2022年04月05日 | 家族とわたし
肺炎を患ってからの義父の容態は良くなったり悪くなったりを繰り返しながら今に至っている。
彼の血中酸素飽和度は80%台が通常になり、咳も毎日続いている。
それでもベッドをリクライニングに替え、一階のリビングに移し、日当たりの良い広々とした空間で過ごせるようになってから、少しずつ様子が変わってきた。
看護師が7人、日替わりで彼の基本的な世話を引き受けてくれるようになったおかげで、義母が終始近くに居る必要が無くなり、彼女にとってもずいぶん楽になった。



夫の単独ペンシルバニア通いはもう何週目になったのだろう。
1週間のうちの約半分を向こうで過ごし、義父の体調を整えるための漢方を処方し、必要があれば鍼を打つ。
義母の不眠や疲れにも対処しなければならないから、いつの間にか大きなビリヤード台が漢方薬の容器と処方箋で埋め尽くされていた。



今回は息子たちの同伴も無く、一人で運転しなければならなかったが、6日間続いた便秘を解消し、血中酸素飽和度が90%台に戻った義父に、ピアノの音を聞かせてあげるのは今だと思い、楽譜をバックパックに詰め込んで行った。
あいにく空模様はぐずついていて、時々ゲリラ雨にも見舞われて、何度かハラハラさせられたドライブだったけど、なんとか無事に到着し、ピアノを弾きに来たよと義父に告げると、うんうんと頷いてくれた。

義父が居るリビングには、彼の母親の形見の古い古いグランドピアノがある。
もう何年も調律をしていないから、きっとひどい音だと思うと義母が心配していたが、弾いてみるとそれほどでもなかった。
低音部に弾いても音が出ない鍵盤があったけど、まあそれほど大きな影響が無いので無視をした。
義父が若かった頃に愛したであろう曲や、クラシックの中から穏やかで温かく、懐かしい感じがする曲を選んで弾いていたのだけど、何曲か弾き終わった時に急に、「ワォ!」という義父の声が響き渡った。
そこに居た誰もがびっくりして、顔を見合わせていた。
この数ヶ月、彼のそんな大きな声を誰も聞いたことが無かったからだ。
わたしも心臓がドクンとした。
その後すぐに嬉しさが込み上げてきて、だけど楽譜が読めなくなると困るので、泣きたくなるのを抑えながら演奏を続けた。
父のその声は、わたしがピアノを弾いた時によく言ってくれてた、まだまだ元気そのものだった頃の彼の声と同じだった。
父は音楽が大好きで、わたしたちをよくオペラやミュージカルや著名な演奏家の演奏会に連れて行ってくれた。
どれもチケット代がバカ高かったので、その合計額を頭の中で計算しては仰天したものだ。
終わったらいつもどうだった?と言うので、もうめちゃくちゃ感動した、どの場面のどの演技が素晴らしかった、あの役者はイマイチだったなどと好き勝手なことを言ったけど、義父はそれを嬉しそうに聞いていた。



見ず知らずの、異国の、正式に離婚の成立もしていない8才も年上の、しかも2人の幼児を連れたわたしと共に生きていくと決めた息子を信じてきてくれた。
義父は初めて会ったその日からずっと、わたしや息子たちを大切に思ってきてくれた。
尊重し、認め、愛し、わたしたちがわたしたちであることを両手を大きく広げて受け入れてくれた。
彼はわたしを素晴らしい母親だといつも褒めてくれた。
そしてどんな状況の時でも、いい仕事をしている、勇気がある女性だと讃えてくれた。
彼は自分の気持ちや考えを伝えることがほとんど無かったし、スケジュールを決め、それにみんなを従わせることは当然だと思っている人だったから、小さな衝突は何度も起こった。
夫を含む3人の子どもたちとも、開けっ広げであたたかな関係を作ろうとしなかったから、3人それぞれが苦い思い出を抱えている。
義父は昭和時代で言うモーレツサラリーマンで、だからこそ大企業のトップにまでのし上がったのだけど、早くに引退してからも他の大企業の相談役などをずっと務めていたので、義母は寂しい時間をたくさん過ごした。
昨年、二人は結婚60周年を迎え、ズームチャットでお祝いをしたばかり。
60年といえばわたしの人生とほぼ同じ年数で、わたしと夫は30年だから、まだまだ小僧なのだという気がする。



ピアノを弾いていると、ベッドの方からいびきが聞こえてきたので演奏を中断した。
子守唄になったのならそれも嬉しい。
台所に戻ってお茶を飲んでいると、夫がやってきて、また弾いてって言ってると言うので居間に戻った。
それからまた少し弾いていると、またもやいびきが聞こえてきたので、とりあえず今日はこれでお開きにして、また来週にはどんな曲を用意しようかなどと考えながらベッドの横のカウチに座っていると夫から呼ばれた。
ベッドに近づいていくと、夫が義父に、今日のピアニストと握手をしないか?と言って、義父がそろそろと手を伸ばしてきた。
わたしはその手を両手で包みながら、義父に、ピアノを弾かせてくれてありがとうと伝えようと彼の目を見た。
本当に本当に驚いた。
それまでずっと白濁して、ほとんど見えなくなっていた彼の目がすっきりと澄んで、綺麗な、かすかにグレーがかった青色に戻っていたからだ。
一体何が起こったのかわからないけれど、彼のその目の色を見たのは本当に久しぶりだったので、カメラに収める代わりにわたしの心の引き出しに収めることにした。
彼のあの「ワォッ!」という声と一緒に。

お義父さんありがとう。
お義父さんからはもらってばかりだ。
どんなに感謝しても絶対にし足りない。
これからのわたしは、ピアノを弾くたびに、あの「ワォッ!」と青い目を思いだすだろう。
そして何度でも嬉しく、懐かしくなるだろう。
また弾きに行くからね。
待っててね。
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生きたい気持ち

2022年03月31日 | 家族とわたし
春から秋にかけては裏庭の菜園の隣で、秋から冬の間はわたしの寝室で育ち続けているキンカンの木。
一時期は弱ってもうだめかと思ったこともあったけど、その後じわじわと蘇り、今年はたくさんの実をつけてくれた。
今回は楊枝の先で所々に穴を開け、砂糖を加えずにブランデーに漬け込んでみた。

漬けてから1ヶ月をめどに実を取り出していただくのだそうだけど、さてさて、どんな味に仕上がるだろうか…。

先週末はカルフォルニアから飛んできた次男くんと一緒に、ペンシルバニアの義父のお見舞いに行った。

先週末は、西海岸沿いの町でカラッと晴れた暖かな気候を満喫している彼には酷な寒さで、おまけに雪まで降ってきた。
いくら花冷えといっても、氷点下5度まで下がると身も心も縮こまる。
西海岸と東海岸の時差は3時間。
これに加えて、数日前まではバルセロナに出張していたので、彼の体感時間はもうめちゃくちゃになってしまった。
なので運転は大変だろうと思い、何度も交代を申し出たけど、結局行き帰りの運転を全部引き受けてくれた。


車の中でいろんな話をした。
次男くんは祖父とじっくり話ができなかったことを悔やんでいた。
人受けの良い長男くんに比べ、どちらかというとユニークな言動が多かった彼は、祖父が自分のことをどう思っているかが気がかりだった。
日本の学校では突飛な行動が目立ち、担任の先生の受けが良くなかった。
集団行動からはみ出ることも多かった。
それでこちらに移ってからは心機一転、良い生徒になろうと決心したのだけど、如何せん英語がよくわからず、違う意味で良い生徒にはなれなかった。
母親の離婚騒動に巻き込まれた孫を慰めようと、わたしの父が与えたゲームボーイで3歳から遊び始め、最初からどのゲームもすぐに攻略し、それからというもの、ゲームに熱中して欲しくない親の我々との攻防が続いた。
お茶目でふざけることが好きで、わざと悪ぶることもあったけど、思いやりに満ちていて、思考はいつも開放的だった。
だから絶対に大丈夫だと信じることができたし、どんな大人になるかがとても楽しみだった。
いわゆる有名大学には入学できなかったし、会社を転々としたけれど、常に真面目に働きながら、ゲームの世界では名声を得てスポンサーがついた。
二足わらじを履きながら、今はYouTube配信も手がけ、長年の夢だった世界最大のゲーム会社に入社してゲームデザイナーになった。
そういうこと全部を、わたしは義父に会うたびに話してきたのだけど、義父はいつもわたし同様に次男くんのことを理解していた。
そのことを次男くんに伝えると、彼は心底ホッとしたようだった。
会ってもきっと長くは話せないだろうから、一番伝えたいことをまず先に話した方がいいよと言うと、残念そうだったけれども踏ん切りをつけたようだった。


次男くんはコロナ禍が始まってからずっと、自宅勤務を続けている。
ガールフレンドのEちゃんと愛犬炭(スミ)くんと一緒に暮らしているのだけど、わたしたち両親から授かったいろいろな事柄を生活の中で活かしたり改良したりしているらしい。
彼もわたしと同じく、他人と一緒に暮らすようになってから掃除魔&片付け魔となったようだ。
自宅に居ることが多くなってから、宇宙のことをたくさん学んでいて、その膨大な量の事実を知るにつけ、人生そのものに対する考えが大きく変わったそうだ。
そのほんの一部を話してくれたけど、どれもこれもが唖然とするような話で、この世にはまだまだ知らないことが多過ぎるとしみじみ思った。

義父が役員になるまで長年勤め上げたハーシーズの新しい工場が、彼の家の近所に建っていた。

義父の容態は一進一退で、緊急の連絡が入った時のためにスーツケースには数泊用の着替えを詰めてある。
夫はまた明日からペンシルバニアに向かい、眠りや排便を助けるための漢方を処方する。
義父はまだ死にたくないと言う。
気が済むまで生きて欲しいと思う。
わたしの父も、モルヒネを増量されて意識が混濁する直前まで、家に帰りたい、生きたい、天ぷらが食べたいと言い続けていた。
義父は自分でトイレに行きたいあまりに無理をして、ベッドから転落した。
咳がひどく、体力も落ち、食べることも飲むこともほとんどできず、酸素吸入をしても息苦しい。
けれども生きたいという気持ちを持ち続けている。
もし許されるなら、義父のためにピアノを演奏してあげたい。
彼はわたしがピアノを弾くのをいつもとても喜んでくれていた。
そういう時間が許されますように。
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青空の下で

2022年03月12日 | 家族とわたし
母は、自分が家を出た時は着の身着のままで追い出され、だからもちろん所持金も無く、近くの公民館の噴水の脇で長い間座っていたと言う。
わたしとはまるで違う話だ。
身動き一つできずに突っ立っていたわたしの脇を、スーツケースを持った彼女が通り過ぎた時に揺らいだ廊下の空気や、後ろを振り向きもせずに玄関に突進して行く彼女の背中の硬さを、わたしははっきりと覚えているというのに。
母は、靴に足を入れるのももどかしいほどに苛立ちながら玄関のドアを開け、そうしてそのまま出て行った。
「ママー!ママー!」と泣き叫びながら母を追おうとする弟を止め、そのまま廊下の隅にうずくまり、膝小僧におでこを乗せて息を整えていると、突然胸のあたりにぽっかりと、黒々とした穴が空き始めた。
それを見ながら、「ああ、胸に穴が空くというのは本当にあるんだな」と感心したことまで覚えている。
そしてその日は母の日だった。
でもそれは、もしかしたら、わたしの頭の中だけのことなのかもしれない。
母の日の翌日はもちろん月曜日で、だからわたしも弟も学校に行かなければならなかった。
弟は愚図ったが、こういう時こそお姉ちゃんなんだから弟を連れていつも通りに学校に行かなければならないと言う父の命を受けて、泣き腫らした目を瞬かせながら外に出た。
空は5月晴れで腹立たしいほどに輝いていた。
町も人も、どれもこれもがいつもと変わらず、どちらかというと活き活きと楽しげだった。
うなだれて歩く弟の手をひきながら、13歳のわたしは痛感した。
わたしたち姉弟の身の上に突然降りかかってきた不幸や悲しみや辛さは、誰にもわからないしわかってもらえない他人事なのだと。
カラカラに晴れた空の下で、そのことがくっきりと、まだ穴が空いたままのわたしの心に刻み込まれた。

その事件以降、追い討ちをかけるような事件が次々に起こって、わたしは何度も折れそうになったけど、それでも結局は生き延びて今に至っている。
そして生き延びられたのは、いつも誰かが手を差し伸べたり、陰で支えてくれたりしたからで、決して自分だけの力ではないことも知っている。

世の中で、大小関わらず事故や災害や戦争や家庭内の争いに巻き込まれた人たちのことを知るたびに、あの日の青空を思い出す。
そして見知らぬ人たちの心に思いを馳せる。
何も無かったかのように素知らぬ顔をしてやってくる日常に、憤ったり恨めしく思ったりした13歳のわたしを思い出しながら。

またあの日がやってきた。
時差があるから正確にはもう過ぎたのだけど、わたしの中の3.11への思いと祈りを今日一日持ち続けようと思う。
そして愚かな権力者たちの暴力で命を奪われる恐怖に苛まれている人たちが、1日も早く平安な毎日を取り戻せるよう祈り続けようと思う。
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2022年あけました!

2022年01月01日 | 家族とわたし
2022年、明けましておめでとうございます!

今回は、2年もの強制遠距離交際&別居結婚を経て、やっと一緒に暮らせるようになった長男くんの新妻さんTちゃんが加わって、夫とわたし、そして新婚夫婦の4人で新年を迎えました。
次男くんとガールフレンドのEちゃんは西海岸に引っ越してしまったので、今回は残念ながら一緒には年を越せなかったのだけど、なにはともあれ、みんな元気に、無事に、新たな年を迎えることができて本当にありがたいです。

昨日今日と、いつもの仕事と大晦日&お正月用の食材の買い足しと調理で朝から晩まで立ちっぱなしでしたが、若い二人にうまいうまいと言いながら食べてもらえて、もうそれだけで心はホカホカです。

ここ数年の年末はそれまで作ったことがない料理に挑戦することにしていて、といってもそんなたいそうなものではなくて、まあわたしでも作れる程度のものを選んで作っています。
今回はこれ。
大根の薄切りと生ハムをただただ重ねていくだけです。
挟み込む薬味は青じそと生姜と柚子の皮の千切り。食べるのは元旦のお昼。美味しいかなあ…。

特大の、高菜とおじゃこのお稲荷さん。

お正月料理は甘いものが多いので、口直しにナムルを。

これまでに一回も失敗したことがなかった伊達巻でしたが、フライパンを熱し足りなかったのか、初めてぱっくりと割れてしまいました。
まるで陰と陽😅
巻き簾でぎゅうぎゅうに巻いたらくっつくかな?


今年の年越し蕎麦はとろろ蕎麦にしました。
去年までずっと、まさに60年以上も、年越し蕎麦は年を越すその瞬間に食べなければならないと思い込んでいたわたしでしたが(だから息子たちはもちろんのこと、米国人夫もその犠牲に😭)、そうではなくて大晦日に食べたらいいと知り、今年は夕飯後の、ちょいと小腹が空いてきた頃にいただきました😅

ここ数週間でオミクロン株のコロナ感染がうなぎのぼりに増え、わたしたちの周りの知人や関係者の中にも感染した人が出てきました。
夫の患者さんの中にも感染者がいますが、漢方医としての知識と経験を生かし、いわゆる風邪の全ての段階(種類)の治療をしています。
遠隔(オンラインや電話)で治療することも可能です。
実は夫もわたしも、2週間ほど前から乾いた咳が出始め、半日単位で変わってくる症状に合わせて漢方薬を処方してもらい、それをせっせと飲み続けているうちに平常に戻りました。
もちろん症状が出た次の日にPCR検査を受け、軽くなってから簡易検査を受け、そしてさらにもう一度検査を受けたのですが、結果は全て陰性。
それでもやはり検査は100%正確ではないし、症状がすっかり無くなったとしても一日二日は飲み続けるのが漢方の治し方なのだそうで、今ではすっかり漢方薬ファンのわたしは、今回は一体どんな組み合わせになるんだろうなどと楽しみにしていたり…人ってここまで変われるもんなのですね😅

今年のカウントダウンは意外と人が集まっていてびっくり😵


これがまた感染拡大のきっかけにならなければいいが…などという心配などしなくてもいい世界が戻ってきますように!
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二人の辛抱が実った日

2021年08月01日 | 家族とわたし
2021年7月29日、とうとう二人の結婚手続きが完結しました。
長い長い2年間でした。
プライベートの話をブログに載せないでくれ、と再三言われているのですが、このイベントはわたしにとってもとても大切なものなので、あとで雷が落ちるのを覚悟して…😅
Tちゃんの就労ビザが切れて日本に戻らなくてはならなくなったのが2年前の7月。
別れ別れになる少し前に出かけた旅先で、夕日をバックにプロポーズをした息子Tに、その場でオッケーの返事を返してくれたと言うのを聞いてホッと一安心したのも束の間、その日から二人の長い遠距離交際が始まったのでした。
正式に婚姻届を出せるのはまだまだ先だと分かっていましたが、とにかく挙式だけは挙げようと明治神宮を予約した二人。
それが日本での新型コロナウイルスの感染問題が始まる直前の、2月末のことでした。
彼らの挙式記念日はだから、4年に一回しかやってきません😅
せっかく日本に行くのだからと2週間の日程を組んだのですが、結局米国の航空会社が便数を減らし始めたことを知り、式後の1週間をキャンセルしてこちらに戻ったら、なんのことはない、こちらのロックダウンが始まりました。

それからの1年半、インターネットを活用して、二人はお互いの思いを共有し、励まし合ってきたのでしょう。
彼らよりも周りの我々の方が、大丈夫だろうかと気をヤキモキさせていたような気がします。

本当におめでとうTak&Tak!(偶然に二人の名前の最初の3文字がTakなので)
婚姻式が行われる役所で

婚姻届を無事に出し終えた二人と証人となって同席した夫(コロナ禍でさえなかったらわたしも部屋に入れてもらえたのに😭)

母親になって35年、娘ができました😃
これから何年残っているかわからないけど、この世を卒業するその日まで、こんなですがよろしくね。

【おまけ写真】
息子たちの結婚手続きが無事終了した後に食べに行った『寿司麻布』のちらし寿司。絶品でした。
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空(クウ)と海(カイ)より、暑中お見舞い申し上げます!

2021年07月12日 | 家族とわたし
みなさまお久しぶりです。クウとカイです。いかがお過ごしでしょうか。
こちらは猛烈に暑い日が続いたかと思ったら、雨が降ったり止んだり、雷雨に暴風雨、何でもありの毎日が続いています。
ボクらは毛を剃るわけにもいかず、暑くなったり雨が降ったりする中、てきと〜に涼しい場所を見つけてはゴロゴロだらだらしながら過ごしております。

さて、裏庭の菜園では、ボクらには全く意味のない野菜がニョキニョキと育っています。

眩しいからあまり見上げないようにしている空には、モクモクとでっかい雲が泳いでいます。

先日ちょっと変な匂いがするムール貝を食べてしまったとーちゃんは、慌ててこんな飲み物を作っていました。
生姜湯に前庭からむしり取ってきた青紫蘇を入れたやつです。
漢方師の知恵ってやつでしょうか?

さて、昨日はとーちゃんの56回目の誕生日でした。
ちょうどとーちゃんの両親がマンハッタンに滞在してたので、みんなでお祝いしようということになりました。
かーちゃんととーちゃんの息子Tと1年半も前に挙式を済ませたのに、滞在ビザの取得に8ヶ月も待たされていたフィアンセTちゃんが、やっとのやっとビザを手に入れて渡米できたお祝いも兼ねて、6人でディナーです。
こういう場合、ボクらは全然楽しくありません。
変な時間に食べさせられて、けれどもちょっと物足りなくて、その後2人が帰ってくるまで延々待たされるからです。
そういう晩はイライラが募って取っ組み合いをしたり追いかけっこしたり、しょうがないからふて寝したりして過ごします。
まあでも、ひとりぼっちで留守番しなければならなかった先住猫のショーティよりはマシかもしれないんだけど、彼女に聞くことはできないから本当のところはわかりません。

とーちゃんたちはマンハッタンに行くのが久しぶり過ぎて、リンカーントンネル辺りの名物渋滞のことをすっかり忘れていたようです。
トンネル直前のスロープで車が止まってしまい、街の方を観ると…。

かーちゃんが大好きなエンパイアステートビルディングが、島の東側に新しく建てられたノッポビルに隠れて、ほとんど見えなくなっていました。
なんじゃこれは!とかあちゃんは大騒ぎしたのだそうです。

ボクらが生まれた街(空はクィーンズ、海はマンハッタン)は、コロナ禍以前の姿に戻りつつあるようです。



ダコタハウスのお隣が今日の目的地。


おまけ
ずっとずっと娘が欲しかったかあちゃんに、念願の娘ができました。
そのTちゃんがかあちゃんと一緒に初めて作ったお味噌を、T&T夫妻に小分けして届けてやろうと、かあちゃんは地下室から壷を運んできて、2年と4ヶ月ぶりに蓋を開けました。

重しの塩に溜り醤油が染み込んでいます。

塩の下はこんな感じ。
ああなんて美しいんやろ…と言いながら、かあちゃんはクンクン匂いを嗅いでいました。
全くカビが無いのもすごい!

2年4ヶ月もののお味噌です。
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クウとカイとスミとお別れのさびしさと

2021年04月28日 | 家族とわたし
空(クウ)と海(カイ)の外遊びの時間は朝8時から夕方6時まで。
朝は食べるのもそこそこにネコ窓から飛び出していき、夜は5時前から餌はまだか〜餌はまだか〜と、台所の床をグルグル歩き回っている。
冬の夕方6時は真っ暗であきらめもつくのだろうけど、夏時間はまだまだ明るい。
だから夕飯の後はこんなふうに、名残惜しそうに窓の外を眺めている。




危うく2匹の格好のトイレと化すところだった畑の移動が終わった。


土が多過ぎて今のところはまだちゃんと体裁を整えられないままだけど、歩くところに去年に切り倒されてしまった桐の大木の木屑を撒くことができた。
まるで散骨みたいだと思った。
木はもう跡形も無くなってしまったのだけど、こうやってまた一緒に居ることができるのが嬉しかった。
もっともっと長い間眺めていたかった桐の老木を思い出しながら撒いた。

クウ(黒猫)は畑の周りで時間を過ごすことが多い。


草ぼうぼうの庭で遊ぶクウとカイ。



ちょっと休憩。

一番手前の浅い畑には、根雪にも負けずにケールが大きく育ってくれてたのだけど…、

囲いを取り払ったらやっぱり、野生動物に食べられてしまった。

残った葉っぱを慌てて採ってベーコンと一緒に炒めていただいた。


土と戯れた週末が明け、また1週間が始まった。
今週の金曜日にカリフォルニアに移住する次男くんとガールフレンドが、捨てるにはもったいない食材を持ってくるというので、あんこ餅好きの二人のために、お餅と粒あんをお土産に持たせるべく、朝から材料のオーガニック小豆を買いに、車で半時間の所にあるコリアンマーケットに行った。
今年のお正月にも粒あんと黒豆をお土産に持たせたのだけど、大急ぎで炊いた粒あんが超〜美味しくなくて、遠くに離れてしまう前にどうしても、美味しいのを食べさせたかったのだった。
引越し直前のバタバタしている時にそんなものが欲しいかという心配もあったので事前に尋ねたら、ぜひぜひと言う。
多分わたしの気持ちを汲んでくれたのだろうと思いつつ、ついニヤニヤしてしまう単純な母…やれやれ…。
ランチは夫が作ったチキンスープの中につきたてのお餅を入れて食べた。

西海岸に実家がある彼女はともかく、次男くんにとってのそこは、ゲームのトーナメントに出かける程度の場所だった。
これまでは正社員であり、格ゲーと呼ばれるスポンサー付きのプロゲーマーであり、さらにYouTubeでストリーミングをするという大忙しの三股生活だったのだが、これからはゲームデザイナーとしてゲーム界の中枢にある会社で働く。
その会社が西海岸にあるので引っ越すのだけど、移動から家探しまで全て向こうがやってくれているらしく、まるでリゾートホテルのようなでっかいアパートメントで、ガールフレンドと愛犬の炭(スミ)くんと一緒に暮らすことになるらしい。
彼女もブートキャンプ講座で猛勉強して、たった半年でコンピューターエンジニアリングの資格を取り、次男くんの会社と同じ地域にある会社で働くことになった。
何から何まで万々歳で、新しく始まる生活にワクワクドキドキの二人なのだった。

そんな二人を見ていると、わたしも夫もとても嬉しい。
そしてやっぱり寂しい。
車で45分程度の所に住んでいても、会うのは1年に数回程度で、たまにLINEで話すぐらいだったのだけど、やっぱり物理的に飛行機で6時間もかかる所まで離れてしまうというのはね…。
もちろん日本よりはよっぽど近いけど。

留守番中のスミ。お利口だった。

アップで。


横からも。

ちょっと拗ねた。

手を握ってやるとウトウトした。


いつか向こうで会おうね、スミくん。
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花丸💮

2020年10月08日 | 家族とわたし
こ、恐い!
高速道路でこんな運び方されたらもう…😅


さて、漢方医の国家試験初挑戦の夫、合格いたしました!
あまりにも難しくて、試験後に手渡された合格仮通知書を見ても、なかなか信じられなかったようです。
夫が家に戻ってきた時には、もうレッスンが始まっていたので、生徒に内緒で「どうやったん?」と尋ねたんですが、イマイチはっきりとした返事が戻ってきません。
表情も暗い…。
モヤモヤしたままレッスン続行。
そしてちゃんと終えてからもう一度、「なあ、どうやったんよ?」と聞くと…。
渋い顔をしたまま「受かったみたい」。
ぎゃ〜😄
よかったよかったよかったや〜ん!
二人して台所でピョンピョン跳ねながら喜び合ったのでした。
でもやっぱり信じられないようで、でも通知書にははっきりと『合格』と、ぶっとい字で書かれているので、とりあえず信じとこ、ということに。

試験会場は社会的距離を取った机と椅子が並べられていて、席に何も持ち込まないように見ぐるみ剥がれた(?)後、持参したパソコンだけを手に着席。
問題は100問。時間は2時間半。
答えた内容やその時点で判明した実力に応じて、次の質問がどんどん変化していく方式らしく、多分夫はなかなか優秀であると判断されたからか、問題内容がどんどんと難解になっていったようです。
「難しいことはよくよく覚悟して行ったけど、あそこまでとは思わなかったので本当に大変だった」
ふむふむ…。

途中で何度も挫けそうになりながら、なんとかやり通せた3年間。
ほんまによう頑張りましたなあ。(まだまだいろんな所に本があるはず)

健康オタクの夫が鍼灸師になり、同時に興味をもった漢方薬を自分で飲み始めてからずっと、いつか漢方でも人助けができるようになりたいと言い出してから10年近く経ちました。
そんなら学校行って試験受けたらいいやん。
と思いましたが、挑戦しても最後まで続かない人が続出している現状を知っている夫は、なかなか踏ん切りがつきませんでした。
やっと決心してクラスが始まっても、何度も何度も止めるか続けるかと迷い続けていました。
でもとうとうこの日を迎えることができて、わたしも本当にホッとしています。
これで長年願っていた、鍼と漢方薬で困っている人たちを助けることができるのですから。
本当におめでとう!

というわけで、今週はお祝い週間ということで、夫は普段の倍ほどの値段のワインを買い、買い物がてら、ちょっとだけ高めのレストランにランチに行きました。

COVID-19騒動後、実に初めての、7ヶ月ぶりのお店の中での食事。
だだっ広くて天井がうんと高い店内ですが、お客はわたしたち二人だけでした。

辛さを指定するのを忘れ、もちろんお店の人たちは(いつものように)わたしのことを韓国人だと思い込んでいるので、超辛の海鮮豆腐スープが運ばれてきてしました😭

夫は漢方入りの牛肉スープ。


先日受けたPCR検査の結果はネガティブ。
夫の結果はまだ届いていませんが、多分大丈夫だと思います。

まずは何はともあれ、夫よおめでとう😃
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母の笑い声

2020年08月04日 | 家族とわたし
北アメリカ東海岸の真反対側、西海岸在住の、厄介な癌にかかった弟を、毎日電話することで支えている夫の姿を、よくまあ続くわと傍観すること早4年。
ふと気がついて、わたしも真似してみようと、頸椎の整形手術を受けてもなお足腰の痛みに苦しんでいる母に、インターネット電話を毎日かけるようになって1ヶ月半が経った。
始めた頃のことは、ここに書いた。

この頃から今までの間、痛みの軽減に効くと思われる健康機器や食品、そしてお茶や漢方を調べては伝え、色々と試してもらった。
母は85歳で足腰が弱り、トボトボとしか歩けない(母はそれが嫌で嫌でたまらない)のだけど、首から上は実に明晰で、最近になって手に入れたスマートフォンと新しいiPadを駆使している。
だからインターネットでの会話も検索も難なく出来るので、遠く離れたところに居るわたしでも何とか役に立たせてもらえるので助かる。
毎日話しているうちに、言葉や声の調子がだんだんと変わってきた。
「こんな人生もうイヤ!」とか、「何のために生きてるかわからん!」とか、何かというと口にしていた台詞を言わなくなった。
そうはいっても、治療ごとに、「変なとこばっかりに刺す」だの、「やってもらった方がしんどくなる」だのと、良いことは全く無いような口ぶりで、「それは経絡を考えて刺してるんやで」、「好転反応やで」と言っても聞く耳を持たない。
ここはとにかく、「もう止める」と母が言い出さないように気をつけながら話を聞いていたのだが、わたし以上に根気が良い先生のおかげで、文句が少しずつ減っていった。

2週間ほど経って、通うのが大変になってきたので、在宅治療に切り替えてもらった。
「保険適用にすると一回の治療費が安くなるので、少なくとも週に3回受けられますよ」と先生から提案があったのだけど、母はすぐに返事が出来なかった。
その保険を使うには、病院の診察と薬を断たねばならなかったからだ。
でも、痛みが激しいときに使っていた座薬の効き目が悪くなってきていたので、今が決め時かもしれない。
わたしは密かにそう思いながら、けれども母は自分で決めたい人なので、わたしからは何も言わずに待つことにした。
結局母は鍼灸治療のみを受けることにして、週3回の在宅治療が始まった。
鍼の先生のところには、遠い所から訪ねてくる人もいて、治療も鍼灸だけでは無いことがだんだんとわかってきた。
自分の話を3時間、延々と語っては泣き、また語っては泣いて、すっきりして帰っていく患者さんもいるらしい。
アプライドキネシオロジー(マッスルテスティング)を使ってアレルギーの有無を調べたり、母に合う楽な歩き方を教えてくれたりもする。
「あなたは栄養失調だ」と言い切って、母を憤慨させたりもする。
この件に関しては、東洋医学的に診てっていう話だからと、説明するのにかなり時間がかかった。
母にとっては初めてのことばかりで、いつもの母だったら毛嫌いしたり拒絶したり信じなかったりするのだけど、ありがたいことに今回は面白がっている。
きっと相性が合ったのだと思う。
なかなか無いことだから本当に嬉しい。
鍼灸と漢方、それから遠赤外線マットと矯正ベルトの着用、そして同じ姿勢を1時間以上続けないことを守ってもらううちに、突き刺さるような痛みが薄らいできた。
けれども、そんなふうに調子が良くなったと思ったらまた悪くなる。
全く眠れないまま夜が開けたり、トイレに行こうとしてバタンと倒れたり、痛みで目が覚めたり。
そんな時でも、絶望的な気持ちにならずに、また楽になる日が来ると思えるようになった。

♪〜幸せはー歩いて来ない、だーから歩いていくんだよ。一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる〜♪

これ、水前寺清子さんのヒット曲「365歩のマーチ」なんだけど(きっと昭和のど真ん中生まれでないと知らないかも)、母と話しているときにいつも歌う。
「もうええわ〜」って言われても歌う。
「三歩進んでも二歩下がったら一歩だけしか進まんかったってことやん」
「違うよ、二歩下がる時も歩いてるやん」
「なんで下がったかをよく考えると、その意味やら理由やらがわかってきて、次の一歩進むときに励みになったり役立ったりするかもしれんやん」
「そやし、歩みっていうのは進もうが後退しようが、全部大事で意味があることやねん」
えっへん!
と、ピアノ教師歴40年超えのプチ説教を始める。
いつもならそんな時は途中から話を変えたり邪魔したりする母が、最後まで聞いてくれるのでびっくりする。

室温や湿度が上がってきて、遠赤外線マットや矯正ベルトが使い辛くなるだろうと思い、除湿機や寝室用のエアコンを色々と探したのだけど、除湿機は全く役立たずで返品、エアコンは壁付け工事が不可能で却下、床置きクーラーも排熱ができないので諦めた。
居間のエアコンの設定温度を普通より低くして、部屋続きの母の寝室に扇風機で冷気を送ってこの夏は凌いでみよう。
それが今日の話のメインテーマだった。
こうやって毎日話していると、母は相談したいことが次々に出てくる人なんだということがわかる。
そんなこと聞かんでもわかるやんと言いたくなるようなことから始まって、わたしも一緒に頭を抱えるようなことまで、本当に次から次へと話題が出てくる。
でもその声が、一日一日明るく軽やかになってきて、それが本当に嬉しい。
最近では、母に邪険にされて縮こまっている事が多い義父も一緒に、よく笑ってる声が聞こえてくる。
また二歩下がる時もあるだろうけれど、365日、一緒に歩いて行こうと思う。
こんなので孝行なんていうのは厚かましいかもしれないけれど、わたしにほんわかとした嬉しさを感じさせてくれる母に心から感謝している。

タイトルの写真は、随分前の母の作品。
酉年のわたしにと銅板を彫ってくれた。
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